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復古神道の衰退:明治維新における国学と浄土真宗The Decline of Restoration Shinto: Kokugaku and Jodo Shinshu in the Meiji Restoration

前回、近代初期に神道が宗教化する過程を見る際に、重要となる江戸時代後期の「復古神道」についての流れを見てきました。今回の記事では、その復古神道が新政府発足と共に、どのように衰退したかについて書いていきます。

新政府の建設において、最も重要な働きをした政治家の岩倉具視(1825-1883)は、18-19世紀の国学者を通じた復古神道の思想に感化された、玉松操(1810-1872)から直接影響を受けていました。

しかし、実際に新政府の立ち上げが始まると、玉松系統の復古神道は、あまりにも敵が多いことに気づき、政府の近代的な神道政策の実務を任せることは危険だと判断、距離を置きます。その焦点となったのが、日本から仏教を一掃しようとする「廃仏毀釈」です。

ですが江戸時代を通じた仏教の力学を考えると、新政府が廃仏毀釈という政策に打って出たことは、新たに安定した政権を建造しようとする観点から見て、危険な暴挙でした。

実際、廃仏毀釈が実行された僅か10日後、太政官は即座に排仏行動を犯罪とすると公示します。排仏は、神道を近代日本の礎にしようとする江戸時代を通じた一部の神職たちの悲願でしたが、結局、その計画はあっという間に崩れ去ったのです。この時、立ちはだかったのが、仏教の最大勢力である浄土真宗でした。

ここを理解するためには、明治維新の主要な二つの藩である長州藩(現在の山口県)と薩摩藩(現在の鹿児島県)を見なければなりません。

長州藩は、浄土真宗の影響を強く受けていました。明治維新でも、浄土真宗本願寺派の本山である京都の西本願寺は、長州の急進派に対し、金銭的援助や武器の提供を含めた支援を行っています。そのため、長州出身の新政府の役人からすると、浄土真宗を近代国家から排斥することはできず、かなりの配慮が必要でした。

しかし、もう一方の薩摩藩は、もともと神道を奉祀する国学や水戸学からの影響が強く、急進派には排仏派が多かったのです。水戸学とは、現在の茨城県の水戸藩から生まれた、天皇奉仕の独自思想ですが、簡単に言えば、国学と儒教を混淆したような学派です。

両者は根底の信仰が異なるため、どうしても新政府の建造、未来像について、一致団結するには至りませんでした。つまり、日本は近代国家をどう作っていくかという理念が、最初から分裂していたのです。

幕末には、犬猿の仲とも言われた長州藩と薩摩藩でしたが、徳川幕府を倒すという目的では一致しており、実際に倒幕を果たします。この両者の利害を調整し、巧みに同盟を締結させたのが、土佐藩出身の坂本龍馬でした。坂本龍馬の背後には、新たな市場拡大を目指す英国の思惑があり、スコットランド系の武器商人たちが支援していました。

しかし、坂本龍馬は明治維新寸前の1867年12月に暗殺されます。両者を同盟に至らせた立役者の死去により、一層、新政府の建造は混乱します。

こうして有力な中立者を失ったまま始まった明治維新ですが、新たな中立を担う人物として、岩倉具視の責任が非常に大きくなります。こうして岩倉は、当初は玉松を最高のブレーンとしながら新政府を立ち上げ、神道へ肩入れしますが、すぐに長州系勢力の実権が、優位に立ち始めます。

こうして、浄土真宗の影響を受けた長州系役人と、神道の影響を受けた薩摩系役人は対立。不和はその後も解消されず、遂に1877年1月、薩摩を率いる西郷隆盛(1828-1877)の下で、明治政府(事実上の長州傀儡政権)を打倒するための内戦が勃発します。

結果は、薩摩の敗北。西郷隆盛は自害し、遂に明治政府から邪魔者が一掃され、近代日本の歩みを始めたのです。

しかし、随一の人格者として厚く崇拝され、今も多くの人々に信仰されている西郷隆盛の精神は、その後も神道派の思惑に度々姿を見せ、やがて国家神道の樹立に大きな影響を与えるのです。

復古神道の衰退: 明治維新における国学 vs 浄土真宗