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大塩中斎 3Chusai Oshio, Part 3

一昨日から生きた歴史を現代の私たちの学びとするために、激動の時代を全生命力を捧げて生きた人物の人生を見てきました。それは単なる歴史的人物や歴史的事実を掘り起こして紹介する知的な興味の要求を満たすだけの氾濫するコンテンツではなく、いかに生きるか、生きた人間とは何かという現代人から抜け落ちた生命の思索を為すための実践です。いわば、知的興味ではない知的探究への根源的なdisplacement。

その国や民族の歴史というものは、扱う際には最も敬意を払わねばならないものです。しかし、現状はそうした敬意も何もなく、ただ自分たちにとって都合の良い材料としてコンテンツ化する愚者が蔓延しています。適当に素材として調理し、自らの名声や知的欲求、あるいは金稼ぎのために一つの国や民族はあるのではない。こうした当たり前のことが、未だに先進国に横行していることには辟易します。

特に現在の日本は、格好の餌食として様々な観点で材料として適しているのでしょうが、私が常に見ているのはコンテンツの内容ではなく、一体、それを提示する人物の人間自体はどうなのかという一点です。誰もが杜撰で適当に他国・他民族の解釈を恣意的に為す暴挙を、そろそろ戒めなければならない時代に来たように思えてなりません。

そうした強い気持ちを踏まえて、ここからは一昨日から昨日と寄り添いながら書いてきた歴史的人物の最終章を書いていきます。

さて、40歳を超えた大塩中斎(1793-1837)ですが、当時の人生が50年と考えられていた時代において、これは最後の仕事にかからなければならない時期です。実際、中斎はvol1, vol2で辿ってきた通り、真に生きるとは何かを誰よりも問い続け、迷妄の淵で生死を彷徨い、良い師匠や学友に出会えなくとも、本を通じて独学で何とか這い上がってきました。しかし、真に生きようとする覚悟を持った者に対して、なぜ運命はかくも残酷なのか。中斎に限らず、歴史上の人物で似たような運命を抱えた人々を様々に想起するでしょうが、天が彼に与えた最後の仕事は、あまりにも苛烈を極めるものでした。

彼の生きた江戸時代後期を、私は現代の日本の姿と重ねています。一見すると表面的には安定しており、平和に見えるかもしれないが、一度、この皮を剥ぐと目もあてられない惨状が広がっており、そこには憎悪・妬み・嫉妬・不安・怒り・苛立ちが静かに疫病のように蔓延して一億人の心を蝕み、さらに人々を見ずに社会システムの維持だけにフォーカスする官僚主義の悪害が横行し、政治を行う為政者は全てをなかったことにする。現在の日本と全く同じです。中斎の時代も、まさにこの転落過程にあったのですが、歴史を知ることができる私から見れば、その帰結は奈落の底です。このシステムの腐敗を維持しようとした小賢しい人々によって、結果的に徳川幕府の300年の歴史は終わりを迎えることになり、あっという間に、西洋主導の西洋化の猛威にさらされることになり、日本は日本から疎外されていくことになったのです。

その象徴的な1868年の明治維新から考えると、早くも150年程度が経とうとしている今、全ての速度が速くなったことを考慮すると、私は今後20-30年程度で、日本は江戸時代後期から明治時代初期にかけての動乱を凝集した形で経験することになるだろうと考えています。そしてこれは、単に遠い国の崩壊物語ではない。私は日本の崩壊というか衰亡は、実は重要な側面において西洋化の帰結であると見ており、様々な形で各国に影響を及ぼす先例になると考えています。つまり、完全な意味での近代という西洋主導時代の終わりですが、この意味は、何も一般的に流布されて不安が煽られている西洋の終わりというニュアンスとは異なり、単に歴史的に無関係な遠い地域にまで及ぼしていた西洋的な影響力がその地域において終焉し、それが幻想だったと人々が気付くということです。日本で言えば、それは明治維新から今日までの歴史の清算という捉え方になります。

実際、中斎の生きた時代は、徳川幕府による体制システムの崩壊期とともにありました。その最大の象徴的出来事が、天災です。人間が真に生きることを放棄し、システムへの自己家畜化を推し進め、本来、人々を導く使命にあるリーダーたちの腐敗と利己主義の横行が地上を満たせば満たすほど、必ず天が裁きを下してきたのが歴史の教えです。そして、天災は常に人心の乱れに起因します。現在の気候変動における運動にしても、確かに社会システムの是正に人々の意識が向かうことは仕方がないのですが、真の問題は人心にあることが彼らに考慮されているようには見えません。まずは、自分自身の心を見極め、それを正す実践から始めなければ、結果は同じだということを歴史は無数の事例を持って伝えています。

