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兵庫物語Hyogo Monogatari

Hyogo Monogatari(兵庫物語)

あなたは日本に来訪した時、兵庫に行ったことがありますか?

関西の観光と言えば、大阪、京都、奈良には行ったことがある人は多いでしょうが、あまり兵庫にまで足を伸ばす人は多くありません。そして大阪、京都、奈良、東京などは、どのような街か既に形成されたイメージを誰もが想起できるでしょうが、兵庫にはそうしたイメージがありません。

この兵庫県最大の都市部である神戸市は、個人的にも深い思い入れのある場所なのですが、かつての姿と今日では、大きく異なることは多くの人々に知られています。簡単に言えば、神戸は日本の都市部の中では、最も魅力を失った都市に位置付けられているのです。実際、若年世代の神戸離れは年々加速しており、かつて大阪や京都と異なる独特の魅力を持っていた神戸の力は、完全に過去のものとなりました。

私が小さい頃、神戸は父の仕事の関係で毎年夏になると連れていってもらい、凄く好きな街の一つでした。関西の中では唯一と言えるほど穏やかな時間が流れ、海に面した都市特有の心地よい風が吹く中を歩けば、どこか都会の喧騒を忘れてリラックスすることができたのです。しかし、ある時期を境に状況が一変します。それが1995年1月17日の阪神淡路大震災です。マグニチュード7.3の巨大地震により、神戸は壊滅的な被害を被ります。以降、震災からの復古として街作りが一挙に始まりますが、30年経った今、1995年以前の活気が戻ることはありませんでした。これは明確に、震災復興に関わる未来の都市ビジョンを持てなかったことに原因があると考えています。

地震などは日本では避けることはできないため、問題は常に地震の崩壊によるリセットを経た後、どのようなビジョンをもって都市作りを行うかにあります。しかし、日本にはこれがありません。この神戸が抱えてきた問題は、全ての都市が同様のリスクをはらんでいる巨大地震以降を考える時、一つの参照点となり、また反省点にもなるのです。この都市作りの問題を見抜いておくことが、今後必ず起こる首都圏直下型地震や南海トラフ巨大地震以降の日本の都市作りに関わるでしょう。

しかし、兵庫が日本で唯一の極めて複雑な歴史があるということは、ほとんど知られていません。なぜならば、兵庫のイメージが神戸に一極集中した影響により、誤った視座が広がってしまったからです。それが「異国情緒の都市」という実像です。このイメージは、明治維新頃に開港の仕組みのもとで神戸に居留地が置かれた歴史に由来します。この神戸を舞台とする居留地の都市作りは、多方面に影響を与えています。その代表的な存在が、肉食文化です。長らく仏教の影響により、日本では肉を食す文化が表向きには禁じられてきたのですが、肉食が日常にあった人々は新天地の日本でも公然と肉食を求め、それは幕府と新政府に対する要求となっていきます。

こうしたことが神戸では起きたのですが、視方を変えれば西洋化の実験都市の最前線が神戸だったのです。ゆえに、今も神戸には当時の居留地の名残が残っています。確かにこれは神戸の一面ではありますが、歴史的に見ればたかだか160年程度でしかありません。しかし、神戸はそれ以降もこのイメージに依存し過ぎたがゆえに、現在まで観光戦略においても大失敗し続けています。事実、日本に来訪する観光客のほぼ全てが大阪・京都・奈良には出向きますが、その恩恵を兵庫は受けることができていません。これは長らく、兵庫県の課題となっていますが、その理由は明白です。豊富な歴史を持つ兵庫を無視して、居留地を中心とする神戸の一区画だけを兵庫のイメージとしてブランディングしてきたからです。

