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京都の読み解き方 秦氏と平安京Hata Clan's Hidden Role in Kyoto's Birth

何回か京都について記事を書いていますが、今回から、日本の主要観光地である京都の理解を誰よりも深め、他の旅行者よりも良質な体験を得るための導入口を開示していきます。つまり、ガイドブックには書かれていない『京都の読み解き方』です。

そもそも日本語の『京都』とは、「京の都」であり、これはかつて天皇の皇居(現在の京都御所)があったことに由来しています。ただ古くは天皇の御所があればどれも『京』などと呼ばれたため、現在の京都という地名は若干不思議な感じを受けます。ここから考えると、実は東京についても理解できます。なぜなら、明治に政治的な策略で天皇を京都から江戸に無理やり移住させた際、従来の『江戸』という徳川家の象徴性を継続して用いることを新政府の人々が嫌い、天皇を迎えることを名目に「東の京」を意味する『東京』に名前を改めたことに由来するからです。そのため東京は、戦前の一時期には「天皇(帝)の都」を意味する『帝都』とも呼ばれて差別化が行われ、新政府によるブランディングとして京都に対抗しました。

そして京都の場合、その歴史が始まるターニングポイントは、794年に初めて京都市内(京都盆地)に天皇の皇居と政治的中枢地が動いたことに始まります。これは歴史的に幾度も繰り返された「遷宮」や「遷都」と呼ばれますが、単に朝廷が動いたのではなく、その背後には当時の人々の思想が深く関係しています。ここを理解することが、京都の理解の根本となりますが、かなり理解が困難なことも事実です。特に現代から見ると、これらは非科学的な理由であり、かつかなりの呪術的要素があるからです。しかし、そこが平安京理解の最前線となります。

遷宮の歴史については、基本的には古事記よりも日本書紀の記述から考えることが一般的ですが、歴史過程で地名が変わるなどの影響から、過去に遷宮が行われた全ての場所が実定されているわけではなく、比定地や伝承地も多く含まれます。ただ基本的には京都に遷宮して平安京が始まる以前、奈良を中心に大阪、滋賀南部、京都南部などに遷宮されており、現在の京都市内にまで進出することはありませんでした。京都盆地はかなり広大で、一見すると奈良盆地に匹敵する農耕に適した土地に思えますが、なぜ当時の人々は京都盆地に進出しなかったのでしょうか?

一つ目の理由は、古代京都盆地南側には巨椋池という巨大な湖があり、大部分が湿地帯のような環境であったからです。現在の京都市内を見ると、観光客が動いている御所南側から東側は古くから湿地帯ではなく、居住可能な状態でしたが、一方で西側全域は湿地環境であったことから、生活するには適していませんでした。当時は既に、西日本では水田稲作の生活様式が広がっていたことから、湿地帯とは相性が合わず、中々進出することができずに放置されていたのです。しかし、ある時代に京都市西側に大きな変化が起きたことで、今日の京都誕生に繋がります。それが、新たな集団の進出です。

この新たな集団は、海を越えて大陸からやってきた人々です。大陸由来の治水や灌漑などの土木、養蚕や織物、鉄製道具を用いた武力や農具、さらには医療などの当時日本にとって先端技術を有する彼らは、推定4世紀末から5世紀頃に朝鮮半島経由で日本列島の九州北部に進出し、そこから一気に東に向かって拡散していきます。この集団は、後に『秦氏』と呼ばれますが、やがて京都市にまで進出してきます。この時、最初に彼らが拠点にしたのが、京都盆地で見ると最も西側に位置する嵐山(竹林の観光で有名な地域です)南部の松尾大社です。この松尾大社は、秦氏によって建立された神社という社伝が残りますが、実際にはそれ以前から在地の人々が暮らしていた土地に秦氏が入り、在地の神を奉祀しながら独自の信仰の本拠としました。その鍵は一神教にありますが、これについては別の機会に書きます。

