すべてを壊さなければならないという命題The Proposition That Everything Must Be Broken Down
本当に世界をより良くするためには、一度すべてを壊さなければならない。誰もがそのことを知っていながら、それができない世界。いや、他のことはやっても、それだけは自分たちの利権や社会的ステータスが脅かされるので絶対にやらない世界。このままでは、いくら何か対処を行なったとしても、より良い未来への到達はあり得ない。そうした視点で物事を見ていったときに、真っ先に目に付くのは、世界を変えようとか、世界をより良くしようとする以前の問題が鑑みられていないことです。
このことを改めて強く感じたのが、今月中旬に日銀の金融政策決定会合とその後の異常な市場反応です。日銀は、この会合で政策金利を0.50%から0.75%へと引き上げることを決定。これは日本ではバブル経済が終わりに向かいながらも、まだ持続していた1995年以来、約30年ぶりの高水準です。本来、金利を上げれば通過(日本円)の価値が上がるのが経済の鉄則ですが、この発表直後から為替市場では猛烈な円売りが浴びせられ、円相場は今年最高の1ドルあたり157円台後半まで急落します。同時に10年物国際の利回りが2.1%を突破し、金利が上がって国債が売られる価格下落に加えて、円も同時に売られるトリプル安に陥りました。
そもそも、中央銀行が金利を上げても通過安が止まらない状態は、その国の通貨に対する国際的信認が崩壊した指標であり、確固たる証拠です。本来、この事態は慢性化しているトルコリラの通貨危機と同じですから、冷静に見れば、日本は既に通貨危機状態に陥っていると考える必要があります。何しろ、単なる為替変動で誤魔化されていた段階を終えて、ついに日本の通貨政策が制御不能になったことを世界に明白に露呈したターニングポイントだからです。しかし、驚くべきことに日本のマスメディアはこの事実を一切報道していません。自国の通貨への国際的信認が既に崩壊し、事実上日本が通貨危機に陥っている事実には一言も触れず、どうでも良いニュースというかゴシップばかりを相変わらず報道しており、12月18-19日に起きた一連の出来事はスルーされて、なかったことにされています。そのため、実は国民の大半は、日本円が既に通貨危機状態に陥っていることを何も知りません。
状況に一喜一憂さず、感情に惑わされずに冷静に母国の姿を見ている人々にとっては、目に見える形で日本がポイントオブノーリターンを越えていることを改めて知る衝撃的な出来事でした。トルコリラの通貨危機が2021-2023年前半にエルドアン大統領の掲げた経済政策が原因となったように、今日の日本円の暴落は、2010年代を独裁した当時の自民党・安倍晋三首相と日銀総裁・黒田東彦によるアベノミクスが原因です。しかし、マスメディアはこれにも触れない。政府も官僚も、アベノミクスが失敗だったとは絶対に言いませんし、マスメディアは全く追及しません。つまり、日本の病理は第二次安倍政権以降、それまでは存在した社会の透明性が消え去ったこと自体にあります。
2011年3月11日に発生した東日本大震災に伴う福島第一原発事故によってショック・ドクトリンが発生。これにより、復活を遂げた自民党は何の政治能力もない安倍晋三を担ぎ出し、野党の完全破壊に成功し、独裁状態に入ります。国境なき記者団が発表する世界報道自由度ランキングは、国家の透明性の指標の一つですが、実は2010年まで日本は180カ国中11位と比較的社会に高い透明性がありました。しかし、原発事故の際に情報公開が行われなかった事情から2012年には22位、そして安倍政権発足の2013年には何と53位と急激に下落し、そこから2014年は59位、2015年は61位、2016と2017年は72位となります。つまり、第二次安倍政権が始まった2012年12月26日から安倍首相が退陣する2020年9月4日までの期間で、日本は国際的に透明性にかなりの問題がある国家の象徴例となっていたわけです。
このレジームはゾンビ化しながら続いているため、今も強い情報統制がマスメディア次元で行われていますが、超高齢化社会の日本では、依然として国民の大半の情報ソースはマスメディアであり、しかもマスメディアと共に育った世代であることから未だに信用度も高い。つまり、日本は国際的に見れば全方向から破綻が証明されているにも関わらず、国内では破綻が起きていること自体を国民が知らない、知らされていない状況が続いているということです。