ただ面白いことに、関西の出身者であれば、兵庫の文化・歴史の多元性については知らないものの、何となく「兵庫」として語られるイメージの違和感には気付いています。例えば、出身地を語る時、私たちは通常「東京生まれです」や「京都生まれです」と言いますが、なぜか兵庫県出身者は「兵庫生まれです」とは言いません。どのように言うかと言えば、「神戸生まれです」や「姫路生まれです」や「淡路島生まれです」となります。実は、この点に兵庫県の成立に関わる日本一複雑な事情が関わっており、興味深いことに、その歴史的な名残が今も続いていることが分かります。

さて、兵庫を語ることは難解なのですが、まず兵庫とは何かを正すことから始めなければなりません。

現在の兵庫は、「県」という一つの行政単位として認識されていますが、その内実は異質な五つの国から成り立っています。それが、摂津・播磨・但馬・丹波・淡路です。

この五つの国は、気候も産業も文化も歴史も全てが異なる文化圏に起源を持っており、本来は一つの行政体として束ねられるような関係にはありませんでした。実際、同じ兵庫でも大阪に近い尼崎市から岡山に近い姫路市への移動は、同じ県内移動と感じられないほど文化が異なり、そこから日本海側の豊岡市に至ればもはや別の世界です。事実、同じ兵庫県でも方言はかなり異なります。また南の島嶼部である淡路島は、明治維新が起きるまでは阿波の蜂須賀氏が治めていたため、事実上は徳島側の領土であり、そもそも四国の延長でした。

このように、日本にこれほど内部が不均質な県は他に存在しません。逆に言えば、日本の近代化に関心を持つ人であれば、徹底的に研究した方が良いのは兵庫の成立史です。ここに近代化というか西洋化の動きが圧縮されています。別な角度から言えば、兵庫県成立史を理解することによって、日本の近代化の動きが可視化できるのです。

まず、兵庫最大の特徴は他県の歴史ではあり得ない「130以上に分割された」極めて複雑な世界を有していたことにあります。江戸時代では約15の藩が兵庫県を分割的に治めており、以下のような構図になっていました。

摂津の神戸・阪神エリアには尼崎藩、三田藩、高槻藩の一部などが置かれており、播磨の姫路エリアには姫路藩、明石藩、龍野藩、赤穂藩、小野藩、三日月藩など多数が並立。日本海側の但馬には出石藩と豊岡藩、内陸の山間部には篠山藩と柏原藩が据えられ、淡路島は徳島藩の蜂須賀氏の支配下にありました。これだけでも複雑ですが、問題の核心はこの先にあります。

大前提となる約15の藩に加えて、さらに江戸幕府が直接管理していた「天領」と呼ばれる特殊領土が、但馬の生野銀山近郊や港町の兵庫津などに点在していました。この天領とは江戸幕府の直轄領であり、主に資源や貿易が他藩に占有されない目的として設置されていたため、直属の支配者は徳川将軍家となります。なぜならば銀山開発を藩に独占させてしまうと、覇権略奪を巡る不穏な動きが起きるからです。ゆえに、天領は全国規模で展開されていましたが、さらに複雑な事情として、幕府の懐柔していた旗本領と呼ばれる小規模な領土が兵庫には100以上も散在していました。ゆえに130以上に分割されていたのですが、この分割という考え方は明治以降の統一された兵庫県から見た視座であり、実際には多元的世界の示唆です。それにしても、なぜこのような非効率に見える領地構造が形成されたのか。

その意図は、江戸という遠く離れた場所に本拠を構える幕府が、西国大名を警戒し、監視網を敷くためです。西国大名とは、主に関西より西部全域にかけて領地を持つ大名のことですが、歴史的には徳川将軍家の初代・徳川家康が覇権を握った関ヶ原の戦い(1600)の時、反徳川として敵対した豊臣側に属していた相手です。つまり、江戸時代の始まりの時点で、これら西国大名はルーツを反徳川に持っていたため、反乱が起きないように厳重に管理する必要があったのです。ただ江戸に中心を持つ幕府にとって、遠く離れた広大な西側領域を管理することは困難です。そこで幕府は、西国大名管理の最前線として、現在の兵庫に目をつけたのです。

