朱子学的都市論と陽明学的都市論Urban Theory After Zhu Xi and Wang Yangming
昨日は宋代の儒者・朱子によって、理と気の二元論における分離という思考地盤そのものを設計する方法論が登場したことにより、世界が大きくズレてしまったことについて書きました。その問題意識を踏まえて、今回は都市論を考えていこうと思います。個人的にこれまで日本各地を歩き回りながら、一体、文化が創成される場所とは如何なるものかを思案してきましたが、これらは感覚的に理解できても、言語化することは難しいと感じてきました。
しかし、昨日の記事を書き、理気二元論について考えながら街を歩いていると、現代の都市というものから感じる心苦しさ、人間にとっての違和感というものこそ、まさに都市設計や都市開発において、この朱子の理気二元論が進んでしまった果ての逆作用として、人間の心に負荷をかけているのではないかと想起するに至りました。もちろん、それは世界規模で起きているというわけではなく、一部の都市に限られる問題かもしれませんが、全体的に考えられる問題意識としては同じはずです。
何よりも、日本の考察からこの都市論の在り方を可視化しやすい理由は、事実として東京が現在世界一のバーンアウト都市として位置づけられているからです。様々な理由はあるでしょうが、日本の都市構造の中でも大都市の構造に設計されていることは、そこに住む人間を常時オンにする状態を作り上げるということです。ですが、オフの時間を持たせずに常時オンにすることを強いる見えない圧力を都市構造に適用することは、明らかにおかしいし、持続可能ではない。にもかかわらず、なぜ東京や大阪、名古屋などの大都市圏を筆頭に、各地方都市はこのような惨状を呈しているのでしょうか。ここが私にとって強い違和感でした。
実際、明らかにこの数年の東京でこの見えない圧迫は過剰に強まっており、人々は相互監視を強化して連鎖的バーンアウトを引き起こして共倒れしています。あるいは、もはやバーンアウトというよりも、先の問題であろう樹木が枯れて死んだモードに突入したと言えます。つまり、東京は世界一のバーンアウト都市というよりも、もはやそこに従来のバーンアウトという考え方を持ち込むこと自体、問題外になっているということです。東京は既に世界にバーンアウトの先を開示しており、今後30年程度で時差を伴いながら、各都市も共通の問題を抱えることになるでしょう。かつて30年前、日本で引き籠りや鬱や自殺が社会問題になったことが、30年程度の時差を経て世界各地で問題になっていることも同じです。ある意味、東京は悪い先例の先頭を走っています。
これらは単純に、社会の問題として論じることも可能でしょうが、今回は朱子の理気二元論の観点を都市構造の設計に持ち込んだことによって、そこに住まう人々の心が如何にしておかしくなっていくのかということに焦点を当てます。
というのも、現代の都市計画は、その理想的な設計図である理を先に描き、開発し、完成した都市において人間を最適化しようとする動きが前提となっているからです。つまり、都市計画において重要なのは、朱子学においては理それ自体を有していると考えられている外部の事物であると考えられるため、その事物を都市と捉えるのですが、より正確に言えば、理は計画すること自体を指しています。この時、そこに住まう人間のことは全く見られていません。この場合、人間存在は、計画・設計・開発された都市に最適化すればいいという程度の部品としてしか捉えられていない状況が前提になっています。端的に言えば、人を見ていないということですが、朱子学のシステムを採用すると、必ず人を見ることの力が失われていきます。
都市設計は、グリッド、ゾーニング、スマートシティなど様々に言われてきましたが、これらは一つの社会的なシステムにおいて、市民の声が強い歴史的な地域や場所において機能するものです。つまり、都市設計には場所の起源に基づく前提条件がある。場所を動けば起源は変わるのですが、ここがグローバルに一元化された普遍という偽装商品と絡まり、場所は一元的空間へと均質化されているため、都市設計においてもこの問題は鑑みられていません。
特に、市民の声が都市を生成するという歴史的な文脈が希薄な地域にこの概念を持ち込むことが無意味なのは、都市設計に限らず、全てが常に上からの意思によって決定されるというシステム構造を前提するからです。ゆえに、グリッド、ゾーニング、スマートシティなど、特に欧州の一部で成功している事例を、文脈の異なる日本に持ち込んだとしても、ここで述べている本質を日本の都市設計・開発に関わる全ての人々が分かっていないため、単純に利権の集合体における分配程度として結果します。つまり、目新しいアイデアや聞き慣れない言葉などを採用して、それをやったふりをするということが横行するわけですが、この動きでは本来輸入時の大前提となる西洋の歴史的な民主主義や、市民の力という文脈は無視されてしまいますので、やがてトップダウンとも言えない、利権に寄生する人々の収益を考えた都市計画以外に何も進まないという現状に陥ります。これが日本の現状です。
