C:\SHITSURAE\> TYPE SJ259.TXT

SJ259.TXT2025-12-1945KB

茶道論 2On the Way of Tea, Part 2

昨日の記事では、文化とは如何にして生まれるのかという視座を持って、伝統的な日本文化と呼ばれる茶道を軸に、「茶の湯」と「茶道」の対比を哲学的に考察する基礎を見てきました。ここで、茶の湯と茶道は、似て非なるものなのではないかという疑念が生まれてくるのですが、この疑念は感覚的には正しい。なぜならば、現代人が日本の茶道、あるいは他の「道」を冠する武道や芸道において、行き当たる壁は共通しているからです。この壁は底に潜んでおり、未だに可視化されていないため、日本文化に対する人々の印象を厳格な文化として固着させている錯合の動因となっています。一体、これは何なのか。

これまで、日本文化は多様な観点から国内外で論じられてきましたが、一元的に論じること自体が文化ではなくなるリスクを常に孕んでいることへ注意が払われているようには見えません。その文化なる基底に流れている深淵な精神があるにも関わらず、その精神は歴史的に把捉が難儀である上、幾度も歪曲され、逸脱し、本質から疎外されてきたものでもあるため、端的に言い切ることのできないものです。ただ、それを理解する回路となるのが日本式儒教です。今回の記事では、この儒教という未だに掴み難い存在を「感応」と見るか、あるいは「接着剤」と見るかという視点から文化哲学を提示していきます。

昨日の最後に少しだけ参照したところから始めると、武道においては「心・技・体」という重要な言葉があります。これを私は「心」と「体」が非分離だからこそ「技」が生まれることを説きましたが、それは視方を変えれば、心と体が分離すると何も上手くいかないということを表しています。つまり、実は武道であれ芸道であれ哲学や信仰であれ、全ての「道」において、この分離と非分離の問題が常に基底部を占めていることが見えてきます。逆に言えば、現代を含めてあらゆる歴史や文化や哲学やテクノロジーなどは、全てこの観点から説明可能です。端的に言えば、現代とは極端な分離を基盤とするシステムになっているということです。

要点から示すと、実は心と体を非分離として「道」に収斂させるためにこそ、私は儒教が取り入れられたと考えます。より正確に言えば、意識的に取り入れられたとするよりも、むしろ東アジア特有の何かしらの本源的な動きがあったのではないかと考えています。それは文明化をいち早く成し遂げた中国の各皇朝時代を通じて儒教として体系化されていきますが、一方で朝鮮や日本においても、近似した何かに至る動きはあったはずです。つまり、儒教を取り入れたのは後代の発想ですが、その起源から変遷の過程において、既に儒教的とも言い得る親和性の高い素地が自然に形成されていたということです。

儒教の側面を現在の伝統文化に合わせて見れば、確かに厳格な作法が細分化されて到底素人には理解できないほどとなっている形式は問題となりますが、一方で重要なことは、好き勝手に放埒に行っていては「道」が成ることは有り得ないことです。要するに白黒で物事を判断する態度こそ、文化を歪曲する原因です。特にここには個人主義の最も厄介な問題が潜んでおり、実際にこの裂け目を無視したために、現代の個人主義は悉く転倒しています。ゆえに、「道」となるためには、この心と体の収斂、別な言い方をすれば、規制を自らの行為において叩き込むことから始まるということです。実際生活の繰り返しが習慣となり、そこにおいて「型」の源流が生まれているということです。これだけでも理解できるように、文化は主体意識による目的意識を持って生まれてくるものではありません。意識と無意識の次元にさえない布置において、文化の様態は在るということです。そして事実、儒教ほどこの「型」を重視する教えは他にありません。

既に、古代中国の周から漢の時代にかけて、儒者がまとめた「礼」に関する書物を戴聖が編纂した『礼記』に表れている通り、この「型」はとにかく細分化され、実定され、事細かく古代中国の時点で綿密に打ち立てられています。この『礼記』を現代日本で読んでいる人を私は個人的に会ったことがないのですが、かつて日本でも礼記を読むことは学問を為す者にとって当然の教養でした。礼記は非常に細分化された教えが列挙されている書物ですから、一目見るだけでも現代人は堅苦しい、面倒だ、なぜそこまで色々なものを決めつけなければならないのだ、個人の自由がないなどという陳腐な論理になってしまうのですが、この視方自体が儒教に対する最大の誤解です。ただ同時に、儒教はそのように捉えられてしまう側面もあることは事実です。白黒で物事を恣意的に決する態度こそが問題です。陰陽理論では、「陰は陽であり、陽は陰である」ように、陰陽は「陰と陽」の分離ではなく、非分離です。この非分離という作用を生み出している陰陽の本源を古代中国では「太極」と呼んできました。この視点を儒教においても忘れてはなりません。