この結果、幕府は信頼できる旗本に小さな領地を無数に与え、関西中に散らばらせて監視網を強化します。これが抜群に機能したのですが、中でも兵庫は幕府にとって西の守りの要地であり、意図的に細分化された領地構造を持っていたのです。これは日本でも兵庫だけが持っていた特殊な性格です。さらに兵庫は京都に近い土地柄もあったため、京都側の寺社や公家が独自に所有する小さな領地も複数点在していました。このため、隣の村に行く度に領主が異なるという途方もない政治的モザイクが兵庫に展開されていました。

このように、一つの県としての兵庫は元々存在しなかったという観点が重要となります。前述の通り、兵庫成立史は近代日本成立史の縮図です。つまり、全く異なる多元的世界を強引に一つに束ねたのが近代日本の真実なのです。この観点をベースにすれば、これまで「日本を知っている」と思い込んでいる多くの人々の考え方は、大幅にアップデートしなければならないことが分かります。彼らが語る「日本を知っている」とは、所詮は極めて一部しか見ていないからです。

では一体、なぜ明治政府は兵庫を無理に統合しなければならなかったのでしょうか。その理由は、神戸に置かれた居留地の仕組みにありました。軍事的な圧力を背景に開国が進み、国内が幕末の内戦に揺れる中、日本の市場開放が実現すると、貿易の利権は競い合うように表に裏に動きます。ただし、当時は明治維新の影響もあって、外国との接触に反発して排撃行動を行う人々も各地に点在していたため、明治政府は両者が国内で対立しない処遇を考えなければならなくなったのです。その矛先として目をつけたのが、現在の神戸です。一体、神戸とは何なのか。

それを理解するためには、まず「兵庫津」という存在に目を向けなければなりません。兵庫津は現在の神戸市兵庫区沿岸部に位置し、かつては大輪田泊と呼ばれていました。この位置は、現在神戸として知られる繁華街の三宮や元町から少し東部にあるのですが、この位置関係が重要となります。兵庫津は古代から港として栄えており、8世紀初頭に瀬戸内海航路の最重要拠点として築かれ、804年には遣唐使として最澄と空海がこの港から船出しています。つまり兵庫津の歴史は、日本仏教の巨人たちの旅路にまで遡るルーツを持っているのです。ある意味、兵庫津は大陸に繋がる海路の玄関口でした。

この兵庫津の源流となる大輪田泊を抜本的に改革したのが、On Dogenシリーズで扱ってきた平清盛です。平安時代末期、清盛は日宋貿易の拠点としてこの港を大修築し、日本初の人工島を防波堤として築造しました。清盛はこの港を核とする国際貿易都市の建設を夢見ており、1180年には平安京を放棄して福原遷都をこの場所で行なっています。これは京都の延暦寺や奈良の興福寺など寺社勢力の干渉を排除し、宋との貿易拡大によって海洋国家を樹立する意図があったからです。遷都は半年で失敗して京都に戻りましたが、清盛がこの地に見た未来の設計図は、やがて700年後の明治期に実現することになります。ただし、位置がズレていることを見逃してはなりません。

清盛の死後、大輪田泊は鎌倉時代に入って「兵庫津」と呼ばれるようになります。つまり、現在の兵庫県の呼称の源流にあるのは、実はこの豊富な歴史的系譜を持つ兵庫津です。こうして室町時代には足利義満が始めた日明貿易の国際港として栄え、江戸時代には北海道・東北の日本海沿岸と近畿を結ぶ北前船の発着港として大繁栄を遂げました。この兵庫津だけで人口は江戸中期に2万人を超えており、後に大商人が現・北海道の蝦夷地開発で活動する拠点となってかなり繁栄していました。

歴史的に見ると、兵庫津はどの時代においても日本有数の港町として機能しており、千年を超える港の記憶こそが兵庫という地名の根底にあります。言い換えれば、現・神戸市兵庫区沿岸部の兵庫津が本当の兵庫です。本当の京都が実は京都市内の僅か一区画しか指さないように、本当の兵庫も極めて限定的な場所です。そしてそこには1000年以上の歴史があり、国際貿易として栄えてきた圧倒的な歴史資本を持っているのです。

