日本の宗教と神道がわかりにくい理由Why Japanese Religion and Shinto Are Hard to Grasp
世界的に神秘的とみなされ、外国人旅行者が最も困惑するものに、日本の宗教があります。特に、西洋的な宗教の概念に慣れ親しんだ人にとって、神道への理解はかなり困惑するようですが、これは例外なく大半の日本人も同じです。神道は宗教だと言われても、どこか納得できないのです。また、結局のところ、神道がどのように始まり、現在のような姿に至ったのかと言うことを知る術は、ほとんど残されていません。
ですが、この連載では、神道を深く理解するための様々な知見を書いていきます。
まず、現在日本に神社はどれぐらいの数があるのでしょうか。2023年に発表された文化庁の報告では、全国の神社の総数は80,608だと記されています。これは、2022年時点でのデータですが、実は2010年にはその数は86,640でした。つまり、たった10年程度で、6000もの神社が破棄されたのです。
世界初の超高齢化社会に突入した日本を物語る一面ですが、実はこの神道が衰退する契機自体は、近代の始まりに原因があります。そこでまずは神社の制度の大きな流れを見ていきます。
朝廷が神社を管理し、統計を取った最古の記録は、927年の『延喜式』という法令書に始まります。そこでは、2861の神社が記載されています。
この『延喜式』に記載のある神社を「式内社」(簡単に言うと、朝廷に認められた神社)と言いますが、一方で、当時の日本は全国統一などされていませんので、各地には記録されない無数の神社がありました。それを「式外社(しきげしゃ)」といいます。
この「式内社」は、それぞれに格式が定められ、大きく4つに分けられました。格式は、朝廷との政治的距離に関わります。
官幣大社: 198
国幣大社: 155
官幣小社: 375
国幣小社: 2133
このように朝廷によって、初めて神社の格式が定められて、制度化を遂げます。これが「古代社格制度」です。これ以降、同著に記された格式の高い神社を奉祀する傾向が続くのですが、正確な年代は不詳ながらも、11世紀初頭ごろになると、異なる社格制度が作られます。それが「中世社格制度」です。どのように変わったかと言うと、以下のようになります。
一宮: 特定の地域の中で、最も格式が高いとされた神社。
総社: 特定の国に祀られる祭神を、1カ所に祀った神社。
国司奉幣社: 特定の国の中で、上記の『延喜式』に記載されている神社。
二十二社: 朝廷から奉幣を受けていた特別な神社。
この動きは、中世に入り、高度に律令制度が整い、各国の区別がかなり明瞭になったことと関係しています。律令制度とは、皇室や貴族階級の朝廷が、全国の統治を直接的に行うための中世官僚制度といえます。
そこで設定された国々に準じて、朝廷は「国司」と言う役職を任命し、その人物は、赴任した際に「一宮」に参拝することが決まっていました。
この「一宮」と言う制度の名残は、現在の神社にも残っており、各地に存在します。例えば京都であれば、上賀茂神社と下鴨神社、奈良であれば大神神社、大阪であれば住吉大社と言う具合です。そのため、日本各地を訪れるのであれば、まずはどの地域にも存在する「一宮」に参拝してから、その土地を旅することをお勧めします。
こうして中世の神社に対する格式制度は、近世まで続きました。そして大きな変動が起きたのが、1868年の明治維新です。近代政府を立ち上げた人々は、再び『延喜式』を参照しながら、新たに制度を変更します。
一体、なぜ長く続いてきた制度を変更しなければならなかったかと言うと、当時の神社が世襲制度を採用していたからです。
神社は、歴史的に場所ごとに特定の一族(氏族)が祭祀を担い、代々、神職を世襲する方式をとってきました。この方法を明治政府の開明派を自負する役人たちは、「旧習的」だと見做し、破壊を目論んだのです。
結果的に、1871年に政府は神職の世襲制度を廃止し、国家的に人選して配置する原則を定めます。ですが、例外的に世襲制度が廃止されず、今日まで続いている神社もわずかにあります。例えば島根県の出雲大社、京都府北部の籠神社などです。
さらに1つの事情として、明治政府は西洋の近代国家と対等に渡り合うため、早急に日本に国家を建設しなければなりませんでした。そこで「神社は国家を奉祀することだ」と宣言し、場所ごとに多様に存在した神社、つまり信仰を破壊していきます。これは、統一国家の実現のためには必要不可欠なことでした。
そして、この時、決定的な出来事が起こります。何しろ神社の役割を国家の奉祀と宣言したわけですから、それに見合った制度を作らなければなりません。そこで役人たちは旧来の神社の格式制度を改め、あろうことか、神社制度の頂点に伊勢神宮を据えたのです。