私は、儒教に対する人々の誤解を克服するためには、大前提に「型がなければ心は治まらない」という見方を持った方が良いと考えます。そしてこの考え方は、実は現代を生きる上で最も必要なものではないかと最近考えています。なぜならば、個人主義の考え方自体があまりに怪しい時代となった背景には、型を無視した自由という錯合が、深く関与しているように見えるからです。昨日の記事でも書いた通り、「型=形式」ではないことに注意してください。「型」の内容が「精神」と「形式」であり、「精神と形式」は非分離に発現しますから、「型」がこの本源となり、そして「型」の本源は「心」となります。心の動きが、習慣によって自然に規制することによる「型=精神と形式」は、分離していない非分離の状態ということです。

ただ一方で、この認識において心や型を洞察せずに、大半の人々は形式を整えることによって精神を育むことを目指したり、反対に精神を育むことによって形式が生まれるという誤認を横行させています。というよりも、現代は人類史上この横行が過剰を極めている時代です。ゆえに行き詰まっていることに気づかないほど、もう自己壊乱してしまっています。そもそも、これらはいずれも一方だけに固執したり依存してしまっているだけですが、そうではなく非分離が本質ですから、双方向の循環を自らの元で作り出すことによって、これらの「道」は会得できるということです。

ここにおいて線形的な時間が無化されており、非線形的時間において時空が収斂されているのですが、かなり難儀になるので今は触れません。要するに近代以降、人々は頭だけは良くなったが、何事も論理的に考え過ぎです。その原因は大学システムの世界的蔓延ですが、これによって人々が生きる道を失ったことの代償は、あまりにも大きいでしょう。知識を外に求めることしかできない社会へ自己家畜化した人々が地上を満たした今、もはや一度全てをリセットしなければならないからです。これがそもそもの問題ですが、実は最も論理的で窮屈だと一般的に考えられている儒教にこそ、この閉塞感を突破する鍵を有しています。

「無」の境地に到達することを目指したのが禅の潮流だったとすれば、その先に到達する境地を私は儒教だと見ています。これは世界的潮流となった禅が日本側の文化代謝から生み出されたものと同様、儒教も同じくルーツの中国ではなく、日本式儒教と呼べるものが今後注目されます。ただし何度かShitsuraeで示唆しているように、この儒教は一元的に捉えることができないものであり、大別すると宋代の朱熹による朱子学、明代の王陽明による陽明学の考え方があります。現在世界的に知られている日本社会やシステムにおける儒教は、この悪い側面しか見ていないため、人々が理解に苦しむのは当然です。誰も、日本自体も日本人自体も見ていないからです。

まずは、「精神と形式の非分離」をとにかく徹底的に自覚することから全ては始まります。なぜならば、この非分離という不可視な領域には、人間の心の動きがあり、その輪郭としての型があるからです。心の動きが型となり、そして型の内容である精神と形式が動的に生まれるのであって、何も精神と形式の分離した関係において、それぞれに考えられる問題ではないということです。しかし、現代ではどうしてもこれを分離する傾向を免れることができなくなっており、人々の精神はここに引き裂かれています。医療においても一時期、統合医療という用語が随分と流行りましたが、この統合という概念自体を私は信じていません。統合という概念は、そもそも分離した異なる概念を一緒にするという意味を前提にしているです。非分離というのは、統合ではないという観点が重要になります。つまり、発想が全く異なるのです。

考えるべきことは、なぜ礼記や儒教の経典には、このように連々と型が列挙されているのかという不信感ではなく、そもそも礼記が生まれた本源は何かということを、礼記の記述を通して洞察することです。ここが日本の「道」の理解の絶対条件となります。日本式儒教の理解なき日本文化論は常に形骸です。

事実、既に孔子が「人間であって仁でなければ、礼も何になろう」と述べたことが『論語』に記されています。これこそ私が言いたいことで、正直に言えば、この言葉を世界の誰もが理解すれば、このように難儀な洞察を書く必要もなくなり、知性は正しい方向に戻ります。何しろ、この言葉は日本文化に限らず、本来の文化の根源自体を表しているからです。今回の記事に即して私的に言えば、この本義は「人間であって思いやりがなければ、精神も形式も何になるのだ」ということです。さらに、儒教の最大のテーマとも言える「仁」は、孔子においては「両親に対する「孝」」「兄弟に対する「悌」」ですが、要するに人間に共通する「思いやり」の基本は、「両親に対する思いやり(つまり、孝)」と、「兄弟に対する思いやり(つまり、悌)」であり、これらの日々の実行こそが「仁」であるということです。

