C:\SHITSURAE\> TYPE SJ266.TXT

SJ266.TXT2025-12-2736KB

瞑想とは何かWhat Meditation Is

読者の皆さんは、朝起きた時や夜寝る前に瞑想をしていますか?

瞑想と言うと、インドの伝統に基づくスタイルから、日本の禅のスタイルなど、方法は今や数え切れないほど多種多様です。しかし、瞑想は単にリラックスのためだけではなく、根本的に私たち人間が抱える病の根源を治療するための方法でもあるという観点を理解しているでしょうか。

私は毎晩寝る前にだけ瞑想を行いますが、方法というかスタイルは、長年試行錯誤を続けた果てに、結局自分にとって腑に落ちた方法で行っています。それが「静座」と呼ばれるものです。

ややこしいのですが、日本語で「seiza」には二つの意味があります。一般的に日本で語られる「正座」は、礼儀作法において「正しく座る」という意味を持っており、茶道のような場所などで用いられるものです。ですが、ここで私が言う「静座」とは、同じ音でも意味は異なり、「静かに座する」ことです。どちらも修練のニュアンスを持っていますが、静座の方が、より自己修練の意味合いが強いと個人的には理解しています。

また、正座は禅の系譜と関わりますが、静座の源流は禅ではなく儒教にあります。ゆえに、静座には儒教的な哲学が非常に深く流れているため、禅や仏教的な瞑想と照らし合わせると、考え方がかなり違うという印象を受けます。

個人的に、禅の瞑想に代表されるように、現代的なマインドフルネスの文脈で語られるものの大半は、実践する人々が雑念を取り除き、無の境地に至ることを目的に設定しているように感じます。実際、ほとんどの禅の実践者は、この雑念をなくしたところに無の境地があると信じ、その境地に至ることこそが、瞑想の目的だと捉えている節が多々見られます。

確かに雑念は、人間が日常生活を送るにあたって厄介なものです。日常のパフォーマンスや自らの人生、あるいは考え方を妨げてしまったり、時には迷いによって間違った方向に向かわせるものでもあります。ゆえに、私たちは生きる上で、雑念を忌み嫌うこと自体は仕方がないのかもしれません。実際、歴史的に考えても、人間に雑念が生まれてから、その存在が問題視されてきたことは事実でしょうし、それに答える形で初期的には宗教の原型が躍動したとも言えます。ある意味で宗教の源流とは、人間の脳の発達によって生成された雑念をどう解釈し、どう取り扱うかということに起因していると個人的には考えており、それに対する方法や実践、理念などが各々の場所における規制を受けて差異を持つことから、様々な形の宗教の萌芽が世界中で生まれたと言えます。例えば神を理想にしたり、特定の人物を理想にしたり、あるいは自然自体を理想にするなど、初期的な信仰の形態は様々でしょうが、いずれにしても、まずこの雑念という問題を考えることから、あらゆる宗教の根源性が見えてくるということは事実でしょう。これを踏まえると問題は、人類史と直結するであろう雑念を、現代の私たちは、どう取り扱うかという普遍的な問題であることが分かります。

この問題と向き合うために、ここから私が考える禅の本当の果実とは何なのかについて独自に考察を行います。

一般に瞑想では「雑念に囚われるな」ということを前提に強調しています。その雑念に対する対処としては大きく二通りあり、一つは雑念を除去する方法、もう一つは放置する方法です。ですが、ここに最初の問題がある。そもそも雑念が生まれた時に、それを正しく把捉して取り除くことを瞑想の実践に求めること自体、想念が止まっていないことに変わりはないからです。この状態では、いくら雑念を取り除いたとしても、無の境地に到達することはできない。いや、そもそも無の境地に到達しようとすること自体が、人間の欲望です。

ここで反動的に生まれた方法が、その雑念自体を別の想念に変える必要はないと前提することによって、雑念自体を放置する方法です。個人的には、禅はこちら側を重きを置いて説いてきたように感じます。禅を世界的に広めた鈴木大拙に典型的だと思いますが、彼は雑念が生まれること自体を否定する従来の方法論を棄却しており、雑念自体を積極的に肯定することによって、禅の実践を説いたところに特徴があります。つまり、無の境地や静の境地を求めること自体において、実は人々の迷いが生じているのではないかということです。逆に言えば、この迷いが生じてくることに対する対処に人々は迷うのです。迷いの迷いの迷いというエンドレスのループ状態に陥ると、単独で脱出することは難しいでしょうから、ゆえに師範のような人々が希求されます。しかし、果たしてそこで師範とされる人々自体が、この問題を理解しているか自体が疑わしい。

結局のところ、どのようにすれば迷いなく自らの人生に没頭して、最後まで生き抜くことができるだろうかというところに、人間のより良い人生は集約されるのではないでしょうか。どのような境遇にあっても、どのような人生を送ったとしても、最終的に迷いが生じてくることに対して常に適切に対応し、死を迎える最後の時まで自分の果たすべき使命に没頭できれば、それこそが最も幸福な人生だからです。