この状況を実際に日々体感している私には、この事態は約300年続いた江戸幕府が制度疲弊を起こして、統治能力を失った晩期(18世紀中期頃)に酷似しているように見えます。幕府の末期という意味で、この時代は幕末と呼ばれます。ぜひ、ここから当時の時代状況を現在と重ねながら考察していくので、読者それぞれに現在の日本の状況と照らし合わせて読み解いてみてください。幕府を政府と読み替えれば、分かりやすいでしょう。
当時、幕府と周辺の藩は機能不全に陥っており、為す術がない状況にまで追い込まれながら、何もしない、何もできないという態度だけが横行していました。この結果、まず最初に実害を被るのは当時の都市部であった東京・京都・大阪ではなく、むしろ政治中枢地の東京から離れた地域です。その筆頭格が、長州藩(現・山口県)でした。長州藩は、九州島と本州の連絡拠点であり、また日本海から瀬戸内海、瀬戸内海から太平洋側に最短ルートで抜けることができる関門海峡の管理を行なっていたため、現実的に欧米諸国の艦隊が日本近海で軍事作戦を展開する光景を日々目にしていました。しかし、幕府は遠く離れた東京にあり、しかも既に機能不全となって何も決められない。よって、1863年と1864年に、長州藩は幕府の決議を無視して、挑発を繰り返すイギリス・フランス・オランダ・アメリカの連合軍を相手に独断で戦争を開始します。これを下関戦争と呼びます。
ですが、最新の近代兵器有する欧米の軍事勢力に敵うはずなどない。結果、大敗を喫した長州藩は、一部を連合軍に占拠されてしまうのですが、ここで実際に軍事衝突を起こした経験を有する長州藩の武士たちは、このまま幕府に従っていては、日本が欧米諸国に占領されるという危惧を他藩よりも強く自覚します。元々、この時点で外からの圧力を強硬に排撃する「攘夷」という思想が日本各地に広がっていたのですが、それでも実際に欧米と戦争を行った経験を持つのは、当時は長州藩、そして下関戦争に連動する形で同じ1863年8月の15-17日には、今度は九州の薩摩藩(現・鹿児島)と大英帝国との間に戦闘が勃発。こちらは薩摩以上にイギリス軍側に大きな被害が出たため、両者はそれ以上の軍事衝突を避ける形で、結果的に講和で解決します。こちらは薩英戦争と呼ばれます。
つまり、幕末は江戸(東京)の将軍や重臣の執政能力は既にあってないようなものであり、遠く離れた西日本で実際に起きている対外戦争と欧米列強への脅威は、完全になかったことにされていました。当時はインターネットなどありませんから、江戸の人々は行ったこともない西日本の僻地で何が起きているかなど興味を示しません。現在の日本の姿は、ある意味では当時の江戸の人々の姿を日本全土に拡大した形と言えます。国内の事実は何も知らされず、国外で何が起きているのかも知らない、興味がないという態度です。
こうして、実際に対外戦争の経験を持つ長州藩と薩摩藩の武士は、もはや幕府主導の攘夷は有り得ないことを痛感。私なりに解釈すると、彼らはそれまでの「幕府主導型攘夷(幕府の許可・統率で対外戦争を行う)」ことの可能性を完全に棄却したということです。これは実際に欧米列強と戦った経験があるからこそ、近代兵器や軍事力の強さを目の当たりにして、それまで学者次元の攘夷論が机上の空論だと自覚したことの重大な転換点です。何しろこの時点で、知識人が考える解決策に何の可能性もない、行動しなければ無意味じゃないかという自覚が長州藩の武士を中心に高まったからです。なぜ長州藩はこの直接行動を提唱できたかと言えば、元々少し前の不穏な雰囲気が始まっていた1850年代中期から後半にかけて、ある人物が後続たちにこの直接行動を徹底的に叩き込んでいたからです。その人物が、長州藩の武士であり思想家であり教育者であった長州藩のブレーン・吉田松陰(1830-1859)です。
吉田松陰は、自らの私塾を直接行動の革命家育成期間へと密かに転用し、集まる長州の若き武士たちに行動なき理念には何の意味もないことを叩き込みます。つまり、現代的に反知性主義とも反エリート主義とも言えますが、それは一面であって本質は陽明学の実行です。吉田松陰もShitsuraeで度々メンションしている王陽明の陽明学の影響を受けた人物でした。ただ幕府打倒の先鋒と見做され、現在で言えばテロリスト養成機関の指導者と位置付けられたため、最終的には投獄されて29歳の若さで処刑されました。
この吉田松陰を師匠として崇拝し、彼のイデオロギーに感化されていた長州藩の若い武士が、数年後に起きた下関戦争を経験したことによって、吉田松陰の考えは正しかったと実感し、そこから訓練されていた直接行動を鋭化していくことは必然だったと言えます。彼らは、こうして攘夷論に主眼を据えていた従来の態度を後回しにして、最優先事項を幕府の打倒に据えます。ですが、いかに幕府が疲弊したとは言っても、300年も続いたシステムにはそれなりの強度と依存性がある。しかも、当時は田舎者として見向きもされなかった僻地の長州藩と薩摩藩の武士が幕府打倒を主張したところで、ジョークだと思われて誰も取り合ってくれません。しかも、彼らの主力が下級武士だったため、社会的に何の影響力も持ちませんでした。