ですが、1868年に明治維新を迎える前後になると、この歴史文脈が明治政府と西洋諸国の都合によって容赦なく排斥されます。この時、130以上に分割されているモザイク構造を一つにまとめるという途方もない作業に政府は直面しました。こうして全国的に展開された1871年の廃藩置県が行われる段階に入ると、兵庫エリアには姫路県・尼崎県・明石県・篠山県・出石県など30を超える小さな県が乱立してしまったのですが、これは国税徴収や統治の観点から非効率を極めます。そこで政府は神戸港と阪神エリアの摂津を合わせた兵庫県、姫路を中心とした播磨の飾磨県、日本海側と内陸部の但馬・丹波の豊岡県として、大きく三つに統合しました。ここで現在の兵庫県は三つの県の体制に変わったのですが、この三県体制もわずか5年で終わります。

1876年に飾磨県と豊岡県が廃止されて全て兵庫県側に吸収合併され、さらに本来は四国側の領土であって淡路島が兵庫県にくっつけられます。この徳島側から淡路島を政府が取り上げて兵庫県側にくっつけたことは、実は強い遺恨として今日にまで残っています。ここからは、なぜ政府がこのような暴挙を行ったのかを見ていきます。

この暴挙が行われた瞬間、兵庫は従来の130以上のモザイク構造を解消しないまま、強硬的に中央政府の意図のもとで統合されたのです。言うまでもなく、この統合は一方的かつ歴史文脈を完全に無視したものであり、無理やりくっつけただけに過ぎません。これが現在に至るまで、兵庫の意識を分断し続ける根本的な病巣となっているのです。

この強硬策の指導者となったのが、当時の内務卿・大久保利通(1830-1878)です。実はこの強硬的な統合に反対する政府関係者も多かったのですが、大久保が「開港場である兵庫県の力を充実させるように考え直せ」と一蹴したことにより、兵庫の成立は地域の総意を無視して独断で決定されました。つまり、兵庫県の巨大な県域は神戸港の国際貿易拠点化という国策から逆算されて設計されたものでした。この決定の背景にあったのが、開国後の日本市場を巡る貿易の利権の構造です。

ここが兵庫の歴史の核心です。五つの国を強引に一つに束ねることは、歴史文脈を理解する自国の人間であれば、到底あり得ないことは自明です。しかし、市場開放という論理の中では、このような地域の歴史は計算に入らず、重要なのは貿易の利権という物差しです。こうして日本の歴史文脈は無視されていき、利益の論理だけが優先される構造が持ち込まれたことにより、事態は悪化していきます。そもそも明治新政府の成立は、当時は表向きに言えなかったものの、各国との関係に支えられて実現されていたため、その論理に逆らうことが難しかったのです。

こうして兵庫県成立の目的は、神戸港の発展という明治政府の戦略的要請として位置付けられましたが、この意図は居留地を抱える神戸の大開発において、整備するための膨大なインフラ費を政府側が賄えなかったことが原因です。そこで居留地と港のための巨額のインフラ費を日本側が工面するために、政府は次の暴挙を行います。それが豊かな農業を持つ播磨の飾磨県や、銀山をはじめとする資源が豊富な但馬・丹波の豊岡県、そして農業・酪農が盛んな淡路を無理やりくっつけて、神戸を養うための巨大なスポンサーを強制的に作り上げたのです。いわば兵庫県成立は、貿易の利権の構造と、それを国策に取り込もうとする明治政府の為政者の利害関係の一致があり、兵庫県の内部事情などを全て無視して実行された暴力的なものだったのです。

