江戸を開いた歴史家:頼山陽Sanyo Rai: The Historian Who Opened New Horizons in the Edo Period
この記事では、官製に閉ざされていた歴史を、初めて在野から開き、江戸時代後期を通じて、絶大な影響を及ぼした歴史家の頼山陽(1780-1832)についてです。
広島藩で海運業を代々営む家に生まれ、大阪に遊学して、儒教の私塾を開くほどの知識人であった父のもとに生まれた山陽は、1781年に父が広島藩の儒教教育を担う家臣として登用されたことをきっかけに、広島へと移り住みます。
父の影響を受け、若い頃から秀才の評判が高かった山陽は、当時随一の知識人であり、幕政にも深く関わっていた儒者・柴野栗山(1736-1807)に注目され、その期待に応えるべく、『通鑑綱目』を執筆し、大きな注目を浴びます。
江戸時代は儒教の影響が絶大でしたが、中でも幕府が封建制度の原理に据えたのは、朱子学(南宋の朱熹の学派)です。当時、朱子学は幕府、藩の知識人たちにとっての一般教養であり、この閉ざされた界隈において、朱子学以外を奉じる事は基本的に許されていませんでした。
山陽の父も、当然朱子学を重んじていたため、山陽自身も朱子学から大きな影響を受けます。彼の最初の書物である『通鑑綱目』も、朱子学における正統性を論じたもので、ここで山陽は、朱子学の基本である「大義名分」に目覚めます。
この時、すでに山陽は歴史の修史事業に生涯を捧げることを理想に掲げており、18歳の時に江戸に出て学ぶも、その思いが果たせないと判断して、翌年には独断で帰郷しています。そこで、修史事業に身を捧げるには、藩の拘束からの離脱が、まず実現されなければならないと考えました。当時の封建社会では、藩に仕える父の子が、好き勝手をすることは禁止であり、特に「脱藩(藩から逃れること)」は重罪でした。
こうして山陽は、21歳の頃に、京都・大阪に向かって初の脱藩を試みます。ただ失敗して、広島藩に連れ戻された山陽は、狂人とみなされて「座敷牢(現在の精神病棟の監禁の源流)」に監禁され、他国に出ることを禁じられます。翌年には自宅軟禁となりますが、なんとその期間、9年にも及びました。
それでも若き志が挫けることはなく、この十分過ぎるほどの軟禁期間を使って、自らの理想を果たすために、山陽は、ある1冊の書物の底本を書き上げました。それが、『日本外史』です。処罰を受けながらも、他国に出て自由に志を全うすることを願う山陽の姿は、ついに周囲の人々を了解させるに至ります。
こうして32歳の時、ついに山陽は京都に出ることができ、その期間で仕上げた日本外史の稿本を手に、京都の論者たちと対峙します。ですが、既に脱藩など、素行に問題が多い人物として知られていた山陽を、京都の人々は相手にしませんでした。
さらに日本外史は、何度も校閲を加えて仕上げた書物であったため、発表は、彼が48歳(1827年)になるまで待たなければなりませんでした(完成は1826年)。つまり、およそ20年ほど前に仕上げた稿本を、その後、20年かけて完成させていったのです。
ここで、山陽が日本外史と名付けた背景には、従来の官製に閉ざされていた歴史を、外から作っていくと言う批判意図がありました。この時、一般人が読んでもつまらない官僚的な歴史書ではない、作者の魂がこもった初の歴史書が日本で登場したのです。この山陽の志こそが、幕末の人々に対する歴史認識を大きく作り、倒幕へと結びつく精神となりました。
では一体、この日本外史は、どこにそれほど人々を歓喜させた特徴があったのでしょうか。と言うのも、そこに書かれている歴史認識自体は、ほとんどが他の書物からの引用です。
当時、歴史認識で最も影響力のあったのは、水戸藩の藩主・徳川光圀(1628-1701)の元で編纂が始まった『大日本史』です。もう少し遡ると、武士が政権を握った鎌倉時代後期の公家で、歴史家の北畠親房(1293-1354)からも影響受けています。また当時の時勢として、歴史研究が各方面から始まった時代状況であったことも、追い風となりました。
そのため、日本外史は学問の伝統を無視した、一般人による粗雑な歴史書とみなされてしまい、要人たちは関心を持ちませんでした。この背景から、現在でも山陽の功績について語られることはなく、大きく誤解されて、軽視されている事実があります。
つまり、歴史は常に為政者にとっての正統を装う必要があるため、官製以外のものは正統ではないと言うありふれた認識です。江戸時代は、特にこの風潮が強かったのです。
しかし、そのような状況にあっても、山陽は幕末にかけて多くの人々に影響を与えます。むしろ、幕末の一般的な日本人の歴史認識は、ほとんど例外なく山陽に基づいていると言えます。
では、山陽の独自性はどこにあったのか。もっと言えば、なぜ山陽は要人たちに無視されたのか。実は、彼の思想の中には、反幕府につながるものがあると見なされ、それが危険視されたからです。
厳密に、山陽自身が幕府を批判したことはありません。ですが、独自の歴史認識を通じて、山陽は日本の政治は元来、天皇親政であり、武家(徳川家も含まれる)が、いかにして、その政治権を略奪したかと言うことを、誰よりも理解していました。
つまり、日本外史の本当の目論みは、武家政治の歴史を徹底解剖することで、武家がいかに天皇から政治の実権を奪ったかと言うことを、明らかにすることだったのです。この時、山陽が活用したのが、本来幕府における封建制度の維持の原理であった朱子学を、反転して現状否定・幕政批判の原理に据えたことでした(これが危険思想とみなされた原因です)。
こうしたことから、生涯、経済的には困窮していた山陽ですが、その身を助け、著作以上に名前が知られていたことが一つあります。それが、卓越した書画、そして漢詩です。
芸術が彼の身を助け、この方面ではかなり有名でした。当代随一の才覚と称えられた山陽は、実際、この芸術を通じて要人たちに接触する機会もあり、最終的に、日本外史は江戸幕府の重鎮であり、実質的な指導者である松平定信(1759-1829)に献上されたのです。