以降、松尾大社は長らく秦氏によって運営された歴史があったのですが、以前お伝えしたように、明治期の神社における世襲禁止の影響を受けた古い神社の一つでもあります。この政策によって秦氏は松尾大社から追い出されてしまいますが、この松尾大社側(つまり京都盆地西側)を拠点にしていた秦氏が、『本家』と呼ばれる氏族の本流に位置します。本家があるということは分家があるわけで、実際、秦氏は京都盆地進出後、一つの系譜が東側に進出しようとした痕跡が残っています。その分家の本拠こそ、鳥居が無数に並ぶ光景で有名な伏見稲荷大社です。ここも秦氏に関係します。

ですが、この秦氏の京都盆地進出における西の松尾大社、東の伏見稲荷大社の構図には違和感があります。なぜなら伏見稲荷大社は、松尾大社から見て東側というよりは、辺鄙な南東に位置するからです。ここに平安京以前の京都の興味深い姿があります。つまり、秦氏は一旦は東側に進出を試みるも、阻まれたということです。それを阻んだのが、前述した先に暮らしていた人々です。彼らは主に現在の下鴨神社近郊を拠点に暮らしていました。この地域は以前書いたように、地下水が豊富で生活に適していました。

秦氏は東の進出を達成できなかったことから、湿地環境の開拓を余儀なくされ、独自の技術を駆使してどんどん開拓していきます。実際、現在でも京都市西側には『太秦』などの秦氏に由来する地名が多く残っており、秦氏の古墳なども残されています。さらに嵐山近郊を流れる川は、古くは「葛野川(かどのかわ)」と呼ばれましたが、現在では渡月橋のある上流の大堰川、さらに下流の桂川と呼ばれます。この川は古くから氾濫が絶えなかったことから、秦氏が新たな『井堰』という技術を使って氾濫を抑止した痕跡が今も残っています。これは水田稲作にとって重大な河川の洪水を回避するための新たな技術でしたが、一説には秦の時代に中国四川省の成都郊外に築かれた井堰と類似しているとも言われています。そもそも秦氏の名前の由来は不明ですが、漢字を見ると、古代中国を初めて統一した『秦』をそのまま採用していることから、何かしらの関係性が考えられます。

こうして未開の土地だった京都市西側を開拓し続けた秦氏は、同時に当時の政治中枢地だった奈良界隈に莫大な献金、技術提供(特に武器)などを利用しながら、歳月をかけて天皇家との関係を構築し、政治力を獲得します。

そして当時、奈良盆地を動き回っていた遷宮には、ある一つの事情がありました。それが、『祟り』です。天皇家は現在では大人しい日本の象徴的存在に思えるでしょうが、歴史的には皇位継承を巡る争いが絶えない人々でもありました。その過程で大勢が暗殺されたり、幾度も転覆や乗っ取りが起きたのですが、その度に殺した敵の怨霊による祟りへの不安がありました。祟りは古代日本を読み解く重要なファクターで、祟りの現象化は天皇、近親者の原因不明の病、政治動乱、飢饉、凶作、疫病、気候変動、外からの襲来など多岐に渡りますが、彼らにとって祟りをいかに回避、鎮めるかは死活問題でした。この祟りの対処において歴史上最も暗躍したのが、役小角であり、彼の系譜が後に平安京の守護者となる陰陽道の安倍晴明に繋がっていきます。

やがて暗殺に次ぐ暗殺で天皇に即位する血生臭い歴史の中で、歴史上最強の祟りを持つ怨霊が登場したことで、ついに数百年繁栄した奈良盆地を放棄して新天地を求めなければならないほど、天皇家は追い込まれます。実は、これが794年に平安京の遷宮が起きた理由です。即座に土地を放棄して、逃げ出さなければならないほど強力な祟りに悩まされていたのです。そしてこの新天地の遷宮において莫大な予算、さらに祟りを避ける呪術的な配備までをパッケージ化して、提供する申し入れを行い、一気に政治的影響力を高めてフィクサーとなったのが秦氏だったのです。

次は今回の記事を踏まえて、この興味深い平安京遷宮の背景について見ていくことにします。