理気二元論における理想的な設計図において、都市に人間を当てはめようとする動き自体が間違っているとは思いませんが、問題はこの理想的な設計図における理想的とは、誰の、何の理想なのかという点に集約されます。特に、歴史的に下からの市民の力によって何かが成されるという西洋的な動きではなく、儒教圏的なトップダウン、つまりトップの意思が全てを左右する歴史に馴染んできた日本や中国のような地域にとっては、この理想的な設計図の理想の意味自体が何よりも重要となります。この場合、理という理想的な設計図の決定に関わる人の人格、つまり心自体に余白があり、揺れ動く余地があり、そして常に緊張状態のオンではなく弛緩の状態も維持しているかが問われなければなりません。要するにトップに立つ人物が、交感神経と副交感神経のバランスが適度に取れている人物であり、かつ国際感覚を持っていれば、この都市設計というのは非常にうまく機能するのです。
実際、戦後日本の高度経済成長期などは、この傾向自体が活力を持って現れていましたが、1990年代後半にかけて官僚主義にシステムが完全に移行していく過程で、こうした余白は非論理的だとされて排斥されていきます。朱子学的システムにおいては、理における知識主義の絶対化が行われ、そのシステムの守護者に官僚機構が君臨しますが、こうしたシステムが樹立すると、知識主義が解明できない非論理的なものは全て破棄されてしまいます。この時、都市のシニフィアンは隠されてしまい、官僚的な事務処理によって都市はシニフィエで固められていきます。これが日本が1990年代頃から大きく変容し始めた動きに関わっていると私は考えているのですが、つまるところは都市設計の問題でもあるということです。ただ、この都市設計の問題は突き詰めていけば、結局はこの理気二元論の問題に行き着きます。都市の問題は美学のアイデアではないということです。
ゆえに、グリッド、ゾーニング、スマートシティなどは、理としては正しいことになるが、実際にそうした場所に訪れても、どこか冷たく、そして何よりも活気がありません。本来、都市は箱のビルや空間によって決まるものではなく、そこを生きる人々の表情によって決まるはずですが、全く活気がない。むしろ日本の都市開発には一つの結論が出ており、それは活気のある地域が都市部にはないということです。つまり、日本の都市開発は完全に失敗しており、再起不能の臨界点を超えているという事実です。
これは、朱子学的都市論の発想における理気二元論を前提としたシステムが前提となっているからです。単純に言えば、ハードを作ればソフトが入るという発想ですが、人口が過剰に過密になったり、疲弊的な要素が社会に出てくると、箱を作っても魂が入らない状態が横行します。典型的なのが東京ですが、現在、この東京モデルが日本各地に強行的に採用されており、全面的破壊が進んでいます。何より、この原理自体を都市設計に関わる人々が気づいていません。気づかないというよりは無関心であり、気づいていても無視します。なぜならば、彼らの出世にとっては、数値化できない評価は無関係だからです。
ですが、この朱子学的都市論から認識転換すれば、全く違う発想が見えてきます。この観点は儒教の影響下にある地域に限らず、あらゆる地域で重要になってくるのですが、キーワードとなるのは「凝結」です。国家や都市は「一大気の凝結するところだ」と捉えることから始まります。この認識論的転換は、都市という物理的なビル、道路、広場は無機質なコンクリートの塊なのではなく、本来そこに住む人々の熱量、志、信頼、欲望の様態である「気」が冷えて固まった結果の「凝結」という状態だと捉え返すことです。
この考え方は、ここまで述べてきた朱子学的都市論からすれば、思考自体が根底から異なります。簡潔に言えば「良い都市計画があるから良い市民が育つ」という考え方自体が、そもそも朱子の理気二元論に基づいているため、そうではなく、「市民の気が澄んでおり、高い熱量や倫理観があるからこそ、美しい都市が凝結するのだ」というふうに捉える転移を為すことです。
この考え方を前提に据えて突き詰めていくと、都市の姿を見れば、人々の気の程度が分かるということが見えてきます。なぜならば、都市というものは、そこに暮らす人々の気の凝結としての様態が現在における結果として現れているからです。ゆえに、その都市を歩き、その人々の顔を見ることによって、その都市の可能性や未来までを含めた全てが分かります。これが都市論において、非常に重要だと考えます。
