C:\SHITSURAE\> TYPE SJ098.TXT

SJ098.TXT2025-04-2517KB

動物信仰から見る古代日本の変動Ancient Japan's Shifts Through Animal Worship

古代日本の実態は、未だ多くの謎に包まれています。これまで考古学、民俗学、文化人類学や遺伝子学の先人たちが素晴らしい成果を集積してきましたが、全貌の解明には遠く及びません。特に日本で歴史時代以前と呼ばれる縄文、弥生、古墳時代は文字文化を有していなかったことから、中々実態が掴みきれずに錯綜しながら今日に至ります。それでも諸々の成果を踏まえれば、興味深い古代日本史が理解できるのも事実です。

例えば、これまで縄文人は一つにまとまった集団だったという前提で調査が進められてきましたが、昨今、実は縄文人も多様なルーツを持つ人々の重なりであったことが徐々に明らかとなっています。さらに列島の人々の主なルーツには、先住の縄文人、北東アジアにルーツを持つ弥生人、東アジアにルーツを持つ古墳人の三つの流れが大きく関わっていることが示され始めており、水田稲作技術を持ち込んだのは古墳人であることから、歴史区分の見直しが急速に進められています。こうした指摘は、興味深いことに神話や伝承を記す古事記(712)などの世界観と一致するものが多く、神話には古代日本で起きた歴史の一端が、思想によって異なる様態で創造された可能性が見えてきました。私自身も多角的に独自調査を進めてきましたが、古事記の神話が重要なファクターであるという確信を持ち、常に基盤に据えています。そこで今回は、異なる流れに連なる縄文人と弥生人の信仰の違いについて、彼らが奉祀した神聖な動物の観点から見ていきます。

奈良に旅行で訪れたことのある読者ならば、奈良公園付近に多く生息する鹿を目にしたことでしょう。鹿は古くから日本各地で『神の使い』と考えられたと言われており、特に春日大社のある奈良では信仰対象となってきました。そのため、まるでインドの牛のように、奈良、さらには広島の厳島神社などでは鹿を野放しにするしかなく、数を調整できずに繁殖しています。この結果、日本各地で鹿による被害が多発して人々の頭を悩ませており、農地が枯れたり、山が枯れたりする事態にまで達しています。しかし、奈良の人々に話を聞いても、なぜ鹿が信仰されているかについて詳しい人はいません。一体、鹿の信仰はいつ頃に起源を持つのでしょうか?

答えは、考古学で発見された古代遺物にあります。縄文人は名前の通り、土器を無数に制作しましたが、縄目などで紋様を刻印することはあっても絵画を描くことは極めて稀で、動物は考古学で『土製品』と呼ばれる粘土状の造形物で無数に制作しています。これまでの研究から、縄文人の制作した土製品において、動物を象徴した中で最も多いのはイノシシであり、全体の半数を占めることが分かっています。ですが不思議なことに、鹿はゼロに等しいほどありません。鹿自体は縄文時代から存在しており、かつ狩猟採集が基本だった彼らにとって、イノシシと鹿は食料として双璧と言われるほど重要でした。つまり重要性自体はイノシシと鹿に差異はなかったにも関わらず、なぜか縄文人はイノシシを信仰し、鹿を信仰した痕跡は殆ど見られません。

この状況は縄文時代の約1万年程度続きますが、続いて北東アジアの西遼河近郊にルーツを持ち、雑穀農耕(主にヒエ、キビ、アワなど)や芋栽培を行う弥生人が日本へ到来して以降、この動物信仰に極端な変化が生じます。弥生時代に入ると、縄文時代に隆盛したイノシシへの信仰が急速に衰退し、一転して縄文時代には見られなかった鹿の信仰が隆盛するのです。そして全てではないものの、弥生人は土器に絵画を記す傾向があり、また銅鐸と呼ばれる弥生人の重要な祭祀道具にも祭祀風景などが刻印される傾向にあります。面白いことに、弥生時代になると鹿のモチーフが圧倒的に増加するのですが、なぜか弥生人は土器に描く鹿と、銅鐸に刻印する鹿を明確に使い分けています。土器にはツノの生えた鹿が多く描かれますが、逆に銅鐸ではツノのない鹿が多く描かれます。これは、どういうことなのでしょうか?