天は、人間にとって都合の良いようにはできていません。

中斎が最後の望みを持って佐藤一斎に向けて手紙を書いた1833年、江戸時代を通じて最悪の天災が腐敗した人々に対して猛威を振います。それが、深刻な飢饉です。実は、300年程度続いた徳川幕府システムが崩壊した主因は、19世紀初頭から欧米列強が日本近海で挑発を続けたからではなく、飢饉が起きた際に幕府や藩が機能不全に陥り、人々が生死をかけて各地で反乱を次々と勃発させたことにあります。ペリー提督の黒船来航が日本の新時代を築いたという歴史観は、あまりに杜撰で適当過ぎます。つまり、日本は自分たちで自滅しただけのことです(同じことが今起きています)。

発端は、直前の1828年に九州で起きた大洪水を契機とし、断続的に天災の影響が高まって凶作・飢饉が立て続き、米の価格が高騰したことに始まります。この不穏な流れは人心を不安定にし、今と同じように表面的には安定しているように見えても、人々は不安に駆られて我を見失い、徐々に生存のために親兄弟、隣人を殺してでも自分が生き残るという地獄の光景に向かいます。

これは言うまでもなく、平時から利己的だったからです。要するに、平時の社会で既に利己的に生きていた人々は、危機が自らの生命に直結する事態として現れた時、必ずその本性を露わにします。だからこそ危機に直面していない平時に内省を為し、真に生きることの思案と実践の積み重ねが重大なのです。内省による心の修練は生涯を通じた修練ですから、危機が起きてからでは遅い。なぜならば、歴史は何度も同じことを繰り返しているからです。この事実が分かっているのだから、その時が来るのは当然と構えて、むしろ徹底的に心を修養することこそが人間の義務です。危機が起きた際の保証をどうするかということは、その後の問題です。

この1828年を契機とする社会不安は、じわりじわりと人々を蝕みながら、やがて1830年代に入ると暴発します。1830年代には大飢饉が各地で発生し、日本中で30万人以上が餓死したと伝えられています。とにかく、その大飢饉の状況は様々な記録や文献を見る限り、言葉にし難い惨状であり、農村部では殺戮が横行し、餓死者の肉を切り刻んで食べたり、生き物であれば何でも食べる有様でした。この時、それまで金持ちで周囲に傲慢な態度を取っていた者たちも、たった一握りの米を買うために家財の全てを売り払う無様だったのですが、もはやお金など価値を失ったゴミ同様で、こうした人々も餓死します。私はこうしたことが今後、先進国でも近い状況になってくるだろうと考えます(特に、食料自給率の低さと国際競争力を失った日本)。

また江戸時代は、国際潮流とは全く無縁に、日本国内で既に独自の金融市場の発達により、世界初の米の先物取引や投機取引が大阪の中之島という場所で行われていました。しかし、幕府は乱高下する米価を調整する力量をもはや持っておらず、飢饉は慢性的に続きます。現在同様に異常気象も加わって生じた約200年前の動乱期には、何と5年間で人口が125万人も減少したと考えられています。

民が大量に飢え死にする惨状は地方に限らず、経済首都であった大阪や文化首都であった京都にも大打撃を与え、現在では想像し難いでしょうが、大阪から京都にかけてその辺りに餓死者が続出して散乱する事態となっていました。この大飢饉による1830年代の社会不安の波は、特に1833年と1836年の二度が最大の被害となるのですが、実は大阪は1833年の動乱を乗り越えることができました。その理由は明白。優れた指導者が問題の対応に迅速にあたったからです。1833年の飢饉が全国を揺るがす最中、大阪の町奉行という役所で見事にリーダーとして采配を振るい、大勢の人々を助けた人物を矢部定謙(1789-1842)と言います。