例えば、日本で21世紀頃から問題になっていながら、何の解決もできなかった商店街のシャッター通り現象を例に見てみます。単純に経済不況などの結果と言えるのかもしれませんが、経済不況というのは理屈の結果でしかなく、その地域に暮らす人々の諦めや相互不信という気が凝結した姿こそが、商店街のシャッター通りという結果として現れていることです。しかし、この問題解決にあたった人々、さらには商店街の当事者たちもこの認識を持っておらず、単に理の問題ばかりを論じて停滞したため、何の解決もできず、ただ静かにフェードアウトする帰結となりました。
事実、日本において私はこれまで注視してきたのが、都市の「余白」という考え方ですが、これが全く考えられていません。都市には必ず余白が必要ですが、これは余白というものが生まれる余地を残すことを前提に設計を為すことです。なぜならば、都市計画において余白は設計できないからです。余白は人為によって生み出されるものではなく、その人為が及ばない場所から自然に生成されるものであって、意図的に作り出されるものではないのです。こうした「余白自体が生きている主体である」と見做す考え方を持つことが、ここでは非常に重要になってくるのですが、例えば戦後日本における文化の生成は、基本的にこの余白から生まれています。
戦後は都市部が空襲によって焼け野原になったため、そこには空き地などが無数にありました。ここで戦後の子供たちは、自発的に広大な空き地を利用した遊びを考え、感性を研ぎ澄まし、やがてその後の高度経済成長期の文化の基盤を作っていきます。さらに同時期には、表の市場が全て崩壊していたため闇市が発展し、そこにおいて様々な文化が生まれます。東京の文化発信地として有名な高円寺や下北沢などは、この闇市から発展した形態です。そして、1960年代の学生運動などが盛んになる時に、文化の発信地となったのが路地裏です。特に新宿の路地裏であるゴールデン街は今では観光地として有名ですが、当時はそうした位置付けを持っており、文化がそこから芽生える生命の源でした。このように、ざっくりと見るだけでも、都市に余白が生まれてくる時、カオスなエネルギーが乱雑に凝集されるだけのように見えても、そこには非常に活気が生まれてくることが見えてきます。なぜなら、そこには人々が生きたい、楽しみたいという濃厚な気が狭い場所に凝集して様態となり、人々を引き寄せる引力を持つからです。これが1980年代までの日本の都市に通じていましたが、バブル崩壊後に都市設計の観点から完全に消えます。なぜなら、人の熱気は計算不可能だからです。こうして隅々まで綺麗にすることが都市設計では重要だと転移していき、都市から文化が消滅します。
都市の美醜というのは、美学としてのデザインの問題ではなく、そこに暮らす人々の心の投影であり、それは実態を伴う確かな肌触りのあるものです。しかし、理気二元論を完全に絶対化してしまった日本の都市設計においては、これが全く理解されません。その結果、都市には予めあるべき正しい姿(理)が存在し、設計者や開発者は、それを物理的空間(気)に投影するという傲慢な考え方に転倒します。
ここでは都市設計の関係者は心ではなく、全てを知識主義の理で判断しているため、余白を考える余地は微塵もありません。心に余白を持たない人々が、国家や会社を運営し、物事を決断しているのですから、その反映として都市に余白が生まれるはずはありません。結果、文化は消失します。特に東京や大阪などの大都市で典型的ですが、グリッド上の道路、ゾーニング、タワーマンション、スマートシティなどが次々とアイデア次元では設計されるも、ここで起きていることは「空から見下ろす神の視点」での都市設計です。実は、こうした都市設計の観点は、明治に西洋の影響が入る以前に日本になかったものです。なぜならば言語構造が全く違うからです。
「神の視点」は、主語制言語に特有なものですが、日本語は述語制言語であるため、このような空から見下ろす神の視点を歴史的に持っておらず、言語構造的に地上を歩く人の視線によって都市設計が作られてきた歴史があります。つまり、思考地盤自体が全く違ったため、都市自体に固有が生まれていたという顕著な例です。それが明治以降に壊滅的になっていき、今日の惨状に帰結します。前提条件が全く異なるものを無思慮に受容したからです。異なる起源を無思慮に自らの起源に持ち込むと、必ず心的な破滅に至ります。かつて古代部族は、起源の異なるものを受容する際には、必ず祭祀を通して混淆することを為しましたが、これが近代に入って非科学的だと無視されたため、都市自体が起源を瓦解し、160年程度かけて完全な崩壊へと帰結しました。東京が世界一のバーンアウト都市と位置付けられているのは、直近の歴史だけではなく、1世紀以上に渡る起源のズレを見なければなりません。
ですが、この起源の異なる神の視点は、実は分離を地盤に生成されたものであったため、朱子の理気二元論と極めて相性が良かった。この分離を前提とする両者の結婚により、都市の構造を分析し、最適なシステムを外部から構築しようとする姿勢が生まれてきます。この時、理が絶対的真理として外部に存在するとして、分離において捉える思考が徹底される根拠が形成されていき、朱子学的な理論は完成形に至ります。