この研究に重要な礎を築いたのが、考古学者で弥生時代研究の先頭に立った春成秀爾です。春成は、1989年にそれまで集積していた弥生時代の研究をまとめ、銅鐸に描かれた絵画の数を詳細に分析する初の功績を残します。それによると、鹿が135(32.9%)、人物が59(15.2%)、魚が40(10.3%)、鳥が27(6.9%)、イノシシ23(5.9%)で、建物は2(0.5%)となっています。動物だけに限ると、鹿は63.4%にも及び、続いて鳥が43.9%と続きますが、これは弥生人の祭祀における絵画では、頻繁に女性の巫女が鳥の装束を着用して儀式を行なっていたことにも関連しています。おそらく、朝鮮半島から海を渡る際に鳥の導きという象徴性が重要だった痕跡です。

さらに弥生時代の土器の絵画では、鹿が88(41.1%)、建物が46(21.5%)、人物が26(12.1%)、龍が14(6.5%)、鳥が13(6.1%)で、イノシシは僅か1つだけ描かれているに過ぎません。それ以降、この研究は1996年頃に考古学者の橋本裕行に継承されてまとめられますが、その後の7年間で各地で発見物が増加して類例が増えても、この比率・順位に変動はなく、弥生時代の絵画土器の主要モチーフが鹿であることは変わりませんでした。

このイノシシから鹿への変動は、実は日本における農耕の始まりをトリガーとしています。縄文人も栗、さらに部分的に雑穀や麻などの栽培を行なっていたと考えられていますが、大きく農耕技術が発展したのは弥生時代以降です。しかしここで問題は、なぜ農耕の始まりと共に、イノシシから鹿への象徴性の移行が起きたかです。ここは実に興味深いのですが、その根拠は鹿と稲の生育過程の共通性にあります。古代日本の鹿は『ニホンジカ』と呼ばれますが、このニホンジカが発情する季節は、稲穂が実を結ぶ10-11月です。さらにニホンジカの出産期は5月で、稲種が苗代で発芽・再生する季節と一致します。そしてニホンジカのオスは4歳以降になると枝分かれしたツノを持つようになりますが、このツノは初夏の時期に柔らかい『鹿茸』を生じ、夏をかけて成長し、冬にかけて脱落します。端的に言えば、鹿(ツノ)と稲の生命サイクルが一致している事実があるのです(この詳細は別途記します)。

実際、弥生時代の祭祀において秘儀のように使用されていたのが、鹿のツノでした。これは古事記の神話にも登場し、弥生人と鹿のツノが密接に祭祀の次元にまで関わっていたことを彷彿とさせ、農耕の収穫を予期する占いなどにも極めて重大だったことを物語っています。これは弥生人が鹿を『地霊』(大地の神霊を鎮める)と捉えて信仰したことを示唆しており、さらに弥生時代以降、西日本では鹿の狩猟率が低下しているという点が考古学から指摘されています。私は常に古代日本を見る際、西日本だけを見ると実態が見えなくなるため、対比するために北東北を調査し続けていますが、確かに北東北には鹿を奉祀する傾向は見られず、むしろイノシシや熊の信仰が多く、逆に奈良の春日大社や広島の厳島神社などでは、鹿を信仰している痕跡が今も残っています。この背景には北東北が歴史的に縄文人の系譜を引いており、西日本は弥生人の系譜が強く残っているからだと考えられます。

実際、同じような信仰性質はなくとも、以前、沖縄の慶良間諸島に出向いた時、固有種のケラマジカが今も野生で大切にされている姿を見て、西日本(特に沖縄地域は弥生系の文化が強く残っています)は鹿を信仰する弥生人の習俗が、続いて登場する古墳人に継承されて発展するも、東日本(特に北東北)では縄文人の系譜が長く続いたことから、そうした変移は起きなかった可能性があります。

当然、鹿に限らず、弥生人は不思議な習俗を多数有しており、中国・朝鮮経由で流入した鳥信仰、さらには龍信仰が始まった時代でもあります。今回は基礎的にイノシシと鹿の信仰を見たので、次回はこの辺りにも触れてみたいと思います。なぜならば、この弥生時代の最大の特徴が、女性の巫女を首長とする呪術的な統治にあったからです。