西周:西洋哲学を日本に紹介した先駆者Nishi Amane: The Pioneer Who Introduced Western Philosophy to Japan
今日は日本に西洋哲学が輸入された時です。その第一人者は、幕末から近代初期を生きた西周(1829-1897)です。
津和野藩に仕える医家に生まれ、儒学に関心を寄せた西周は、二十歳の時に藩の命令で儒学の研究を先導します。主な研究テーマは、宋学(宋代の儒学)でした。そこから江戸に出て初めてオランダ語の文献に接した彼は、当時日本で蘭学と呼ばれた学問に邁進するため、脱藩を決意します。
自らの意思でオランダ語、そして英語を学んだ彼は、幕府の研究員に登用され、そこで初めて西洋哲学の書籍に出会います。こうして高い能力が評価され、1862年、日本初の西洋に留学する一団の1人に加えられてオランダに旅立ち、レイデン大学教授の元で法律学、経済学などを学ぶ傍ら、コント哲学やカント哲学に傾倒します。
そして1865年に帰国するのですが、この時に彼が西洋から持ち込んだもの、それが哲学でした。
このことから、日本における西洋哲学の受容は、近代的な文脈において西周を起源とします。ここで注意が必要なのは、その受容は西洋哲学を純粋に受容していないことです。この時、西周が考えていた日本独自の哲学は、むしろ宋学との融合に本質があります。
振り返ると、江戸時代は日本で初めて儒教が大きく勃興した時代です。幕府を開いた徳川家康(1543-1616)は、群雄割拠の猛者たちが渦巻く戦国時代を終えて、全国統一の統治を強めるべく、ある体制哲学を採用します。それが、南宋の朱熹(1130-1200)の儒学です。これを日本では「朱子学」と言いますが、家康は朱子学を骨組みにするため、当時23歳の若き林羅山(1583-1657)を登用します。
ここから、江戸時代は朱子学の時代と言われるまでに栄華を極めますが、その反動として、明の王陽明(1472-1529)の学問や、日本独自の古学(簡単に言えば、孔子への原理主義)などが多様に立ち上がっています。ただ概ね、江戸時代を通じて、幕府や藩の基本思想となっていたのは、羅山を経由した朱子学でした。
この影響が成熟しながら幕末に向かうため、西もまたその影響を強く受けました。こうして彼は、成熟した日本の儒学(宋学の解義)を基礎として、そこから西洋哲学を解義する方法を思案します。このことから、日本における哲学は、日本と西洋の接合ではなく、中国由来の儒学の一派が、日本で独自に発展したところに接合したと見るのが正しい視座です。ここに日本哲学の特異性があると言えるため、全体像の把握を非常に厄介としている原因があります。
彼がオランダ留学を終えて日本にもたらした最大の功績は、哲学の日本語用語として今も使われる多くの概念を、翻訳して持ち込んだことです。これはほとんど、彼1人の功績と言っても過言ではありません。
ただ重要な事は、最初、彼はphilosophyを「希哲学(philoが希、sophyが哲と捉えられた)」と訳していたのですが、後に「哲学」として翻訳語を提示しています。この翻訳語が生まれる過程で、ギリシャ語に由来する「philo」の概念が消えていることに、注意が必要となります。
ここで問題にしたいことは、どのような意図を持って、彼が西洋哲学を理解することを試みたかです。それを理解する鍵は、宋学から盛んに研究される「理」の概念にあります。
「理」の概念は、古代中国の易や孟子などで僅かに言及が見られますが、孔子の時代から長らく、儒教で「理」が重要な問題として扱われる事はありませんでした。それを最初に発掘し、徹底的に問題の土台に据えたのが宋代の儒者たちです。
まず西は、この宋学における「理」が、西洋では理解されていないと述べた、日本人儒者の頼陽山(1781-1832)の言葉に疑念を持ち、むしろそうではなく、西洋では「理」が細分化されていることを発見します。そこに、日本の概念の曖昧性を突破する光を見たのです。
ただ、一言だけ加えておくと、私は日本や中国の概念を曖昧だと思った事はなく、むしろ高度に論理的であるがゆえに、細分化された西洋の学問では理解し難いという風に捉えます。この意味で西周は、最初に日本人が西洋の視座を通して日本を見るという、明治以降から今日にかけて、非常に問題となる態度を始めた起源とも言えます。
物と物の関係には必ず「理」があると考えた西周は、西洋人は「理」を知らないのではなく、大きく2つに大別されていると捉えます。それが「reason(日本語表記は理性)」と「natural law(理法)」です。どちらにも「理」という漢字表記が入っていることを、理解できると思います。ちなみに日本語では、「理」は本当に多くの概念表記に使用されます。それほど重要だということです。
つまり、「理」は中国や日本のように本質の次元において曖昧に捉えられるものではなく、多様な区別、細分化を設定し、そこを精密に研究する態度が西洋にあることを論じたのです。
このことから示唆されているのは、実は近代日本の西洋化を先導したのは、西洋人ではありません。この認識が今も国内外で混乱し、勘違いされているように思えます。それは日本人自身が行ったものであり、しかもこれらの人々は、一方的に江戸時代を「封建的」と捉え、西洋を「開明的」と捉えた上、その西洋崇拝を為す自らを「開明的な人物」だと自負します。
結果、1868年に明治維新が勃興すると、日本で西洋化の流れは津波のように押し寄せ、あっという間に、時代も人々の暮らしも一変します。こうして、いち早く西洋の学問を学んだ人々が特権的な位置に立ち、次々と日本の文化、習俗を「古い」と言って排除していったのです。この時、明治政府の開明派によって、日本で最初の自然破壊が開始されたのですが、ここについても別の機会に書きます。
かつて大島渚などとタッグを組み、1960年代の日本映画の礎を築いた脚本家の石堂淑朗は、1995年に『日本人の敵は「日本人」だ』という著作を発表しましたが、実は日本史は、常に外国の変動を背景として、国内で二分化して争い続けている歴史の集積とも言えます。
その最初の原動力となった、西周。この人物に対する関心は深まるばかりですが、それは「翻訳」という重要な過程を通じて、単に他国を理解する手段に留まらず、同時に既存の概念を一変するほどの破壊力も含有していることを、これほど見事に示した人物も居ないだろうと評価するからです。