儒教はとっつきにくいと感じる人が多く、今では儒教の経典を読む機会がほとんど失われましたが、自らの起源に向き合う修練なき文化論に何を託せるのか、私は考え続けています。ですが上記のように、実は孔子にせよ孟子にせよ、儒教の聖人の教えは別に難しいことを言ってはいません。人々が難しいと感じるのは、孔子の時代からそうであるように、理解はしているが実行しないからです。この実行なき理解を孔子は徹底的に批判しています。

この基礎的な方針を軸に、典型的な誤りである日本概念を見てみましょう。それが「侘び寂び」です。

私は侘び寂びという言葉を現代的な意味において嫌悪していますが、茶道の開祖・千利休にしても、そのようなつまらない美学だけを考えて茶の湯を為してはいなかったからです。美学として完全に疎外されてしまった侘び寂びがキャッチーなトレンドとして人気があることは承知ですが、美学に固執するとその根源が消えます。それに本気で次の可能性を探究する能働的な人々は、こうした従来の美学に固執した稚拙な言い訳など求めていないはずです。少なくとも、私はその一人です。むしろ、美学を見る時ほどその響きが持つ美しさに惑わされてはなりません。なぜならば、その響きの美しさは時代における装飾だからです。

実際、利休は、世の中の花も紅葉も自らの心にあることを知らずに、ただ目に見える色ばかりを楽しむ人々を「寂び」には到達できない人々と批判しています。侘び寂びの本義は、意味されたものではないということですが、意味されたものしか見えない現代人には、この意義が理解できずに消費文化の文脈を脱することができません。

仮に、華美な装飾だけを芸術的感性だと信じるならば、茶道とも切り離せない絵画における琳派の真髄なども理解できません。要するに、華美に見える琳派の絵画を単なる形式の美学と見るか、あるいは精神と見るかで分かれるところですが、前述の通り、これらを非分離の型、そして本源の心の観点から見極める必要があります。

利休が生きた時代は、武将たちが各地で覇権を巡って闘争する時代の後期に位置しており、既に織田信長を首領に、家臣の豊臣秀吉や徳川家康という全国統一を為す武将は出揃っていました。また、この時代を日本では「戦国時代」と呼ぶ慣わしがいつからか始まったのですが、こうした呼称は大きな誤解のもとです。確かに、この時代は戦が起きていましたが、毎日戦っていたわけではなく、日本全体で見れば、大部分は至極平穏な変わらない日々を過ごしていました。また武将は、放埒な暴力を武器にした荒くれ者ではなく、非常に強い自己修練のもとで練り上げた人格を持っています。一般的に織田信長は人間としては最低だったなどと揶揄されますが、実際には自己の精神修練を基礎に、若くして乱世の時代をのし上がる才覚を持つほどの人物でした。

時代における激しい緊張感の中に生き、いつ謀反で暗殺されるかも分からなければ、自らの城が明日にでも焼け落ちるのではないかという不安の中に生きた武将の心は、現代の私たちには到底推しはかることのできないものですが、だからこそ茶道の源流である茶の湯が求められたのです。時代の要求なき文化の発展はあり得ませんから、この観点から見直す必要があります。そしてそれは、現代も全く同じ原理です。利休はこの時代の要求という自己ではない界域において、その要求に応えたに過ぎないのです。

つまり、外的世界が騒々しくなればなるほど、自分たちの安寧する内的世界を強く求めるのが人間です。もちろん、大半は騒々しい外的世界に埋没して我を見失うのですが、真摯に生きようとする人々は必ず内的世界を求めます。そしてそれは、特別なものであってはなりません。武将は各地に動き回る必要があり、軍隊の指揮を取る必要もあり、かつ城とその城下の街を治める手腕など、とにかく多忙な上、当時は仏教がとてつもない権力を手に入れて暗躍し、そこに鉄砲や地図や望遠鏡という最新兵器を持ち込み、それを売買する代わりに布教を許可してもらうポルトガル系宣教師の暗躍など、とにかく武将は気を払うことが非常に多かった。そのような中で、彼らは日々の精神修練を為すための習慣、同時に自らの権威を世に知らしめるために、華美で豪勢な茶会などが社交辞令として要されたのですが、むしろ茶の湯の源流は前者にあることを見逃してはなりません。

実際、いかに利休の名前が知られていたとは言え、武将は毎日のように大阪堺を拠点とし、大阪ー京都を動き回る利休の茶会を日常の習慣にすることはできません(ただし、秀吉は利休を囲い込むことによって日常化する試みを為しています)。そこで、茶室が各地に作られるようになったり、城の中に茶室が設けられたりします。本来、茶室はただの機能的側面において茶道を為す空間ではなく、あらゆる装飾を人間同士が消去したところで、存在と存在が決死に向き合い、激しい緊張状態の中で主人が客人を迎え、「茶」というツールを持って精神を昇華するためのものです。つまり、茶室における心の揺れ、心の持ち方自体が、茶道における主人と客人の本質であり、この心の揺れを主人は客人に対して正すということです。これは現代的な共感を達成するものではなく、心の共鳴です。そこでは直接的に言葉を発するのではなく、「動」「静」によって共鳴するのですが、そこにおいて作法が生まれてきたということです。

