C:\SHITSURAE\> TYPE SJ047.TXT

SJ047.TXT2025-02-1311KB

日本映画の1900年代:初の常設館ができた時代The 1900s of Japanese Cinema: The Era When the First Permanent Theater Was Established

この記事では、日本で映画が産業として始まる決定的な転機となった1900年代初頭についてです。

日本映画の歴史は、すべて輸入から始まりますが、厄介なことに複数の機材が同年代に異なる業者や人々を通じて輸入されたことや、それらの記録がほとんど当事者たちの記憶に頼っているため、全貌は今も複雑混沌としています。それでも今日に至るまで、主要な映画産業国の一角であった日本を知ることは大切です。

まず、概ね1890年代中期から後半にかけて、映画産業の黎明期が始まります。1896年秋にキネトスコープが神戸に輸入されたことで、日本映画史は幕を開けますが、同じ頃に横浜でも輸入されています。しかも翌1897年春には、シネマトグラフやヴァイタスコープが相次いで輸入されます。

当時は全く技術的な知見がなかったため、悪戦苦闘を経ながら最初の興行が始まりますが、この時から既に、映画の主な動きは東京圏と大阪圏に勢力が二分化されていました。ここが後の映画産業に大きな影響を及ぼします。そして映画機材やフィルム輸入の先頭に立ったのは、西洋に留学した人々でした。

彼らは、各国からフィルム素材を持ち帰ったりすることで、日本で試験的に興行を行うと、すぐに全国規模に展開しています。しかし、技術的問題や素材の限定性などの課題が多く、なかなか定着するには至りませんでした。

この流れに準じて国産の映画製作も実験的に始まりますが、こちらも相当な苦難があったことが伝えられています。そうした中で、全国興行の側面から道を切り開いたのが、大阪生まれの駒田好洋という人物でした。

実際、彼が10年ほど映画公開のために出向いた土地や劇場を参照すると、ほとんど全国規模に及ぶことに驚かされます。駒田の興行は地方の村落でも毎年の楽しみとなっており、非常な人気を博したと言われています。

当時はまだ交通網も発達しておらず、上映に必要な電気をまともに確保できない状況でした。そのような中にあっても、駒田は淡々と映画を伝える人生を送ります。この駒田と双璧を成して競争したのが、京都生まれの横田栄之助です。

両者の性格としては、駒田が華々しい興行に長けていたのに対し、横田は実務的な側面に長けていました。彼らはわずかなフィルムを持って旅をする日々を送り、全国各地に出向いたため、日本人の映画に対する興味を惹きつけることに大きく貢献しました。彼らの功績がなければ、ここまで日本人が映画を好むことはなかったかもしれません。

それでも、映画が事業として基盤を固めることはありませんでした。特に映画の上映は、かなりゲリラ的な開催にとどまっていたため、安定的な売り上げを出す常設館の設置には至らず、中々実務的に将来を感じることができない状況が続きます。

しかし、日本に映画技術が入ってから4年ほどが経った頃、思わぬ時勢の変化によって映画産業勃興の兆しが生まれます。それが戦争でした。

1900年に中国で起きた北清事変を契機として、1902年にかけて海外フィルムの輸入が加速します。また、各国でも技術水準が上がったため、徐々に長時間の上映が可能となっていきます。日本では1903年頃になると、相当数のフィルムがストックされたため、同じ劇場で1ヵ月や2ヵ月の長期的な興行を行うことができるようになりました。例えば、大阪では4月から6月にかけて、3ヵ月に及ぶ興行を成し遂げています。

こうした新たな潮流を受けて、ついに日本初の映画専門劇場が1903年10月に東京浅草公園の近くにオープンします。ですが、この時までに上映されていた映画は、子供の興味をそそりましたが、大人は一時的な興味で冷めてしまっていました。

映画が産業として持続的に発展するには、当然ながら大人の観客層を長期的に確保しなければなりません。その時、日本の映画史を一変させる大きな事件が起きます。実は、日本で映画産業が花開くことになった出来事は、日露戦争(1904–1905)でした。

西洋の映画カメラマンが日露戦争の撮影を求めて戦地に出向きますが、日本の映画カメラマンはまだ数が少なく、技術的にも太刀打ちできませんでした。しかし、藤原幸三郎という日本人カメラマンが日露戦争を撮影し、その素材を持ち帰って上映したことで、人々の関心が変貌します。

戦況を日本にいながら見ることができるという新たな時代の到来は、人々を熱狂させました。ここで躍動したのが、先ほど紹介した横田でした。これまで横田は淡々と実務的側面から興行を行っていましたが、日露戦争を受けて、ついに事業家としての才能を発揮します。

彼は好機だと見て、即座に人材を募り、全国各地を11ルートに設定し、興行を行うグループを11に分けて、効率的に上映活動を展開します。これにより莫大な利益が上がったことから、ようやく日本映画の産業化が本格的に始まったのです。