禅とは、丁寧にあなたの日常を生きる道Attentive Living as a Path of Zen
禅は、どこに最大の特徴があるのか。これはそもそも禅とは何かという根源的な問いでもありますが、今回は従来とは異なる視点でその点を明らかにしていきます。
まず、仏教哲学はその歴史から、多くの教団や宗派に分かれてきましたが、この認識を前提にすることで禅の位置を俯瞰することができます。そこで何が参考になるかと言うと、空海(774-835)による仏教の体系化です。異端の仏僧であった空海が何をやったかと言えば、当時既に混乱を極めていた仏教を体系的に整理して、各人それぞれに適した個別化を初めて提唱したということです。この背景には、多くの人々はどうしても宗教に入信しても、依存を強める傾向を避けられず、結局人生の大半を捧げても宗教的達成には至らないことがあります。特に仏教における信者の拡大は、イコールで政治的影響力に比例していた時代であったことから、空海の時代、各宗派は現代的に言えばフォロワー数を集めるために誇大宣伝や美辞麗句を駆使していたと言えます。この状況を分かりやすく言えば、現代のソーシャルメディアやYoutubeに典型的な広告依存型メディアと同質です。つまり、医療でさえどんどん個別化が進んでいる現在、信仰なども単なる「数」や「知名度」、あるいは「指導者」で選ぶのではなく、個々それぞれの人に適したものを選択することが必要となるため、従来の大きな母体を抱える宗教は先行きが怪しくなっているのです。これは自身の現在地を知り、最適な道を選択するという基本的なことですが、これがあまりにも難しいのが現実です。
空海の時代も、この状況は変わらないと言えます。大勢の人々は良くわからないが、信者数が多かったり、家族や友人が所属していたり、政治的影響力が強かったり、カリスマ的リーダーを擁する宗派に所属するからです。実際、仏教は『檀家』という制度が早くから樹立しており、これは個人ではなく、家(家系)単位で所属することから、個人の選択余地はありません。日本では今もこの制度は根強く残っており、浄土宗では『信徒』、浄土真宗では『門徒』と呼びますが、要するに一代限りではなく信者をキープするための制度であり、別段、個人の宗教的達成と関係するものではありません。
それでは、信者それぞれの人生の目的とは合わないことも多々起き、結果的に自身の生きる道から大きく逸れてしまうことも事実です。個人的に、空海はこの点に極端な不満を抱き、既成の仏教宗派のやり方に迎合せず、新たな道を探り、多くの人々を導く礎を築く決意を固めたと考えています。この点こそ、空海が唯一無二の存在だった根拠です。
空海の場合、その答えは日本になかったことから、『遣唐使』という当時行われていた制度を活用して、最大の文明国である唐に留学生として渡り、賢人たちから直接学びを得る機会を獲得します。こうして空海が先端知識を駆使して編み出した体系的理論が、『十住心論』としてまとめられました。同著は第53代・淳和天皇(在位: 823-833)からの依頼を受けて、混乱する仏教諸宗派を体系化した初の著作であり、830年頃に天皇に献上されました。特徴としては、単に宗派の違いをまとめたのではなく、『人間の心』という観点から総合的に宗教を捉え直した点です。そして空海は、『凡夫(普通の人々)』から最終的な『悟り』の境地に至るまでを10段階に分けて、特に当時の代表的な仏教を体系化することに成功します。
この概念自体は、日本でも中々理解が難しいのですが、内容自体はそれほど難解ではないため、まずは簡潔にまとめておきます。
- 異生羝羊心 - 煩悩にまみれた心
- 愚童持斎心 - 道徳の目覚め・儒教的境地
- 嬰童無畏心 - 超俗志向・インド哲学、老荘思想の境地
- 唯蘊無我心 - 小乗仏教のうち声聞の境地
- 抜業因種心 - 小乗仏教のうち縁覚の境地
- 他縁大乗心 - 大乗仏教のうち唯識・法相宗の境地
- 覚心不生心 - 大乗仏教のうち中観・三論宗の境地
- 一道無為心(如実知自心・空性無境心) - 大乗仏教のうち天台宗の境地
- 極無自性心 - 大乗仏教のうち華厳宗の境地
- 秘密荘厳心 - 真言密教の境地
この中で、1-9までを従来の仏教を意味する『顕教』と設定し、10を『密教』と位置付けたことは知られていますが、一体、空海はここで何が見えていたのでしょうか?注意が必要なのは、空海の時代に禅はまだ本格的な伝来が日本で起きていなかったということです。同じく遣唐使として唐に留学し、7世紀前半に中国からインドに向かって仏教研究の大きな礎を築いた玄奘三蔵(602-664)の元で学んだ道昭(629-700)、736年に唐から日本に来日した道璿(702-760)が伝えた『北宗の禅』、空海の最大のライバルといわれ、同じ時に唐に渡り、後に比叡山に天台宗を開いた最澄(767-822)などは禅の源流を持ち込んでいますが、発展には結びつきませんでした。本格的な日本の禅の発展は、やはり13世紀に栄西の臨済宗、道元の曹洞宗の登場を待たねばなりませんでした。