この時、矢部は自らだけではこの事態を解決できないと、以前から崇敬していたある人物に協力を求めます。ここで登場したのが、大塩中斎でした。1833年当時、彼は既に大阪の役所仕事を養子に譲って隠居していましたが、大阪中が大混乱に陥り、民が疲弊する状況を見て見ぬフリなどできるはずがない。中斎は、矢部の要請に答えて全面的に自らができることを全て協力します。また矢部の配下には経済の専門家も揃っていたため、大阪は大きな混乱がないまま切り抜けることに成功します。大阪の人々は、矢部定謙の手腕によって何とか危機を脱することができたのです。ただし、この時の大阪の評判が、次の飢饉の際に大問題となります。

問題は、次の1836年です。今度も同じように民が次々と道端で餓死を始め、社会動乱が高まっていたのですが、この時、前回見事な手腕を振るって人々を救った矢部定謙が転勤しており、後任の跡部良弼(1799-1869)という人物が担当します。しかし、この跡部良弼は、餓死者が大阪にも大量に発生しているにも関わらず、江戸幕府の動きしか見ず、一向に何も動かない人物でした(つまり、自分の出世だけしか考えていない)。そして、何と大阪の人々を救うための非常時に向けて蓄わえていた米を、江戸幕府の為政者の機嫌をとるために全て送ってしまったのです。ですが、1833年の大阪の評判を聞きつけた京都の人々も大阪なら米を買えると思って集結したため、日本で一番治安が悪化する事態となります。すると、この跡部は、何と米を買いに来た人々を片っ端から逮捕して牢獄に次々放り込む悪行を行い始めたのです。こうして、大阪は死体の山となります。

また、ここに重ねて大阪の気風による問題が生じます。元々大阪は、江戸時代前後から経済首都として大発展してきた歴史を有するため、商機を見抜くことに長けた商人が日本で一番集う街でした。その家業は完全に分業されて細部にまで統制され、既に高度な経済社会が成立していたのですが、誰もが知るように、社会不安や人々の困窮は、ビジネスを生業とする人々にとっては、千載一遇のチャンスとなるのは当時も今も同じこと。ここで商人が米を買い占めたことによって市場から米が消えてしまい、米の値段が尋常ではないレベルに高騰します。この結果、人々が買える金額ではなくなり、飢饉はさらに深刻を極めたのです。大阪に集まった人々は、道端で餓死するか、逮捕されて牢獄で餓死するか、暴力によって略奪するかしか方法がなくなり、劇的に治安が悪化します。

当時大阪では、毎日150-200人を超える餓死者を出していたとも言われています。つまり、歴史家は視方を誤っていますが、飢饉や天災が問題なのではない。平時の頃から心を修練していなかった利己的な人々こそが真の問題なのです。しかも、利己的な人が問題解決の指導にあたるなど、言語両断です。天は単に、平時の人心の心掛けを危機において表に曝け出すに過ぎません。これは今も同じことです。よって現代の世界を鑑みるに、何かしらの世界的天災であれ厄災が起きれば、どうなることかは容易に想定できます。ある日を境に、家族や兄弟や親しかった友人などが、突然発狂する近未来を、果たして私たちは生き抜くことができるのでしょうか。私たちは今、まだ平穏に見える世界を生きているため、そうした危機が迫っていることを予期はしながらも、中々準備しようとはしません。しかし、こうした歴史を鑑みることによって、本当に生き抜く気概があるならば、今こそ準備に徹しなければならないことが見えてくるのです。

普段から修身を怠ることのなかった中斎は、この状況に直面するなり、考えるよりも先に行動を起こします。実はここに、私が言う朱子学と陽明学の決定的な相違があります。朱子学の影響を受けた人々は、こうした出来事が起きても、普段から心を修練する習慣もなく、ただ論理的に物事を議論するだけの官僚的方策以外には何も行動できないため、どんどん人々が困窮・餓死し、社会動乱が起きる中であっても、有効な対処を打てずに、自分の社会的保身だけを見て右往左往します。しかし、陽明学の影響を受けた人々は、平時の修練はこの時のためにあると言わんばかりに、真っ先に行動を起こします。彼らにとって、知識と行動は分離していないからです。これこそ、私が朱子学(一般的に人々が儒教と考えるもの)ではなく、陽明学に薫陶する根拠です。学問を為す根拠は、こうした時のためにあるのであって、社会的ステータスのためにあるのではない。それは今が異常なだけで、本来、世界中で共通していたはずです。かなり簡単に言えば、危機に際して「朱子学=準備不足」と「陽明学=準備万端」です。