それを証明するかのように、初代・兵庫県知事に就任したのは、後に日本初の内閣総理大臣となる伊藤博文(1841-1909)です。新政府の為政者を数多く輩出した長州藩生まれの伊藤博文は、イギリス留学経験があり、西洋の港湾都市の設計思想を理解していました。彼が兵庫県知事に据えられたこと自体が、この県が単なる行政区画ではなく、国際貿易の国策拠点として構想されていた証左です。つまり、長い歴史を持つ神戸の歴史において、アジア諸国側の貿易拠点として栄えてきた文脈から、ここで西洋諸国側の貿易拠点へと動いたのです。しかし、それは非常に穏健な視方であって、実態は不平等な条約の仕組みのもとでの日本経済の組み込みです。

ここで重要となるのが、神戸に対する違和感です。なぜならば、明治政府が開港場として指定し、西洋の外国船や西洋人を受け入れる港として整備させたのは、本来の「兵庫」であった兵庫津から3.5kmも東に離れた場所だったからです。それが神戸村です。

明治維新より遡る1858年の日米修好通商条約で日本側に圧力がかかって開港が決定した際、実は対象は兵庫津に設定されていました。これは西洋諸国にとっても、アジア諸国との貿易港としての地盤がある兵庫津の方が、圧倒的に利用しやすいと考えたからです。しかし、実際の開港にあたって幕府は兵庫津の開放を拒んでいます。その理由は、兵庫津が当時大阪の外港として取引が盛んで人口も多く、そこに西洋人居住地などを設置すると、当然ながら日本人側との衝突が懸念されたからです。そこで政府側は代替案として、兵庫津の東にあった静かな砂地と畑地が広がる神戸村に着目したのですが、これは従来の貿易利権を持たない神戸村なら用地確保が容易だったからです。こうして神戸村の村民は強制的に排除され、その土地は居留地として外国人に付与されました。

こうして明治維新が成功する直前の1868年1月1日になると、イギリスの戦艦ロドニー号をはじめとする英米の艦隊18隻から一斉に祝砲が放たれ、神戸港は開港します。開港当時の神戸村の人口はわずか約3600人であり、砂浜が広がる小さな寒村に過ぎませんでした。この土地に構築された居留地は、イギリス人土木技師J.W.ハートの設計によって建設されており、そこで格子状街路、街路樹、公園、街灯、下水道が整備された126区画の居留地が成立します。当時の英字新聞は「東洋における居留地として最も良く設計された美しい街」と高く評価していますが、しかし、その過程で歴史文脈は完全に置き去りにされていました。一方で居留地建設は開港には間に合わなかったため、その一部に西洋人と日本人の雑居地が指定されています。この雑居地が、後に神戸の観光地である北野の異人館街や南京町の中華街を生むことに繋がり、神戸独自の文化の母体となっていきました。

そしてこの強硬的な統合に対して、政府は開港と西洋化を肯定するブランディングを開始します。それが神戸を「文明開化」の象徴に位置付けたことでした。つまり、西洋化は最先端であり、日本の在り方は遅れているというキャンペーンです。こうした空気が明治政府主導で広がった結果、居留地の暮らしの様式が日本の風土を顧みないまま持ち込まれ、街の姿を次々と変えていきます。そして自分たちの生活習慣を日本側に求める流れが生まれたのです。その代表的な象徴が、KOBE BEEFです。

神戸の居留地に暮らす人々は肉食の習慣を持っていたため、当然のように日本でも牛肉を求めます。しかし、仏教の影響で公然と肉食する習慣がなかった当時の日本には、食肉用の牛などおらず、そもそも禁忌でした。しかし居留地の需要は大きかったため、各地から使役用の牛が調達されて美味しい牛肉探しが始まったのですが、その中に日本海側の山奥・但馬地方で農耕用に飼われていた牛がありました。この但馬牛を食した居留地の人々がその味を絶賛し、いつしか神戸で食べる牛肉がKOBE BEEFと呼ばれるようになったのです。事実、明治維新前夜の1867年に最初に神戸で牛肉店を開いたのは、イギリス人です。視方を変えれば、今もKOBE BEEFを求めている外国人観光客は多いが、一体この歴史を理解している人がどれだけいるかです。ある意味、近代の負債としてKOBE BEEF生み出されたものであり、一方的に美化されるものではありません。

