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鳥取砂丘と植田正治Tottori Sand Dunes: A Landscape Shaped by Nature and Human Ingenuity

鳥取県にある鳥取砂丘は、年間100万人もの観光客が訪れる有名な景勝地として知られています。約10万年前頃から、近郊の千代川が日本海に流れ込む際に運んだ土砂が、歳月をかけて海流や季節風によって海岸線に蓄積されるようになり、やがて現在の砂丘が形成されたと考えられています。

しかし、古くから周辺の農地に砂の飛散や侵食が起きて作物が育たなくなる土地固有の問題が頻繁に起きたため、この地域に住む人々にとって、砂は生活上の脅威となってきました。このような特殊な自然環境との共生は、日本でも唯一鳥取だけです。

そうした事情から、江戸時代後期から明治時代にかけて、鳥取藩や明治政府は砂の被害を予防するために様々な施策を行いますが、その時から松の植林が砂の防止に効果的であることが知られていました。

そこで鳥取生まれの農学者である中井太一(1830-1913)を筆頭に、クロマツの植栽が進められます。これが今日、鳥取砂丘を訪れると周辺に松林が広がっている理由です。実はこれらは自然に自生したのではなく、砂の被害を防止するための有効な対処法であり、砂丘との共生における人々の知恵だったのです。

実際、この時代の苦労が身を結び、現在では300万本程度の植林が行われており、砂丘が被害を及ぼすことを見事に回避しています。また二十世紀が始まると、鳥取砂丘という日本有数の特殊な条件を活かした農業が次々と実験されていきます。砂漠とは違い、砂丘は少し掘ると湿っているため、砂地の排水性を活用した鳥取独自の農業が発展し、ラッキョウ、スイカ、メロンなどが今も栽培されています。

第二次世界大戦中には、砂丘の一部は軍事演習場として利用されます。そのため、せっかく植林した松林が破壊されてしまい、再び砂丘の侵食が激しく進行する問題が表面化しました。結果的に戦後になって再び植林などが行われたことで、現在の姿に至ります。つまり、鳥取砂丘は自然による10万年をかけた景観と、人間の苦労が合わさって形成された興味深い場所の一つなのです。

戦後日本が経済復興に向かう過程で、観光地として人気を集めた鳥取砂丘ですが、今度は当時のオーバーツーリズムによって砂丘が荒れる問題が起きます。それ以降、地元の人々が砂丘の独自環境の保護を前提としながら、同時に観光振興を行う両立的な取り組みが推進されていき、特に1980年代以降には環境保護活動に注力されてきました。

今も砂丘は風や波による侵食にさらされていることから、継続的な砂の保全、さらには植林地の管理が必要とされていますが、新たな問題として、鳥取県は全国でも有数の衰退地域であり、過疎化と財政難によって持続的な保護活動が難しくなってきているのが現在です。

この砂丘独自の自然環境は、20世紀を通じて興味深い作品の舞台や着想となってきました。以前、奈良に生まれて、死ぬまで奈良を撮影し続けた写真家の入江泰吉について書きましたが、実は鳥取にも同じような優れた写真家が存在しました。それが植田正治(1913-2000)です。

鳥取に生まれた植田は、都市部で活発化する写真の芸術運動などとは無縁に、ひたむきに故郷の写真を70年も撮り続けます。しかし、そこには常に独創性を生み出すための激しい格闘がありました。

特に戦後日本の写真界では、戦時中の軍部による検閲や方針に準じる必要があったことから、写真家たちは自分たちの撮りたい写真や芸術表現を追求することは禁じられていました。そこで戦後、その不満が爆発するように、著名な写真家であった土門拳がリアリズム写真を提唱、新たな写真運動は全国規模に大きな影響を与えます。

しかし植田は都市部のリアリズム運動には迎合せず、必死に自らの表現を模索し続けた結果、「演出写真」という新しい表現を生み出します。彼の独創性は単なる演出力に限らず、故郷の風景を「巨大なホリゾント」と捉えて自然景観をスタジオに置き換えた辺りが秀逸でした。このような表現方法は当時の写真界では誰も考えていなかったのです。

植田が大きく注目されたきっかけは、鳥取砂丘を舞台に演出写真を発表したことです。特に1950年代は砂丘の表情や造形に着目した作品を発表するなど、故郷の違った見方を次々と提案し、大都市圏以外に住むアマチュアカメラマンを鼓舞します。

さらに砂丘を舞台にした有名な作品と言えば、現在までに世界20言語で翻訳された安倍公房の小説『砂の女』(1962年)を挙げることができます。まるで蟻地獄に落ちた蟻のように、主人公が砂丘の世界から脱することのできないモチーフが、当時の社会に鬱積を抱えながらも逃れることができない多くの若者たちの心に響きます。同作は1964年に勅使河原宏によって映画化されており、撮影自体は静岡県の砂丘で行われたのですが、鳥取砂丘にも大きな注目が集まる契機となりました。

このように、鳥取砂丘は日本でも特殊な環境でありながら、多くの生活の知恵が生まれ、さらには芸術作品にまで影響力を与えてきました。残念なことに、この景観は徐々に鳥取県の状況が影響して維持できなくなってきており、もしかすると今後、今のような砂丘の姿を楽しむことができなくなるかもしれません。