グローバル・コミュニケーションに宿る「熱」The Hidden Heat of Global Communication
遂に、翻訳を通じた他言語間のコミュニケーションが、非常に重要となる時代に突入しました。2020年代以前であれば、ほとんど理解することが不可能だった他言語で発信される情報が、技術的に容易に翻訳され、閲覧できるようになった未来に、わたしたちは生きています。
同時に、大移動時代に入った恩恵を活用して、翻訳から生まれる情報の誤差を放置せず、自らの身体による実体験を通じて、修正しようとする動きが高まっています。この大きな動きのバランスは、今後も極めて重要です。
例えば今、私がこうして書き、発表している文章は、原文を日本語で執筆し、それから英訳して発表しています。この時、日本語で私が考えていることが、どのようにしてネイティブの英語話者に理解されるかと言うことを知るのは、残念ながら事実上不可能です。
ここは自覚的であるべきですが、この時、特に注意しなければならないことは、英語と日本語は言語構造が全く違うことです。それを哲学者の山本哲士は、英語の「主語制言語」に対する、日本語の「述語制言語」として提示しました。言語様式が全く異なるため、思考、行為、行動を含めて全てが異なります。ここに、これまでの相互理解の壁がありました。
だとすれば、21世紀にあっても翻訳を介した相互コミュニケーションは、不完全なままであり続けるのでしょうか。
私は日本語で書く者ですから、例えば英語圏の読者が、私の言葉をどう捉えるかと言う事について、常に確信はありません。しかし、少なくとも翻訳されたときに、大部分の意図が伝達不能になる事は自覚して書いています。それは作者の諦めではなく、インターネットの基本的な設計思想である「ベストエフォート」だと言えます。
そうは言っても、時代がグローバルコミュニケーションの最盛期に向かっているため、この問題について、思考を続ける責任がライターにはあります。
この点を引き受けた上で、一つだけ確信があるのは、情報の伝達に「熱」が入っているか否かです。この「熱」はかなり日本的な概念であるため、英訳し難い概念ですが、情熱のようなニュアンスよりも、よりスピリチュアルな相互伝達がイメージに近いです。
そもそも、日本語と英語の間のコミュニケーションに限らず、母国語話者同士のコミュニケーションであっても、どれだけ相手に伝わっているかと言う事は、なかなか確信が持てるものではありません。しかし、そこに「熱」が入ることによって、伝達度合いを高めることができます。
すると、21世紀のグローバルコミュニケーションの肝心は、実は翻訳の技術的な精度を最高レベルにまで高めることではなく、語る人々の「熱」、つまり当人たちの思想の成熟度にあると言えます。この「熱」の冷めたコミュニケーションであれば、伝わるものも伝わらないからです。
確かに、翻訳される上で意図が正しく伝わらない事は日常茶飯事です。この誤差を埋めるために、現在では技術的に翻訳精度を高めたり、或いは文化的教養をつけるなど、様々な手段が検討されていますが、むしろ見えないところにおいて、この「熱」の有無が非常に重要であることは、殆ど認識されていません。
このことから、翻訳におけるグローバルコミュニケーションの問題は、まず第一に語り手が「熱」を込めることに始まります。そして、聞き手は翻訳された表層的な情報を読むのではなく、そこに込められた「熱」をどれだけ掴み取るかという技術が問われます。
書き手は、「熱」を込めて書く責任を果たしたならば、後は読み手に伝わることを願うことしかできません。一方、読み手は翻訳された文章を読むのではなく、その全体を通じて含有されている見えない作者の「熱」を掴み取り、そこで得た言語化できない感覚を信じることが大切です。
そこを弁えた上で、他言語間の情報誤差を身体を移動することで埋める時、新時代の対話が可能となるのです。
その重要な視座を示してきたのが、村上春樹だと言えます。彼の文学作品は世界的に翻訳され、かなりの影響力を持っていますが、日本語の作品と英語の作品は全く違います。事実上、英語の村上春樹は翻訳者の仕事によって立つ作品だと言っても良いほどです。だとすれば、なぜ西洋の読者は村上春樹を理解することができるのか、この問題が21世紀において非常に重要です。
つまり、私が日本語で村上春樹を読んだときに感じる言語化できない心地よい感覚は、いずれの言語に翻訳されて、読まれたとしても、同質のものを感じるだろうと思います。それが村上春樹の特徴であり、普遍的なイメージを作り出し、かつ読者に喚起させることに非常に長けている稀な作家と言えるからです。
一方で、この相互交通がうまくいかない事例の典型が、川端康成の雪國でしょう。その冒頭を対比すると以下のようになります。
日本語 トンネルを抜けると、そこは雪国であった。
英語 The train came out of the long tunnel into the snow country.
日本語を理解する読者が見ればわかりますが、川端の文章にはどこにも主語がありません。しかし英語に翻訳されると主語が設定され必然的にコプラが生まれます。この時川端の描いた文学空間は消えてしまうため、村上のような普遍的なイメージの理解を困難にさせます。
熱と言っても、それは極めて多様だと言うことです。村上作品は空気のような熱としか言いようのない不思議なイメージ創造を持っており、川端作品に見られる日本的な心情が中和されています。
熱を持っているか否かは、個人の日常生活においてどのように思考し、どのように生きているかということと直結します。その国や言語では回収されない普遍的な人間の次元において、私たちは言葉を語る時、この長らく閉ざされてきた翻訳の問題を乗り越えることができるといえます。
まだその潮流自体は始まったばかりであるため、今後も様々な格闘を得ることになるでしょう。言語が違えば概念は違い、考え方は違うものです。この壁を乗り越えるためには、熱をつかむ技術が求められており、私はそれが21世紀のグローバルコミュニケーションの最も重要な基礎になると考えているのです。