C:\SHITSURAE\> TYPE SJ022.TXT

SJ022.TXT2025-01-1911KB

復古神道の運動:廃仏への準備The Restoration Shinto Movement: Preparing for the Expulsion of Buddhism

前回、明治維新を契機として、神道が歴史上初めて、国家的な宗教へと発展していく経緯について触れました。そこで、明治初期に徹底した仏教の排斥が始まりますが、今回はこの背景について書いていきます。

江戸時代に仏教が衰退したといっても、それは中世を経た仏教の布教時代を終えて、いよいよ日本人が何の抵抗もなく、仏教を習俗に受け入れ始めたことを意味しています。特に中央からの全国統一を強める思惑を持っていた徳川幕府は、仏教を利用して、ある宗教を禁圧します。それが、キリシタンです。

キリシタンの布教を禁止するには、神道のように宗教化の体系が脆弱なものよりも、体系化されている仏教の方が都合が良かったのです。江戸時代を見る際に非常に重要なのですが、神道は仏教の従属的な位置にありました。ここに対する不満が、神職による近代の排仏へと結びつきます。

これは、全てが寺院の管轄にあったと言う事です。例えば神職であっても、原則は仏葬を強られていました。ただ、同時に江戸時代は言論の自由が確保されており、幕府もそこへの介入は行いませんでした。

そのため、いかに様々な宗教的習俗が仏教を前提にしていたとは言え、学者は仏教への批判を自由に展開することができました。ただ同時に、神職や学者が仏教への不服従を実行した場合、即座に厳しい処罰が下されました。このバランスを読み解くことが、1つの鍵となります。統一国家など、江戸時代になかったということです。

当時は幕府に権力が集中しておらず、藩の力も自律的でした。そのため、藩主が神道に好意的であった場合、こうした処置は取られなかったとも考えられています。

そのため、江戸時代を通じて、神職は度々言論を通じて反仏教の行動を行い、大勢の神職が流刑、処刑、また社家の断絶などを被っています。この過程を経て、徐々に神道と仏教は別だという感情が高まり、仏教を奉じる幕政に対する反抗を強めていきます。この神職の心情に一致して、反仏教的態度を強める理論的動因として生まれたのが、新たな学問の「国学」です。

日本固有の文化を求め、積極的に主張する国学者は、中国経由で伝来した仏教を、幕府が禁圧した西欧経由のキリシタンと同質だとみなし、その徹底的な国内からの排斥を要求します。その時、彼らが精神的支柱に据えたのが神道でした。

この時、「神仏分離論」が意識化されていきますが、なかなかこの境地を突破できない不遇の状況が続きます。なぜならば、キリシタンのような直近で伝来した宗教に対して、排斥する事は容易ですが、仏教は既に伝来してから1000年以上の歳月が経っており、歴史的には「神仏習合」とイコールだったからです。

つまり、純粋な神道を発見する意欲に燃える国学者や神職は、あまりにも混淆した仏教的影響を見極め、そこから神道の純粋性を取り出すことが非常に難しかったのです。さらに当時の財力、信者数は、比べ物にならないほど仏教が圧倒的でした。

18世紀後半から、国学を経由した神道の復古が主張され始めるのですが、その筆頭に立ったのが、国学者の本居宣長(1730-1801)です。宣長の思想を経由して、19世紀初頭になると、明確に「復古神道」が宣言されます。この提唱者は、宣長に影響を受け、儒学者から国学者に転向した平田篤胤(1776-1843)です。

当時、神道は大きく2つの派閥に分かれており、両者ともに幕府からの容認がありました。新たに神社を開く場合、このいずれかの宗派からの承認を得なければならず、独断で神社を開く事は禁じられていました。それが、中世に由来する吉田家(吉田神道)と白川家(伯家神道)です。両者はともに、当時の政治的中心であった江戸ではなく、本拠地は京都でした。

この二大勢力が分断したままでは、圧倒的な権力を誇る仏教に太刀打ちできません。そこで平田は国学を利用して、積極的な布教を開始。絶大な影響力を誇った平田の下で、ついに二大勢力は統一されます。つまり、「復古神道」の内実は、平田篤胤の神道です。

当時、最も影響力を持った平田の思想は、大勢の門人に影響及ぼします。その門人を経由して、近代の神道が生まれていったのです。

前回、明治政府が始まるとともに、即座に排仏が政策的に行われたことについて触れ、その先導者である岩倉具視の背後には、玉松操がいたことについて述べました。この玉松は、平田の門人の中でも格別に優秀だった、国学者で神職の大国隆正(1793-1871)の門人だったのです。