そしてもう一つ、この時期に並行して神戸にフリーメイソンのサンライズ・ロッジがオープンしています。実は、フリーメイソンは東日本の貿易港である横浜などにもロッジを次々展開しており、当時は8つのロッジが日本国内にありました。そして彼らは肉食文化を求めるため、神戸側のロッジを本拠地としてKOBE BEEFを他のロッジに流通させ始めました。一方、横浜ロッジの支部長だったチャールズ・ヘンリー・ダラスは、愛人の出身地だった山形県から牛肉を仕入れるようになり、これがやがて米沢牛となっていきます。

実はフリーメイソンが日本で最初に根を張ったのは、関東側ではなく関西側の神戸でした。居留地の整備とともに、一気に日本特有の木造建築から、レンガなどの石造りの街並みへと変わっていきます。つまり、表層的には西洋風と美化されて言われますが、その背後にはロッジを結ぶ交易の網という仕組みがありました。この歴史も、今ではほとんど知られていません。

ここで語ってきたことは歴史の一端に過ぎませんが、兵庫県が五つの国を強硬的に一つに束ねられた歴史を持つ事実は、明治維新によって日本全体がどのように変貌したかを映し出す鏡でもあり、他国に対する西洋化の意義を見直すための最前線の研究舞台だと言えます。実際、私は兵庫県をそのように捉えています。

近代日本は、各地に固有の歴史と文化を持つ無数の小さな世界を「県」という均質な行政単位に押し込めて排除し、中央集権的な国民国家を作り上げることに成功しました。その過程で失われたものは計り知れません。そしてこの暴力を主導した側は自らと西洋化を肯定しなければならなかったため、ここで大規模な国家キャンペーンとして西洋諸国の学問をベースに江戸時代の徳川将軍家による治世を一元的に「封建主義」「独裁主義」と位置付け、野蛮人による統治時代とまで断定します。しかし、江戸時代ほど場所を信頼し、尊重し、場所文化を育むことができた時代はない。むしろ、明治政府登場以降の歴史の方が、圧倒的に封建主義、独裁主義、野蛮開発です。以前の記事で中原中也(1907-1937)の【文明開化と人云ふけれど 野蛮開発と僕は呼びます】(1934年11月)という詩に触れましたが、まさにその通りです。

このように見ると、彼らにとっては兵庫の歴史の真相を解体されてしまうことは避けなければならず、徹底的に隠蔽しなければならない最重要事項だったことが見えてきます。なぜならば、そこには近代日本の西洋化や文明開化という物語の大きな歪みが、自明の証拠として刻み込まれているからです。本来、阪神淡路大震災はこの歴史の隠蔽と虚偽を暴く千載一遇の機会でしたが、残念なことに当時もこの事実は隠蔽され続けてしまい、結果的に今も神戸は占拠された西洋的名残を強調する文脈に限定して歴史が語られます。

兵庫は失われた多元性が最も色濃く残っている県であり、同時にその多元性を無理やり一つに束ねた近代化の暴力が最も露骨に表れている県でもあります。その両面を見ることによって、日本人が明治以降に失った「異なるものが隣り合って共存する世界」の記憶が蘇るのです。そして兵庫の五つの国は、今もなおその異なる顔を見せ続けています。

平清盛が夢見た港に、大久保利通が仕掛けた国策を重ね、伊藤博文が西洋の設計思想で形を与えた。その背後には、市場開放を急いだ時代の構造があります。その結果生まれた兵庫県は、日本の近代化そのものの縮図、いや、近代の縮図です。そしてその縮図の中に、近代以前から連綿と続いてきた五つの国の記憶が今も息づいている。この重層的な時間の厚みを読み解くことが、兵庫を本当に理解するための鍵となるでしょう。

Hyogo Monogatari

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