このため、『十住心論』は禅宗について触れていませんが、実は禅には一つの大きな特徴があると常々感じてきました。強引に言えば、禅は9の段階に位置すると言い得ますが、より正確に言えば、1-9を包摂した境地だということです。つまり、空海の境地である10には到達しないが、従来の細別化され、一つずつ段階をあげていく宗教的なイメージではなく、むしろ禅はそのようなことに真理はないと捉えることが肝心です。もう少し説明していきましょう。
真言密教は大日如来の信仰というよりも、大日如来それ自体と化すことに真髄があります。これを空海は『即身成仏』と呼び替えました。そして禅をその手前だと捉えても構わないのですが、重要なことは9の華厳宗とは考え方が全く異なることです。というのも、華厳宗は次は10の『秘密荘厳心』に到達しなければならない状態ですが、実は禅はそのような境地は神・仏のみが知ると捉えてしまい、あっさりとそうした境地を目指すこと自体を断念します。これが禅で言う『諦観』という概念です。『諦観』は単に自身の能力に見合っていないことから「諦める」という一般的なネガティブなニュアンスではなく、「本質を見極めること」です。私なりに言えば、本質を見極めれば、人間が大日如来の次元に到達できないことは明瞭に理解できる、だからこそ、そのような非現実的なことに生涯を捧げないということです。
つまり、禅の真髄は『諦観』にあります。ここが理解できた時、人は初めて、そのような境地は神や仏のみが知るのだから、どれだけ頭を働かせて、どれだけ祈り(実践)を捧げても、そこには到達できないと『悟る』のです。実は、禅というよりも人生は、ここから全てが始まります。言い換えれば、頭で禅を考え、何かを禅に基づいて実践する時、それは既に禅ではないということです。ここが歴史的に禅に対する誤認の源流であり、今も多くの人々が禅に関心を持ちながら、全く禅が何か理解できずに困惑している根拠です。禅に脳の領域は不要であり、禅に実践はありません。頭で考えることや実践は、禅から最も掛け離れた『煩悩』であり、この境地を脱することこそが禅の到達です。その時、『諦観』により『悟り』を得る。逆説的に聞こえるでしょうが、これが禅です。
だからこそ、その『悟り』に到達した禅はどうするかと言えば、ただ日常を丁寧に生きるだけです。今も勘違いしている人々が非常に多いのですが、禅は寺院に出向く必要もなければ、仏典を読む必要もない、ましてや誰かに禅の講義を受けたり、禅についての本を読む必要もありません。さらに瞑想も必要なく、ただあなたの日常を丁寧に生きることだけが肝心です。そのために瞑想が必要だと感じるなら、各々に日々静かに瞑想すれば良いだけのことです。この時に注意が要されるのは、『丁寧に生きる』ことと、『丁寧に生きようとする』ことは全く違うことです。なぜなら『丁寧に生きようとする』ことは、まさに頭を使い、実践になりますから、これも禅から離れてしまいます。
ある意味、私にとって禅とは、脳への過剰信仰と依存を脱することですが、これが『解脱』です。そもそも禅は『解脱』も何も説かず、教えません。そのようなこと自体が禅ではないからであり、ここを理解している禅僧は、歴史的に教義や実践を誰にも与えませんでした。そのことについて明確に初めて世界に発信したのが、鈴木大拙の主著『Introduction to Zen Buddhism』です。
つまり、便宜的に『禅哲学』と言っても、そこに何か理論的な思考や実践法があるわけではなく、仮にそのようなものがあったとすればそれは禅ではないということです。『禅を装ったパッケージ化』が現代では無数に見られますが、この問題を別にすれば、禅は誰かを模倣する必要さえありません。ただ、あなたの生活を丁寧に生きること、それが人生を生きることであり、それ自体が禅だということです。確かに密教はこの境地でさえ甘いと見做す性格を持ちますが、それはこの禅の状態に達して以降の話であり、特に現代人にとっては殆ど役立つものではありません。なぜなら、脳信仰の過剰と依存こそが現代の特徴であり、そこには何の『悟り』も『解脱』もなく、むしろこれらへの到達を妨げる最大の障壁となっているからです。その結果は現代的なドーパミン依存社会の実現になっていますが、この状態で禅を語る人々がいること自体、本来は信じがたいことです。私は禅僧ではないし、禅を学んだり、修行をしたこともありません。そのようなことをせずとも、禅の真理に到達することは可能です。
ただ、あなたの日常を丁寧に生きること。それが本来、個々に異なる『人生』です。この人生の基本中の基本に気付いた時、現代的な行き詰まり、いや、罠といってもいいですが、ここを脱する最初の一歩を踏み出します。他人と比べず、社会的成功を求めず、ただ自分自身の天命を生き抜くこと。禅は万人に常に開かれており、場所も信仰も特別なことも必要とはしません。とにかく脳を使わないこと、ここに終わりの見えない近代性を打破する最後の鍵があるのです。頭で考えるポストモダニズムや、それに付随するあらゆるイデオロギーは人々を救うことはなく、ただ混乱が高まるだけです。
あなたの人生は、私の人生ではない。
ここに禅があることを理解できれば、もう十分なのです。