高梁市・備中松山城と山田方谷Takahashi: A Hidden Jewel in Japan's Mountains
今日は、岡山県の山奥にある高梁市に来ています。この場所は日本人にも殆ど知られていない辺鄙な山間にある小さな街ですが、前々から訪れたかった場所です。その理由は二つあります。一つは、日本一美しい山頂に建造された城が現存していること。もう一つは、この地でかつて日本史に残る重要な仕事を成し遂げた尊敬する人物が存在したからです。
岡山県高梁市は、かつて「備中松山」と呼ばれ、東西南北の交差点にある要所として、歴史的に13世紀頃から武士たちが覇権を巡って争いを繰り広げた土地です。1871年の明治期に岡山県となりましたが、かつては『美作』、『備中』、『備後』、そして一部は『備後』として大きく地域の性格が分かれており、中でも南北に長い備中は、瀬戸内海と日本海側の鳥取・島根などに隣接する険しい山岳地帯に存在しました。
江戸時代には全国に170箇所もあったと言われる日本の城は、幕末の動乱期に建て続いた戦や、明治新政府の政策によって廃棄・焼き討ちに遭い、さらに第二次世界大戦で米軍の空襲で焼けたことから、江戸時代までに建造された天守が存在する城は全国に12箇所しかありません。その大部分は平地にあり、比較的来訪しやすいことから現在では観光地として整備されていますが、この高梁市にある備中松山城は、日本で唯一、山頂に天守閣が現存する城として知られています。
例えば、観光地として知られる愛媛県松山市の松山城も山頂にありますが、こちらは1852年に再建された新しい城であり、観光客が来訪しやすいようにロープウェイを繋げて観光整備されています。しかし、備中松山城は険しい標高480mの臥牛山にありながら、観光地として整備されておらず、ロープウェイなどもないことから、麓から山道を登山して来訪しなければなりません(車やバスで8合目まで行くこともできます)。今日は、麓の街から城まで1時間半かけて歩いてきました。
なぜこれほど美しい備中松山城が観光整備されていないかと言うと、一つの理由に幕末の状況が深く影響します。当時、天皇による統治を掲げた長州や薩摩の新政府が覇権を握ると、旧来の幕府についた諸藩は「朝敵」とみなされ、それらの息の根をとめるために1868年から戊辰戦争が勃発します。この時、新政府側と敵対した藩の連合は結果的に敗北しますが、この明治初期の力学が今も遺恨を残しています。
明治新政府は城を古い体制の象徴とみなしたことから、各地の城を廃棄するなど次々と行動を起こします。しかし、幸いにも山間の山頂にあった備中松山城は、廃棄するにも莫大な労力を要することから放置されます。これが結果的に備中松山城が現存する直接的な原因となったのですが、この城は江戸時代の1683年に修繕されたまま今日に至ります。これが日本の歴史探究を愛する人々から崇拝される理由なのですが、険しい山を登った先に聳える備中松山城は、日本全国の城を巡ってきた私も感嘆するほど美しい光景です。
また、もう一つ今回高梁市を訪れた理由が、江戸時代後期から幕末に備中松山城で大活躍した儒学者の山田方谷(1805-1877)を調査するためです。山田方谷は同地に生まれ、4歳の時には既に秀才が認められるなど数々の痕跡を残しますが、京都や江戸に留学する中で、当時の儒学者の賢人たちと出会い、数多くの知古を得ます。そして才覚が評価されて備中松山藩の藩主の側近として登用されます。
初期的には藩の設立した学校の学頭に命じられ、若者たちに深い影響を与えますが、当時の藩は極度の財政難に苦しんでおり、大阪の金貸しからの催促が絶えない状況でした。何しろ現在の金額換算で300億円相当の負債を抱えており、毎年、藩の収入を全て借金の返済にあてても全く足りない次元でした。
そこで藩主は、土地の民から絶大な信頼を得ていた山田方谷を最高財政責任者として登用し、方谷を高く評価していた藩主自ら「方谷の政策は全て私の意志だ」と民に述べて、財政立て直しの全権限を方谷に任せます。その後、方谷は幾多の改革を展開し、7年間をかけて全借金を返済した上、さらに300億円相当の蓄財に成功します。この大偉業は幕府や各地の藩を驚愕させ、幕末に向けて体制が揺らいでいた徳川幕府は、備中松山藩の藩主であった板倉勝静を幕府の要職に赴任させて江戸に住まわし、方谷も政治顧問として動乱期の幕政に関与します。
その後も極めて難儀な激動の時代を冷静に見極めながら、金や地位などの欲望に一切惑わされず、最後まで藩主を支え抜き、備中松山の民の生活を誰よりも考えました。その名前は全国に知られていたため、徳川幕府が崩壊して新政府が誕生すると、国政の要職の依頼が立て込みます。しかし方谷は全て断り、故郷に帰って若者の教育に生涯を捧げます。
何よりも驚くべきことに、日本の学校教育ではこの山田方谷の名前は一度も登場しません。そのため、日本人の殆どが彼の名前も功績も知らないのです。しかし、同地の民から絶大な尊敬を得ていた方谷は、今も高梁市を代表する人物として尊敬され続けており、街を歩くと各所で山田方谷の名前を目にします。今回の旅では、山田方谷の子孫の方からも直接お話しを伺うことができ、尊敬する方谷が愛し、生涯を捧げた土地を巡り深い感慨を受けました。
世界的な大観光時代で、どこもかしこも整備されてしまう時代ですが、備中松山のように、知らなければ決して訪れることのないような場所には、本当の古き良き日本が残っています。高梁川の水の恵みから作られる蕎麦や餅も美味しく、山田方谷の影響が今も民に受け継がれており、山間部にありながらも、土地の人々が非常に優しいのも素晴らしい。このような場所は、現在日本でも皆無に等しく、日本の城や歴史に興味がある旅行者は、ぜひとも来訪すべき場所だと思います。
Takahashi: Hidden Jewel of Japan’s Mountains