そこで思案を巡らせた結果、彼らはある一つの可能性を見出します。それが攘夷論自体は社会的に有効だったので、これを表向きに掲げて支持者を募りながら、同時に対外戦争経験を有する点を強調する形で反幕府の姿勢を明白にして差別化を図ることでした。何も東京・京都・大阪だけが日本ではないため、これによって他藩に属する同じような境遇の武士たちの支持を得ることができると考えたのです。そこで、反幕府運動を正当化するために彼らが採用したのが、「尊皇」イデオロギーです。尊皇イデオロギーとは、簡単に言えば国家の主導権は将軍(徳川将軍家)にあるのではない、本来日本を主導する実権は天皇(皇室)にあるべきだという論理です。それまでこれらは断片的に各地で提唱されて議論されていましたが、実際の革命行動において結びついたのは、この辺りからです。この異なるイデオロギーを婚姻させたのが、吉田松陰の直接行動というイデオロギーにあることを見逃してはなりません。
しかし、長州藩と薩摩藩は仲が悪く、双方共に歪み嫌っていたため、同盟どころではありません。ですが、この反幕府運動の主軸を担う二つの藩が同盟しない限り、幕府打倒はあり得ない。先ほど、この時代にインターネットはなかったと言いましたが、実はこの時代にはインターネットの代替を担う存在が躍動を始めていました。私は、江戸時代から明治時代の転換点を真に担ったのは、当時のインターネットワークを担った情報伝達とイデオロギーの浸透の担い手にあったと考えています。それが「脱藩者」です。簡単に言えば、藩の武士であった身分を放棄して、自由闊達に動き回っていた無所属の武士です。現在で言えば、自らの母国の国家に見切りをつけて、移動を続けて次の可能性を探すデジタルノマドと言えます。
そして脱藩者は、それまでの藩に属する規制条件を全て自ら放棄するため、移動によって次の可能性を探る冷静な目を養うことのできる優位性を持っていました。もちろんデジタルノマド同様に、脱藩者の全員がそうだったわけではなく、大半はただ利益のために動いていただけに過ぎませんが、真に母国の未来を思う僅かな人々が、こうした優位性を持って移動していたことは事実です。その筆頭格として突如躍進したのが、それまで全く無名の一人の武士でした。それが、坂本龍馬(1836-1867)です。
土佐藩(現・高知県)の武士であった坂本龍馬は、長州藩や薩摩藩同様に、都市部からは見向きもされない四国の辺境の藩で生まれ育ちますが、この土佐藩は全体的に長州藩と薩摩藩の一部武士が提唱し始めていた幕府打倒に強い可能性を見出しており、これらと交流を図っていました。つまり、敵対関係にある長州藩と薩摩藩の接着剤の位置に、土佐藩を脱藩した武士が動き回っていたということです。特に、坂本龍馬は脱藩者となって移動を続けており、この限界状況において、日本の未来はどこへ向かうのかということを真剣に思案し、次の可能性を求めて各地を自ら見聞し、様々な人々に話を伺い、どうすれば欧米列強の圧力に屈せず、同時に幕府の主導権を終わらせることができるかということを考え続けていました。
この脱藩者の中でも好奇心旺盛で、誰よりも移動を続けていた坂本龍馬の特徴は、長州藩や薩摩藩の日本人だけではなく、攘夷論の対象となっていた欧米列強の欧米人とも積極的に対話の機会を探った点にあります。こうして坂本龍馬は、日本と欧米の関係を如何に現実的に折衷し、日本が占領されない形で欧米と関係を構築するかという新時代の視点を見出しました。この時、論理の結論として彼も幕府の存在がある限り、この日本の未来と欧米との関係は断じて締結できないと確信します。同時に、幕府打倒の主軸勢力となり始めながらも、敵対関係にある長州藩と薩摩藩を同盟させなければ、この未来もあり得ないと理解します。こうして坂本龍馬は、この両者を同盟させて一つの目的を果たすために、ある人物と接近し始めます。坂本龍馬にとっては、危険な賭けでもあったのですが、その人物がトーマス・グラバー(1838-1911)です。
