鎖国という誤解:江戸時代の対外関係Rethinking Isolation: Foreign Relations in the Edo Period
近代日本は、265年に及んだ江戸時代を経て、開国の始まった明治以降に由来します。一般的に江戸時代を「鎖国」の時代と見做す印象は強いのですが、全時代を通じて行われていたわけではありません。実際に鎖国政策が開始され、終焉したのは1639~1854年の215年間に限られます。
その政策を実行してきた徳川家を筆頭とする幕府を「封建的」と断罪し、新たな時代を標榜して起きたのが、1868年の明治維新です。
明治維新の本質は、テロリズムを厭わない軍事クーデターですが、日本ではこの捉え方は長らく、絶対に口にしてはならないものでした。むしろ学校教育では、明治維新を賛美し、現代日本に繋がる画期的な出来事だったと教えています。一体、なぜなのか。
それを理解するためには、近代日本の指導的な位置に立ち続けてきた、一つの地域に注目する必要があります。それが、山口県です。
かつて長州藩と呼ばれた山口県は、明治維新の最大の功労者です。現代日本において、重要とは思えない山口県ですが、ここまで力を持っていることには、一つの理由があります。それが、多くの首相を輩出していることです。
初代首相の伊藤博文に始まり、歴代で日本の首相に就任したのは65人で、現職の石破茂は第103代首相です(在職: 2024年11月11日〜)。日本の政治では、首相の出身地が非常に重視されます(官僚は学歴重視)。
この65人を出身地別で見ると、1位は8人を輩出した山口県です。2位の東京でさえ、5人に留まります。これだと、全体の12%程度ですので、大したことがないように思えるでしょうが、異なるデータから見ると、その力の集中は明らかとなります。
それが、首相の在職日数です。前首相・岸田文雄までの首相の歴代在職日数は、50,623日となり、石破首相が就任してからの107日(1月15日時点)を加味すると、50,730日となります。このうち、なんと山口県出身の首相は15,569日であり、全体の約30%を占めます。たった8人で、明治から現在までの首相の座を、30%も占めてきたのです。
より理解が進むために、山口県出身の首相の動向を示します。
・伊藤博文 1885/12/22~1901/5/10にかけて4度首相を歴任。通算在任期間は2720日。
・山縣有朋 1889/12/24~1900/10/19にかけて2度首相を歴任。通算在任期間は1210日。
・桂太郎 1901/6/2~1913/2/20にかけて3度首相を歴任。通算在任期間は2886日。
・寺内正毅 1916/10/9~1918/9/29 通算在任期間は721日
・田中義一 1927/4/20~1929/7/2 通算在任期間は805日
・岸信介 1957/2/25~1960/7/19 通算在任期間は1241日
・佐藤栄作 1964/11/9〜1972/7/7 通算在任期間は2798日
・安倍晋三 2006/9/26〜2020/9/16にかけて4度首相を歴任。通算在任期間は3188日。
大きな流れを見ると、新政府樹立から1920年代までは、ほとんど長州出身者が首相の座に就きましたが、1930年代から第二次世界大戦期、さらに敗戦から日米安保条約の問題が生じる1960年に近づくまで、長州出身者の力が没落していることがわかります。
その背景を見ると、伊藤博文が着任してから、寺内正毅が任期を終えるまでの1880年代から1910年代は、日清戦争(1894-1895)と日露戦争(1904-1905)に勝利し、さらに欧州での第一次世界大戦による特需景気で、日本経済は勃興します。
この時、特に製造業や海運業が大発展を遂げ、第一次世界大戦に参戦しなかった日本は、かなり潤いました。これが、長州出身者の政治地盤を強固にした要因です。
しかし、1920年代に入り、流れは一変します。関東大震災(1923年)、日ソ基本条約締結(1925年)、治安維持法の公布(1925年)、大正天皇の死去(1926年)、昭和天皇の即位(1928年)、そして1920年代に金融恐慌が起きたことで、長州出身者たちの政治地盤(資金源)が揺らいだのです。この不穏な時代の中、国民統制を強めるべく、1928年に共産党党員への大弾圧、無政府主義者への国家的虐殺が起きています。
こうして1930年代に突入すると、満州事変(1931年)を得て、第二次世界大戦へと向かう流れを作っていったのです。一見するだけでは、この新たな過程で、長州出身者の力は消失したように見えます。ですが、新たな萌芽は日本国内ではなく、満州国に生まれていました。
それが、岸信介です。1920年9月から官僚のキャリアを始めた岸は、1936年から1939年10月に帰国するまで、事実上、満州国のトップに君臨していました。
満州で暮らす期間、官僚であった岸は、着実に政治的な力を獲得します。そのために必要だったのは、莫大な資金源です。そこで岸が注目したのが、アヘンです。
岸の主導の元、満州国はケシの栽培を行い、ペルシャを通じて大量のアヘンを密輸し、満州国に流し込んでいました。これが莫大な利益を生み、満州国を統治する関東軍の資金源となり、岸は軍部から圧倒的な信頼を勝ち取ります。このことから日本の一部界隈では、アヘン利権のトップであった岸のことを「夜の満州の帝王」と揶揄します。
その後、第二次世界大戦に突入し、岸は商工大臣、衆議院議員、国務大臣、軍需次官などを歴任した末、敗戦後の1945年、連合軍によって、A級戦犯容疑者として収監されました。
本来であれば、東京裁判で起訴され、死刑になってもおかしくなかった岸ですが、なぜか1948年に不起訴で出所します。この背後には、米国とソ連の対立関係があり、戦後日本を社会主義国にしたくなかった米国は、CIAを通じて岸を不起訴とし、完全な操り人形として出所させたのです。
岸が何の罪に問われることもなく、出所した出来事は、当時の人々(特に満州時代を知る人々)に相当な衝撃を与えます。こうして、1953年3月に再び政治家となり、ついに1958年には首相に就任します。これも米国の意向を受けて行われたものです。この辺りの背景については、別の機会に書きます。
戦後、米国の庇護の元で、再び力を取り戻した長州出身の政治家。戦後は、3人の山口県出身者が首相になっていますが、岸信介と佐藤栄作は兄弟であり、安倍晋三は岸信介の孫です。つまり山口県(長州藩)に由来を持つ岸家という家系が、戦後日本の象徴となったのです。