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侘び茶:日本のホスピタリティの技術Wabi-cha: Japan’s Techniques of Hospitality

侘び茶: 日本のホスピタリティ技術

今回は、日本のホスピタリティ技術の起源の一つである侘び茶です。

ホスピタリティとは、主人と客人の関係ですが、元々語源に「hostile」が含意されているように、このhostileを挟むことによって、両者の間に緊張感のある関係を生成します。これを日本的に解釈すると、民俗学者の折口信夫が提唱した「marebito」です。

Marebitoとは異人です。この本義は主人がもたない能力や技術を持つ他者であり、日本におけるgodではないkamiのことを表します。つまり主人にとっては「主人の非在」を持ち込む相手であり、そこには必然的な緊張感が生まれます。

marebitoは古くは村落共同体において、他界と見做された海の果て、或いは山から来訪する異人のことです。村落共同体の非在を持つmarebitoは必ず特定の時期になると来訪し、主人である村民に歓待されますが、同時に時期を終えると必ず帰るという暗黙の規範がありました。

Marebitoは歓待される代わりに、村民の持ち得ない技術を駆使して、自然鎮魂などを祭祀において担います。現在では殆ど絶えてしまいましたが、戦後1960年代頃までの日本では、各地に多様なmarebito習俗が残っており、それは祭りとして古い記憶を留めていました。

遡ること武士の時代においても、このホスピタリティ技術は多様に見られましたが、その一つに侘び茶があります。現在では茶道とは、単なるお茶の伝統文化としか捉えられておらず、単なる趣味に没した感がありますが、実は茶道の本質は、高度な場所環境のホスピタリティ技術にあります。

その主役を担ったのが武士時代の茶人です。

日本で茶を飲む文化自体が広がるのは、鎌倉時代に中国の僧侶・栄西が茶を持ち込んだことに始まると言われていますが、室町時代に僧侶・村田珠光(1422-1502)が日本化された仏教哲学を茶に適用し、茶室、茶道具の概念を創出して「侘び茶」という高度な文化を創造したことに始まります。

この時、村田珠光が重視したのは主人と客人の対等な関係であり、まさにホスピタリティです。実は侘び茶の本質はホスピタリティ技術であり、茶それ自体にはありません。ここは今も勘違いされています。

この日本的ホスピタリティである侘び茶を文化に高めた主役は、武野紹鴎(1502-1555)です。

当時の日本は戦国時代と呼ばれており、各地で武将が勃興する群雄割拠の状態にあり、中でもポルトガルとの武器交易、武器製造の秘密を知る本拠であった大阪の堺に注目が集まります。

実は戦国時代、日本で自治都市として独立していたのは、大阪の堺と平野だけです。

特に貿易港有する堺には、武器売買を始めとする商人の家々が立ち並び、全国統一を画策する武将にとっては命運を左右するほどの実権を持っていました。はっきり言えば、堺の商人たちを味方にできなければ、その武将に未来はなかったのです。

こうして商業都市として栄えた堺の商人は、政治の動向を左右する要所となり、元々仏僧にルーツを持つ茶の文化を、商売を取り付けるための接待において転用します。この交差点に立ったのが、自らも堺の武器商売の家に生まれた武野紹鴎です。

武野紹鴎は武器商売などの談合を取り纏める茶室を一新し、室内に水墨画を飾り、中国の名器を収集して、仏教的影響から脱した新たな場所環境を創出します。さらに侘び茶の指導者として、一説には将軍にも接近したと言われており、政治的にも侘び茶(を通じた密会)は相当な影響力を獲得します。

この武野紹鴎の切り開いた新時代の茶道を継承し、独自に高めたのが茶道の始祖と崇められる千利休(1522-1591)です。

利休の時代に入ると、尾張国の織田信長が他国を次々と征服、全国統一を間近に見るまでに勢力を拡大します。この絶大な勢いを持って信長は、自治都市である堺に圧力を掛け、遂に1569年に堺を手中に治めます。

こうして武器製造の本拠を獲得した信長は、最強の鉄砲隊を編成するため、大量の鉄砲製作を堺に課します。この時、堺の武器商人ーポルトガル宣教師(事実上の武器利権の持ち主)ー武将の密談を執り行い、見事に信頼を勝ち取ったのが利休です。

同時、堺の商人の家に生まれたならば、侘び茶の習得は必須であり、さらに中国・日本の陶器を入手することから、美術の教養までもが必要でした。

こちらも堺の商人の家に生まれた利休は、多様なコネクションを駆使して、見事に信長に見出されて茶頭に任命され、一気に名乗りを上げます。

表に裏に商談を行う時の武士、商人、宣教師らを取り纏めた利休の存在は、徐々に政治的フィクサーにまでなります。

信長の没後、代わって百姓から成り上がった豊臣秀吉が後継者となると、利休は一層重宝されるようになります。

ただし、武家生まれの武将らを相手にしていた先代から、今度は百姓から成り上がった新たな権力者を相手にせねばならず、この時、秀吉は武家的な侘び茶を次々とテコ入れします。

例えば、室内を極端に縮小し、密談の相手との距離を詰め、自らの意図に適うように編成したり、時に黄金を潤沢に使用した茶器、茶室を製作させるなどを行っています。

結局、利休は秀吉と対立し、秀吉の命令で切腹、その生涯を終えました。一体、政治に揺れ動いた侘び茶の大成者である利休の本質はどこにあったのでしょう。

それが、茶室の場所環境を「しつらえ」、敵対する客人同士を戦争させない高度なホスピタリティ技術だったのです。

実は本来の茶室とは、相手を上下と見ず、対等な緊張関係に置く場所であり、まさに日本のホスピタリティの源泉だったのです。

Beyond Wabi-Sabi: The Essence of Japanese Hospitality