その点において、やはり大きな過ちとなることは、鈴木大拙も頻繁に警鐘を鳴らしていたように、無の境地というものの解釈が、単に何もない状態、つまり雑念のない状態を指しているのだとすれば、それは危うい転落に陥るということです。実際に、瞑想の到達点としてスピリチュアルにパッケージ化されている消費社会向けの商品やサービスは、どうしてもこちらの方がユーザーに分かりやすく、簡単に換金できるという理由から、この杜撰な認識がかなり流行しています。しかし、瞑想の時に雑念が起こるからといって、雑念を取り除こうとすること自体が、実は私欲なのですから、欲を取り除こうとすることすら欲だという認識を持つ必要があります。

ゆえに、大前提として、瞑想に目的を設定してしまうことから転落が始まる姿が見えてきます。雑念が起きるからこそ、それを取り除くことを目的にしたり、雑念を放置することを目的にしたり、さらには雑念を客観的に見つめることを目的にするなど、様々な目的が立てられ得るのですが、それらは瞑想の効果の中から一つを取り出して一般化したものに過ぎない。むしろ瞑想には、人間の病根を治療する特質があった姿が、これでは隠れてしまいます。これは禅の瞑想に限らず、儒教の静座においても同じです。こちらも歴史的にはズレてしまっており、もはや核心にある特質を理解して実践している人など皆無でしょう。ただ、静座の本質的なところは何かと言えば、それを雑念と知り得たこと自体が覚醒(禅で言えば悟り)だと考えることです。

ここを鑑みると、本当に重要なことは、雑念が起きることに対して苦悩することでもなければ、自分が雑念に惑わされて未熟だと思う悩むことでもない。ましてや、雑念を対象として対処したり、放置したり、何か解決策を考えたりして勝手に自分自身で混乱するのではなく、実は雑念を雑念と知り得ること自体が、人間が生きる上で重要だということです。こう考えると、人々は無意味に解決のない世界で勝手に迷いに迷っており、そのエンドレスなループの中で行き場を失っている光景が可視化されます。よって、「雑念に囚われるな」とか「別の想念に変える必要はない」とか、「瞑想や静座に様々な工夫をすればいい」とか様々に言われますが、これらは本質的なことではなく、瞑想に歴史的に付着した華美な装飾の一部でしかないことが理解できます。華美な装飾だからこそ、時代を超えて目立ち、人々を魅了するわけですが、瞑想の果実はそこにはない。むしろこれこそ、人々の迷いが生じてくることの根源です。

この時、「静」と「動」という問題が、東洋の標準から浮上してきます。これに対する一つの答えとしては、自ら静それ自体に入り、動それ自体に入るということです。言い方を変えれば、動それ自体に入ることが静であり、静それ自体に入ることが動でもあるということ。これを「静動非分離」や「静動合一」と言えますが、この姿を捉えていくことで、ある意味では、禅の真価が見えてきます。ただし、これは知識として理解できるものではない、必ず各々の日常生活において体得しなければ、到達不可能な境地だということです。

日本の禅の歴史を考察する中で朧げながら見えてきたのですが、禅の最大の特徴であり、私が個人的に禅が優れていると思っている点は、自らの限界を最初に理解することから全てが始まるという態度を取っていることです。これは、素晴らしい心構えだと思います。

何しろ、ほとんど宗教的では、限界を最初に設定することは、信者獲得や布教の観点から障害になるため、限界を覆い隠して理念化したり、超越的なところに到達点を設定したりするからです。個人的に、禅は本来、この宗教的な動きに対する人間の日常生活からの反動から生まれたと見ていますが、禅の興味深いところは、宗教において設定される覆い隠された理念や、超越的な存在への到達はできないと先に限界設定をしてしまい、その限界値は、自分自身の中に既にある位置付けることです。これによって、宗教的な単一の教義は解体され、禅は個々一人一人に最適化された答えを提示することが可能になる。なぜならば、限界値は人それぞれに異なると考えるからです。そして、それ以上は人間が人間である以上、誰も知り得るはずがないと前提する潔さに、禅の妙理があります。

つまり、禅はどこを自らの限界として設定したのかを考え、その限界を設定した上で、禅は何を説いたのかということを考える時、私たちは真に禅の心に触れることができるということです。ここで重要なことは、それは「禅を学んだ禅僧がそれを説いた」のではなく、「禅それ自体がそれを説いた」ということです。この禅の特質を私は仏教の概念における「諦念」と考えていますが、実はこの諦念こそが、私たちにとって非常に重要だということこそが、禅の教えの肝心なところです。

何しろ人間は、どうしても一つの悟りや到達点に達すると、どんどん欲深くなっていくことを避けられないからです。特に、現代の資本主義下においては、この動きは顕著になって修正が効きません。なぜならば、人々は右肩上がりの成長という法則が、永遠に続くと思っているからです。しかし、右肩上がりの成長が永遠に続くというのはジョークであって、皮肉でしかない。だからこそ私たちは、今こそ禅から何を学べるかというと、実は瞑想などの形式化された方法やスタイルを学ぶことではなく、禅の本質である「諦念を最初に設定すること」を学ぶべきなのです。簡単に言えば、「先に終わりを考える」のです。

