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黒船の前に:林子平の先見の警告Before the Black Ships: The Visionary Warnings of Shihei Hayashi

この記事では、近代日本の到来に向けて、いち早く海防の重要性を説いた人物に焦点をあてます。

一般的に近代日本の始まりは、1853年にマシュー・ペリー率いる米国海軍東インド艦隊の艦隊4隻(黒船と呼ばれます)が、大西洋を横断してインド、中国、沖縄を経て、浦賀(現在の神奈川県横須賀市)に来航した事件に始まったと、どの歴史書にも書かれています。

黒船来航時、既に機能不全に陥っていた徳川幕府は全く対処できず、結果的に国内のクーデターによって崩壊し、近代政府の樹立へと繋がりました。このことから、黒船による外圧が、近代日本を始動した直接的原因と言われていますが、実際には、幕府側の対外対策における準備不足が原因です。

事実、黒船が来航する遥か以前から、いち早くこの来る動乱を予期し、対策を主張した人物がいました。それが、林子平(1738-1793)です。

父親はもともと幕府の要人でしたが、何らかの出来事をきっかけに職務を解かれ、流浪の身となり、子平が3歳の頃に一人で旅に出てしまいます。残された子平は、医者として大名家と関係のあった叔父の元で養われ、後に美貌で知られていた姉が仙台藩の藩主に仕えたことをきっかけに、仙台へと移り住みます。

当時としては稀ですが、子平は生涯にわたって日本全国各地を旅した旅人です。それは各地で見聞を深めるということ以上に、ある1つの目的に捧げられていました。それが、国防論です。

今でこそ、日本は海に囲まれた島国という認識は当たり前ですが、当時、そうした認識はあっても、国防の観点から島国の性格を考える人は皆無でした。

鎖国政策が始まって以来、既に100年以上も安泰であったことから、幕府の要人たちは、国防を軽視していたのです。実際、当時唯一開かれていた港は長崎でしたが、ここもオランダ、中国などに貿易は厳しく限定されていたため、全国各地のほとんどの日本人にとっては、まるで別の国の話でした。

この平穏なムードが一変する出来事が起きたのが、1771年です。きっかけは、ポーランド独立を掲げた「バル連盟」でロシアと戦い、ロシア軍に捉えられたモーリス・ベニョフスキー(1746-1786)が、1771年にカムチャッカから脱走してロシア船を乗っ取り、日本に寄港した際、ある文書を長崎のオランダ人商館長に渡したことに始まります。

その内容は、ロシアが日本を侵略する野望を抱いているという警告文でした。この文書は、長崎のオランダ人を通じて幕府に伝わりますが、幕府ではこの問題を知りながらも無視し、人々に伝わらないようにします。

ただソ連崩壊後に判明したことですが、実際には、当時のロシアの目的は日本侵略ではなく、日本にはほとんど関心を持っていません。ロシアが関心を持っていたのは清国ですが、当時ロシア領だったアラスカに物資を運ぶため、日本の港を獲得する目的があったことが判明しています。

林子平は、1767年と1769年に長崎を来訪し、中国やオランダの商人たちと交流し、さらに1772年には、ロシアの南下政策において要所となる北海道を探検しています。子平は、旅を通じて諸国の状況を客観的に理解し、幕府の内情を知らぬままに、島国の防衛論を準備したのです。これが、要人たちの逆鱗に触れました。

こうして、まずは1785年に「三国通覧図説」を発表。これは朝鮮半島、琉球(現在の沖縄)、蝦夷(現在の北海道)の人俗、習俗などを漫画を合わせて紹介し、これらを幕府は正しく理解した上で、国防の観点から経営を行うべきだと主張したものです。

特に、オランダ人を通じて西洋文化の発展状況を知った子平は、仮に日本と西洋が衝突した場合、日本側は甚大な被害を被る可能性が高いと判断します。そこで外交、辺境経営、海に面した地域の防衛を独自に研究しながら、あらゆるルートを使って、幕府、藩、朝廷の要人に警告を訴えています。

ですが、いずれの要人も取り合わず、自らの保身に明け暮れるばかりで、子平の言葉に聞く耳を持ちませんでした。それどころか、子平に対する誹謗中傷が相次ぎ、危険人物とみなされて、完全に無視されてしまいます。

こうした中で子平に残された道は、要人たちへ訴えるのではなく、どこかに居るであろう同じ志を抱く人々に向けて、書物を発表することでした。こうして子平が人生の集大成として書き上げたのが、「海国兵談」(1791年刊行)です。どの出版社も政治に配慮して取り合ってくれなかったため、借金をして自費出版しました。そうした事情から、この革新的な書物の発行部数は、たった30部でした。

同著では、日本が海に囲まれた国である以上、海防に重大性があると説き、海戦に備えて大砲を積極的に配備すべきことを論じています。驚くことに当時、貿易を許可された長崎以外に、外国船が入ってくるはずがないと、要人たちは本気で思っていたのです。

この馬鹿げた要人たちの幻想は、「海国兵談」出版の翌1792年、実際にロシア皇帝の国書を携えたロシア人が北海道根室に入港し、通商を求めてきた事件によって瓦解します。

こうして、日本の未来を思って書かれた子平の画期的な書物は、この事件と絡まり、幕府に対する批判だと捉えられ、1792年に発禁処分となって、子平は謹慎の処罰となり、1793年に死去してしまいました。

これは、黒船来航よりも60年前の出来事であり、当時、いかに幕政が既に機能不全であったかが窺える歴史の一端です。こうして、頼りない幕政が徐々に露呈し、それに対する反感を抱く人々が増え、遂にクーデターへと連なっていったのです。

いわば、林子平の精神は、在命時は相手にされませんでしたが、次の世代へと引き継がれていき、近代日本を始動する最大の原動力となったのです。