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水墨画の魅力 1:中国からどう伝わったのかThe Allure of Sumi-e, Part 1: How Did It Arrive from China?

旅行者にも関心の高い日本美術と言えば、その一つに水墨画を挙げることができるでしょう。ただし、日本における水墨画の歴史が、不思議な運命によって始まったことは知られていません。ここから何度かに分けて、その背景についてお伝えします。

言うまでもなく、日本の水墨画の源流は中国美術にあります。ただ突然、中国で水墨画が現れたのではなく、その基盤にあったのは歴史技術的な書法です。長らく実用目的で発展してきた書法が、芸術に適用され始めたのは後漢(25-220)の中期以降です。

芸術としての書法を基礎にしながら、時の知識人たちは、蔑まれていた絵画に目を向けます。こうして知識人は書法と絵画を嗜む新たな時代に入り、独自の絵画技法が発展していきます。

そこに生まれたのが、白描画です。漢王朝の崩壊後に登場した晋(265-420)、さらには宋(420-479)の時代に入ると、多くの白描画が制作され、やがて唐代(618-907)の文明開花期に成立します。この唐から、当時の日本は絶大な影響を受けます。

この時、首都・長安では中国の南北文化融合に加えて、インドやイランからの文化流入が同時に起きており、複雑かつ多様な文化を吸収して発展を遂げます。

その過程で、反動的に中国の文化意識が復古します。すると興味深い現象として、歴史的に書法で培われた「線」への意識が高まり、外来文化の過剰な「色」への否定が起こります。こうして色彩を否定し、従来培われてきた書法と絵画の合一を画策した知識人は、色彩を排除した白描画を最高次元に高めました。

そして同時期、安禄山の反乱(755-757)が勃発したことによって、貴族による統治を否定するエネルギーが生まれ、貴族的な白描画ではない、水墨画が登場します。単純化すると、白描画は「線」、水墨画は「面」への意識が強いことに特徴がありますが、水墨画も外来文化の否定の潮流を受けて、色彩を否定した墨での絵画を段階的に志向します。

ここを「筆」/「線」、「墨」/「面」(色彩)の関係から見れば、比較的明瞭になります。

ただし、中国の「筆」と「墨」の関係で議論される絵画の問題は、基本的には筆を重視する立場にあります。例えば、唐の荊浩(850?-911?)の『筆法記』では、「形体の質量、生動感を表現するのが筆」、「陰陽の凹凸の立体感を表現するのが墨」と記されています。

この中国の「筆」を主軸に据える主語的な文化に対して、日本は「墨」を重視する述語的な文化の方が肌に合っていたことも、日本の水墨画の発展に関わる重要なファクターとなります。その背後には、後代の禅の影響がありました。

特に水墨画で重要だったのは、「破墨」という技法です。筆が形体の輪郭を描き、墨が肉付けするという従来の筆の主語的な伝統技術の捉え方を、日本は反転させることによって、述語的な表現を可能としたからです。

さらに、輪郭線を用いない「溌墨」と言う技法が中国で生み出され、これにより輪郭線を描く筆を重視する傾向を、緩衝するための可能性を模索し始めます。ただし、これはあくまでも中国の主語的な観点から、述語的な観点を見出そうとする遡及的な格闘であり、純粋に述語的な表現ではありません。ここを研ぎ済ませたのが、日本の水墨画の絵師たちでした。

技法の差異ではなく、言語構造の差異を見極めることに鍵があります。

ただ溌墨も、「筆を主として墨を従とする」(筆主墨従)の考えから、「墨を主として筆を従とする」(墨主筆従)の二元的な考えに基づいていたため、この段階にあっても、日本で水墨画を受容する余地はなかったと言えます。

この時、かつて宗炳(375-443)が執筆した『画山水序』に、再度注目が集まります。同著は山水思想を絵画論に適用した初めての思想ですが、その影響を受けて、水墨画を用いた山水画が中国で勃興したのです。概ね、この様式は北宋の樹立を前後した10世紀中期頃に成立しました。

この潮流において、内と外の一体化、主観と客観の融合の動きが強まります。その土台を踏まえて山水画は展開されたため、ここでも日本語の述語的な構造とは合致しませんでした。また、当時は中国側から日本に山水画が流入することは極めて限られており、僅かに伝来した実物を見る機会も一部の貴族に限られていました。この傾向は、日本では14世紀頃まで続きます。

このように中国で独自の発展を遂げた水墨画ですが、前述の通り、長らく日本に強い影響を与えるには至りませんでした。しかし、幸運にも中国の貴族社会から評価されず、価値がないと判断された水墨画の系譜が、日本に流れ込む機会が生まれます。

その作品を制作したのが、13世紀後半の禅僧の牧谿(1210年?—1270年?)です。

2に続きます。