スコットランド出身のグラバーは、1859年に上海へ渡航して、当時東アジア最大の商社だったジャーディン・マセソン商会に入社。1859年9月中旬には日本の長崎に渡航し、ここで同じスコットランド人が経営する貿易支社に勤務を始めます。この時点では、ただ一人の無名のビジネスマンでしかなかったのですが、ここから彼の生涯は日本国内の動乱によって変貌します。1861年にこの経営者が長崎を去ると、その事業継承をグラバーは行い、共同経営者と共にグラバー商会を設立します。当時の実態は、ジャーディン・マセソン商会の日本(長崎)代理店というイメージです。ゆえに、この時は生糸や茶の輸出などを中心に行なっていたのですが、この時代は情勢が不安定となり始めた時代。長崎は九州に位置していたため、特に近隣の薩摩藩や長州藩の動きを理解できる上、開かれた貿易港であった長崎は土地柄、素性の知れない人々が集結する場所でもありました。つまり、幕府打倒を考える荒くれ者の武士や、過激思想を唱える宗教家や学者、脱藩者、外国人など、とにかく一言では語り尽くせない混雑とした性格を長崎は持っていたのです。
ここでグラバーは、それなりに日本の状況を長崎で情報として知ることができたため、金儲けを企み、ある方針転換を行います。要するに、戦争利益で稼ぐことを標榜したのですが、ここで大英帝国の手法を横目で参照してきたスコットランド人らしい性格を発揮し、幕府を守る勢力と、幕府を打倒しようとする勢力の双方に、武器を密輸して売買し始めます。当然、爆発的な儲けを生むわけで、この辺りからグラバーの素性は武器商人となり、武器や弾薬を次々と輸入・販売してどんどん利益を拡大させます。長崎に旅行した方なら、トーマス・グラバーの住宅と庭園が「Glover Garden」となっている観光地を訪ねたことがあるかもしれませんが、長崎市内を一望する絶景の場所に構えられた広大な土地を所有していた外国人の武器商人だということです。
そしてグラバーは、さらに儲けを出すためには、自分の代わりに日本を動き回って武器を売り捌いてくれる日本人の存在が必要だと感じ、探し回ります。ここで出会ったのが、坂本龍馬でした。脱藩して無所属となり、若くして未来を洞察する知性を持ち、猛烈な熱意で動く上、日本と欧米の双方に理解を示す稀有な人材であった坂本龍馬に白羽の矢が立ったのは当然でした。
特に、坂本龍馬が薩摩藩と長州藩の同盟を締結して、幕府を打倒するという方向性を理解したグラバーは、これから大きな戦争が起きると踏み、双方に武器供給を行えば、莫大な利益を得ることができると考えます。ただし、自らが表に立つと外国人に対する攘夷のリスクがあるため、表向きには日本人の坂本龍馬を立てて、使えるだけ使った方が良いと考えます。こうしてグラバーがバックアップして、坂本龍馬は長崎で亀山社中という会社を設立します。この会社の実態は、時代柄不明確なことが多く、未だに全貌が明らかになっていませんが、個人的には武器や軍艦を国内で横流しにする際に、ダミーとしての設立された可能性があると見ています。実際、当時のことを記憶していた証言者が語る亀山社中の実態は各々異なっており、今も実態解明の議論が続いていますが、要するに表に裏に、何でもやっていたということでしょう。
大きく見れば、グラバー商会(トーマスグラバー)→亀山社中(坂本龍馬)→薩摩藩/長州藩などの武器供給ルートが浮上します。このルートは武器供給に限らず、主要顧客の薩摩藩や長州藩が武器や軍艦を購入する際の代金をグラバーから借りるなども行われており、グラバーは武器商人・金貸しなど、かなり幅広いビジネスを行なっていた姿が見えてきます。ちなみに、グラバーは莫大に積み上がる利益に目が眩み、時代を見る慧眼を失って、幕府が打倒されて新政府が成立すると、戦争が終わって武器が売れなくなり、さらに資金を提供していた諸藩も新政府の方針で次々と解体されて滞ったことから、3年後の1870年に破産しています。それ以降は、近代化の主軸を担った三菱の炭鉱の所長を1881年から始め、1885年には三菱財閥相談役を歴任し、のちのキリンホールディングの基礎にも携わるなど過ごし、最後は1911年に東京の自宅で死去しました。
こうした一連の諸外国からの日本に対する圧力を国内では「外圧」と呼んでおり、歴史の転換点には、常にこの外圧があると考えられています。直近で言えば、報道しないことを理念とする日本のマスメディアが自ら報道も追及もしない事件を、英国のBBC側が報道・追及して以降、結果的に国内で報道されるという奇妙な逆輸入の形で始まったジャニー喜多川の事件に象徴されますが、これらも国内では外圧と呼ばれています。呼び方はどうであれ、いずれにしても状況が幕末に酷似してきたことは事実です。まだ江戸時代後期から晩期の節目辺りという印象ですが、もしかすると今後、日本において幕末の革命運動のような動乱が起きるかもしれません。
本当に世界をより良くするためには、一度すべてを壊さなければならない。冒頭で書いたこの言葉は、ここから20-30年程度かけて日本人にも理解される形となっていき、やがて爆発する瞬間を迎えるでしょうが、そのためには何も知らない国民が、まだまだどん底に落ちる必要があります。