しかし、都市の理は設計図(外部)に最初から存在するのではなく、そこを歩き、悩み、楽しむ人々の心の揺れにおいて生成されるものだと思考を転化させる時、全く異なる地平が見えてきます。この異なる地平は共時的なものであり、パラレルなものです。つまり、朱子から王陽明の理論における都市論への転換ですが、どちらが絶対的に正しい、間違っているという二元論ではないということです。双方が共時的かつパラレルに存在することによって、都市に緊張が生成される高度な原理です。
ここで王陽明を持ち出したのは、朱子の理気二元論に対して、彼が「心即理」という視点を提唱していたからです。
心即理とは、心がすなわち理であり、理がすなわち心であることですが、さらに心がすなわち気であり、気がすなわち理であるというように、全てが合一だと捉える非分離の思想です。この非分離の思想によって、路地裏や自然発生する飲み屋街、広場での偶発的な出会いなど生まれてきます。なぜならば、これを朱子学的都市論とは異なる陽明学的都市論とすれば、地上を歩く人の視点から都市が設計され、しかもそれは設計者が意図して設計するものではなく、余白がしっかりと動ける余地を作ることによって、自然にそこに生成されてくる「気の凝結」となるからです。つまり、本来の都市設計の設計者の仕事は、神の視点で都市構造を緻密に構築するのではなく、余白が自然に生成される余地を作り出す創造以外にはないということです。
ゆえに都市設計においても、都市の構造を多角的に分析する知識主義的な観点を転移させ、実際に街を歩き、そこに暮らす人と関わることでしか都市の本質は掴めないとするとする転換に持っていく必要があります。現在、日本よりも中国で朱子学的都市論の設計が世界一の高度さで実現されていますが、ビッグデータやAIやオートメーションなどによって、都市自体を完全に管理する構造に向かうことが、朱子の理気二元論における都市論の完成形態です。日本は単純に、テクノロジーの導入の速度が異なるため、中国レベルのシステムを実現できていないだけです。
これは交通渋滞やエネルギー効率などの観点もあるでしょうが、人の行動管理、つまりそこの箱(都市)に暮らす人々の最適化という特性において顕著となります。なぜならば、理である知識主義を徹底的に追求することで、人間の気が流れて循環する都市を目指すのではなく、都市それ自体を完璧な都市として制御しようとするからです。ここには、人間を無視した完全な外部規範が強く働いており、必ず高度な官僚機構が必要となります。なぜならば、朱子の理気二元論が徹底的に研ぎ澄まされた都市論だからです。つまり、この朱子学的都市論の最終形態は、人間自体をシニフィアンとして隠してしまい、シニフィエで覆い尽くすことによって人間が消えるということです。
実は、昨今問題視されているAIやオートメーションによる人間の消滅よりも、現実的に私たちは都市において人間が消えている事態を見るべきです。都市から人間が消えることは、ひいては国家、世界から人間が消えるということです。この人間が消えるということは、都市から別の地域に人々が移住して消えることを意味しておらず、そこに存在しながら消えるということです。
しかし、それが一つの未来として考えられるにしても、この一方だけに偏重することはあまりに危険です。つまり、朱子学的都市論を進めるならば、同時にデータには表れない居心地や直感、個人の衝動が都市の魅力を作ると捉える陽明学的都市論を共存させなければなりません。つまり、理という効率や最適化やデータなどから逸脱する人間の心の余白を作ることこそが、都市を都市たらしめるという主張を徹底的に為すことによって、かつて人々が生き生きとしていた時代の都市というものの姿が見えてくるのですが、現在これがないということです。
音楽家の坂本龍一が晩年、1980年代までは東京、ニューヨーク、ベルリン、ロンドンなどの各都市には固有の音があったが、グローバリゼーションによって全てが均質化し、どこも同じ音になってしまったと話していましたが、都市固有の音というノイズが消える時、何が相対的に現れてきているのかを見極めることです。
今回は、日本を参照例に論じてきましたが、世界の都市部に通底する問題が浮上しているはずです。この時、単純にグローバリゼーションが悪いと捉えるのではなく、なぜ私たちはこの数十年、一つのシステムだけを絶対視し、パラレルに共存する余白を創造しようとしてこなかったのかを反省しなければなりません。同じことは、AIにも言えるでしょう。一元的に全てを善悪で処理する態度こそ、実は現代の最大の問題だということに人々が気付かない限り、確実に国家も都市も人にも未来はありません。
いつの時代も、変わり続けることだけが不変の自然であり、変わらないことは不自然なのですから。