これは利休が発明した躙口を考えても明白です。一般に利休が作った茶室は、入る時に刀を置かなければならない、入る時に頭を下げるようになっているので、茶室においては身分も何もない平等になるように設計されているなどと言われていますが、それは近代的解釈の美化であって、それこそ意味されたものしか見えない学者の典型的な文化への無知です。そしてそれは日本文化とは無関係です。そうではなく、利休の本義は人間というもののあらゆる装飾と向き合う心構えを持っていたことです。例えば当時で言うと、全国統一を成し遂げる武将が相手であって、さらに彼らに反感を持つ敵対勢力とも彼は常時対峙しなければならない。加えて時勢をかき乱す強欲な商人や武器を売って自らの利権を得たいポルトガル系の宣教師など、とにかく私利私欲と各々の思惑が交差する複雑な世界に利休は生きていました。その複雑な世界において、利休は自ら商人でありながら、茶の湯を用いて、その世界(彼の茶室)において、いかに心を正すかということを実行したのです。ある意味では、利休は儒教の聖人に近いことを実行したということです。

ここが、全く考えられていないポイントだと私は感じます。私は利休の大成した茶道というものは、禅というよりも、むしろ儒教的なものの実行だと考えます。ただし、利休の茶道に関わる叡智を見ていると、そこには陰陽五行論の徹底をベースに仏教、そして儒教などが複雑に混淆している姿が見えてきます。茶道ほど、一概に論じられるものはない。

よって利休の茶を飲む者たちは、全ての装飾を脱ぎ捨てる能働的な日々の修練が要されます。そして今も同様ですが、既に当時から「茶の道」は茶人にさえ理解されていない転倒の様相を呈していた。実際、利休は当時、同じく堺の商人であり、著名な茶人として知られた津田宗及や山岡宗無を「世に名前の知られた茶人ではあるが、茶の奥深い真理には至っていない」と評しています。

様々なレッテルや装飾、外部的な装飾、また自らの驕りや自尊心などを、利休の茶室に入る際には全て脱ぎ捨てる。むしろ、日々の修練によってその超克を鍛錬した者でなければ、利休の茶の心は分からない。仮に利休の茶室に入るまで脱ぎ捨てられないとしたら、利休はそれを脱ぎ捨てさせるということです(ここに茶道に禅が関与する閾があります)。しかも、それは主体的に押し付けることで果たすのではなく、その場所(茶室)において溶解するということです。

読者の理解のために現代に言い換えましょう。誰もが社会的ステータスを過剰に気にする現代では、その人物のプロフィール欄の無意味な列挙に見られる通り、自らでレッテルや装飾、驕りや自尊心や傲慢や優越などを打ち出すことが常套手段とされてきました。出身大学、大学院、博士号、何の資格がある云々、キャリアの経歴で自分は何の業務を行ったかの延々とした羅列。それによって確かに人々は社会的地位を得て、これまで稼ぐことができましたし、社会的信用として変換されて安定した経歴を獲得することができた。ですが、冷静になってみましょう。その結果としての時代が、この無様なのです。未来に進む強い意志を持つ者ほど、このような愚行に陥ってはならない。どのみち、このような人々は遅かれ早かれ全て淘汰されるのだから、だったら真っ先に自らの修練において、こうした外的世界(社会的装飾)を脱するために歳月をかけるべきです。それは一日では成らず、それなりの歳月がかかります。

あなたが利休の茶会に呼ばれたとしましょう。彼の茶を飲む当日を迎えるまで、あなたが現在と同じように社会的装飾を気にしていれば、利休の茶の心は分かりません。その日まで徹底的に内省から修練するも、どうしても行き詰まって内的格闘をしているならば、利休は茶を通じて、そっとその枷を外してくれるでしょう。

利休の茶の振る舞いは、とてつもない緊張的な静寂の中で行われ、わずかにしか光が入らないところで行われました。利休の姿が曖昧に、不明瞭に見える。それによって客人たちは、自分自身が明瞭に映し出される姿を見るのです。その鏡に映し出された自らの姿が、いかに醜悪であっても、受容し、自らを修練によって正す決意を為すか否か。実は、これこそが千利休の生み出した茶の湯の本質です。

改めて文字を見てみると分かるのですが、利休は漢語で「茶湯」と書かずに「茶の湯」と和語にしています。「茶湯」ではない「茶の湯」とした利休の心。その深淵な世界の真理が、この概念には濃縮されているのです。