いわば、自分自身の限界を先に知ることから始めて、その限界から逆算して人生を生きることを考える。この非常に優れた禅の方法を、禅の支持者でなくとも一人一人が熟知していかないと、右肩上がりの成長という幻想が終わることはありません。なぜならば、右肩上がりの成長が永遠ではないということを、自分自身の限界において理解することで、私たちは何かを始めようとする最初の時に、終わりを考えることができるからです。この終わりを考えて生きることこそが、かつて日本の美徳として非常に重要だったものです。かつての日本人は、終わりを考えるからこそ、人生を潔く生き抜くことができたからです。侍と禅が密接にお互いに理解を示してきたのは、両者が共に、終わりを考えることで全ては始まることを知っていたからです。これが、禅の果実です。

逆に言えば、終わりを考えない人生ほど、必ず間延びして活力を失います。特に現代では、何かを始めることは難しくありませんが、一方で終わりを考えることがとてつもなく難しい。実際、あなたは人生において何かしらのプロジェクトを開始する時に、最初に終わりを考えて進めたことがあるでしょうか?おそらく、ほとんどの人の回答は否です。如何に終わるかということを最初に考えてプロジェクトを始めることこそ、実は現代においては最も難しくありながら、同時に必要不可欠な問題なのですが、ここに人々の目が全く行っていません。つまり、この考え方自体をそもそも知らない。故に、何かを次々と始めるだけ始めて、その右肩上がりの成長を続けようとして固執する。それによって人々は結果的に疲弊し、自らのプロジェクトに興味を失い、熱量が失われて最終的にフェードアウトする流れに向かいます。なぜならば、永遠の右肩上がりの成長はないからです。

禅が教えているのは、この傾向に対する戒めです。最初に自分自身の限界を理解して、それを限界によって逆算しながら、可能性を創っていくということです。なぜかと言えば、自分自身の限界というものは、人それぞれに当然ながら異なります。宗教はこれを一元化して人間を一般化しますので、そこには「一つの限界がある」、あるいは「一つの到達点がある」、「超越的な到達点がある」と規定・実定することによって信者を獲得しますが、禅の面白いところは、一人一人にそれが異なるという風に最初に捉えてしまうことです。これを私は、本来の儒教の性格を、中国において禅が継承した歴史的な根源性なのではないかと見ています。つまり、中国において伝統的な儒教が、外来の禅と出会い、そこにおいて哲学の婚姻が起きた流れが、最終的に日本に伝来して独自に代謝されたということです。こう考えると複雑怪奇でしょうが、単純に一人一人のための最適な答えということです。

これによって、あなたがあなた自身で自分自身の限界はどこにあるか、どこで諦念をまず見出さなければならないかと考える契機が生まれます。ただこの時、恐らく誰もが自分自身のことを知らなすぎるということに気付きます。この気付き、要は自分自身のことを自分がまず知らないということを知り得たこと自体が、真の目覚めだと儒教的に解釈できます。そしてこの思考の立脚点こそ、私が考える非常に重要な内的探査の出発点であり、真の人生の面白さです。つまり、自分が自分のことを知らないではないかということ自体に気付くことが始まりであり、それを通じて内省などで自分自身をまずは徹底的に理解すること。この理解とは、先に自らの可能性を探るのではなく、実は自らの限界を知るということです。先に可能性を考えると、思考は散漫になり、散逸してしまいますが、先に限界を理解すると、可能性はその規制によっておのずと明らかとなります。

特に現代世界は、個人は何にでもなれるや、どんな可能性でもあるという妄言が隅々まで散布されており、それによって人々の人生を毀損しています。しかし、そうではない。むしろ個人には個人の素養があり、素養があるからには限界がある。死を考えることによって、生が輝き始めるように、限界を知ることによって、可能性が輝き始めるのです。この逆転の思考を前提にすることによって、様々な現代の問題が手に取るように可視化されます。現代の最大の問題は、個人レベルでは「誰か」との比較でしょうが、自らの限界から素養の可能性を理解すれば、そのようなことが愚かであることは誰でも理解できます。その限界値をある程度見極めた上で、諦念を行う。「諦める念」を行うことによって、禅的な実践法において、生命がようやく輝き始めるということです。

私はこれらが実は瞑想の核心であり、本来、瞑想を教える人々はこうしたところに実践者が到達できるように、個々それぞれに異なったアプローチで導いてあげなければならないと考えています。ですが、どうも瞑想会などは日本を含めて世界的に様々に開催されていますが、一つの場所で大勢を集めて、一人の師範の下でただ瞑想するだけでは、こうした方法は不可能です。今後、一つの需要として生まれてくるのは、一人一人に向き合う瞑想の開発でしょうが、その基本中の基本は、今ここで述べたことになってくるでしょう。

今晩、あるいは明朝、瞑想の方法やスタイルは何でも構わないので、ぜひ一度この思考を前提に取り組んでみてください。特に、雑念に対して自分はどう感じているかということから、まずは始めるといいかもしれません。