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日本から侍が消えた日:侍の解体から軍隊の樹立へThe Day the Samurai Disappeared from Japan: From Their Dismantling to the Establishment of the Military

この記事では、日本が明治維新を終えて新たな時代に突入し、スムーズに軍隊を樹立できた背景にあった侍の末路についてです。

日本が軍隊を創設したのは、1868年の明治維新から、約4年ほど経った1873年1月です。これは政府による徴兵制の始まりですが、この制度は段階的な改良を経て、第二次世界大戦の敗戦を迎えて陸海軍が解体された1945年まで続きます。ですが、日本の軍制がスムーズに整備された背景には、江戸時代まで続いた侍の新時代における処遇が影響していました。

中でも注目すべきは、江戸時代を通じて行われた侍に対する俸給制度の解体です。これは非常に慎重に行われました。

特に戦後の映画を通じて「侍のイメージ」が恣意的に拡散したため、意外に理解されていないのですが、実は侍は江戸時代には既に官僚化しています。実際に侍の大半は、幕府や藩に登用される身分であり、ほとんどの場合、俸給が支払われていました。

一般的には、徳川家による江戸時代における侍階級をひっくるめて、「領主階級」と捉える傾向がありますが、これは完全な誤認です。そもそも江戸時代が封建的だと教えられ始めたのは、敗戦後の教育方針の転換が強く影響しています。実は戦前まで、江戸時代が封建的だと言う認識は、それほど強いものではありませんでした。

このことから「侍」自体の定義を見直す必要があります。まず、全ての侍が領主階級とイコールだと言う典型的な認識は、大きな誤りです。なぜならば、一口に侍といっても、大名やその近辺の侍集団と、下級侍とでは大きな差があったからです。

事実、明治維新は下級侍を主軸とする、大名などに対する革命の性質がありました。特にその傾向が強かったのが、明治維新の主役であった長州藩の侍です。彼らは、当時から見ると下級侍の集団です。

この下級侍による明治維新が成功したことで、新政府は大きな制度改革を標榜します。ここで目的に設定されたのが、「秩禄処分(1876年)」と呼ばれた政策の実行です。これは江戸時代の藩制を解体する目論見で発布されましたが、つまり領主制の解体を目指したものです。

この時、各地域の藩に属していた侍集団は、新政府にとって不要な存在とみなされます。特に新政府は急速に新時代の体制を構築しようと試みたことから、早い段階で財政難に陥っていました。逼迫する財政的見地からも、速やかに彼らの俸給制度を打ち切ることが、当面の問題となりました。

しかし、260年も続いた俸給制度によって生活を続けてきた階級の高い侍集団に対して、いきなり諸制度を廃止すると大きな混乱をもたらします。この時代はまだ多くの侍が日本各地にいたため、武装している侍階級に対する措置を少しでも誤ると、新政府に対する別の革命が起きる危機感が常にありました。

そのため、新政府の役人たちは頭を悩ませた結果、政府の基礎が定まるまでは社会不安を避けるために、侍階級の解体を一気に行わず、段階的に行うことに決めます。

この流れを見る際に重要となるのは、明治時代初期に行われた三つの段階的な措置です。

・帰農商者への賜金(1870-1871年): 明治維新後に侍を離職した人々に対し、農業や商業に転職することを推奨する救済措置。

・家禄奉還者への賜金(1873年12月): 主君より支給される給与を放棄した侍に対して、政府から起業資金を家禄の6年分支給する制度。

・金録公債交付(1876年8月): 強制的に家禄を廃止したことの影響を避けるために、その対象となった侍に代償として政府が公布した公債。

これらを時間をかけて着実に進めたところで、最終目的である秩禄処分へと至ります。

この諸政策を簡単に言えば、政府が侍に対して、藩から離職することを勧めたということです。そのため、藩から離職しても生活できる措置が用意されました。こうして慎重に政策は実行され、やがて一定の効果が見始めると、政府は明治改革の最も重要な「廃藩置県」を完了します。

これは徳川レジームの要であった藩制を完全に解体し、政府官僚による中央集権的な国家の樹立を宣言するものであり、日本が新たな体制に転換した重要な出来事です。

廃藩置県と秩禄処分が組み合わされたことにより、強制的に侍の藩への依存が終わるため、一層、侍は藩から離職する状態へと追い込まれます。同時に、彼らの将来の不安を解消するために、数年間に渡って政府から退職金(年金)を支払い、彼らに新たな産業を含めた転職を促し、それまでの期間に限り、生活を安定させることに努めました。

もちろん、これは政府に対する反抗を抑止するための狡猾な作戦でした。事実、「侍の退職」における年金制度は一時的な措置に過ぎず、1876年には侍に対する諸制度は打ち切られます。こうして、完全に江戸時代の俸禄制度が消滅し、江戸時代は終わったのです。

言い換えれば、この時、日本から侍が消えました。これが意外にもスムーズに実現できたのは、前述の通り、既に江戸時代から侍階級が官僚化していた事情と深く関係していることを見逃してはなりません。

その性質を見事に理解し、新たな近代官僚制を打ち立てる影の指導者となったのが、長州藩から登場し、長年、新政府の要職を務めた山縣有朋でした。