王陽明に薫陶し、日々修練を欠かさなかった中斎も、まさにそうでした。中斎は、即座に自宅に構えていた私塾・洗心洞の書庫にあった5万冊もの蔵書や家財を売り払い、620両という大金を自ら用意して1万人の人々に配ります。現在の貨幣価値に換算することが難しいのですが、大体1億円程度と思って頂いて構いません。しかし、これでも飢えに苦しむ多数の人々を助けることはできません。当時も今も、時代を動かすような危機は、常に大勢を救うことはできないことの歴史的証左です。ゆえに、彼は同時に危機的状況に陥ってながら、一向にやるべきことをせず、このような状況にあっても自らの社会的ステータスや保身を考えている役人や商人、為政者に対して強烈な憤怒を露わにし、幾度も役所や商家に乗り込んで直談判しますが、人格者ではない利己的で滑稽な役人には何を話しても無駄。こうして中斎はついに、役人と商人を打倒する覚悟を決めたのです。

実際、この金を人々に配る最中、彼は商人や幕府を打倒する革命運動を起こし、連中が蓄えている米や金を分配するから、大阪で反乱が起きたら集まるようにというようなことを書いたビラを密かに配っていました。また彼は元々武術や戦略立案にも卓越していたため、爆薬や大砲も購入して準備して、密かに私塾で軍事的訓練を門人たちと進めるなど、革命の機運を伺っていました。実はここで熱狂したのは門人の若者です。なぜならば、平穏で戦の機会がなく、ただ暇を持て余すような日々を送っていた若い武士にとって、一生に一度、自らが死をかけて挑む出来事があるならば、当時はそれ以上の幸福はないと考えられていました。

この背景には、いつか書きますので詳細は省きますが、1701年の赤穂事件と呼ばれる有名な出来事が、やがてその事件をモチーフにした忠臣蔵として1748年頃から歌舞伎などで上演されて人気を博した影響もあるのですが、要するに若い武士は死ぬべき時を求めていたということです。その意味では、この1836年の大阪での出来事は、彼らにとっては最高の舞台です。当時大半の武士は単に寿命で死ぬような世界でしたが、武士の世界では死から人生を考えることを徹底的に教えられるため、それを美徳とする者も多く、特に若者では顕著でした。ゆえに、中斎の一声によって普段から厳格な中斎に鍛え上げられた血気盛んな門人たちは、遂に時が来たとばかりに熱狂します。

これは、歴史の教科書に記されるような単なる一市民の反乱ではありません。江戸時代を通じて最も過酷な時代において、腐りきったシステムに対し、一人の「生きた人間」が、その全存在を賭けて叩きつけた異議申し立てでした。この出来事自体は英語でもそれなりに知ることができるでしょうから簡潔に書いておきますが、最終的には、この計画実行に恐れを為した2人の門人の裏切りによって役所に計画が知られてしまったため、彼は準備が整う前に、自身の邸宅に火を放って蜂起せざるを得なくなります。結果、商人の家を襲撃して大阪の街の5分の1が焼け落ちました。ここで奪った金品は、貧しい人々にどんどん渡されていき、勢力は一気に300人にまで達しますが、この計画を聞いて即座に大阪城から2,000人もの幕府軍が到着し、総攻撃を受けて即日反乱は鎮圧されます。

そこから40日間は逃れた中斎でしたが、潜伏先を包囲されると火薬を用いて潜伏先の小屋ごと爆破して自決します。その日は、1837年5月1日。中斎は44歳でした。この時、死体が焼け焦げて個人を判別できなかったため、大阪の人々は英雄・中斎は実は生きているのではないかという、現在でもよくある噂となって各地へ伝播します。民のために自ら行動を起こしたとして英雄視される中斎の生き様は各地で同じように苦境に喘ぐ人々に生命力を伝播し、実際に幕府や藩が機能不全に陥る原因となった全国各地の反乱や一揆へと連動していきます。興味深いことに、この大阪の中斎が為した出来事は瞬く間に全国各地に知られており、各地の反乱勢力は共通して大塩中斎の残党や、門人と名乗って蜂起を行っていました。徳川幕府の時代を終わらせたのは、大塩中斎とも言えます。

何より、この根拠なき中斎生存説によって、最も動揺したのが江戸幕府です。中斎は反乱を起こす数日前、幕府の老中という最高政治職を担う人物に極秘の手紙を送っています。手紙には、下級役人から老中までシステムに関わる者すべてが加担している腐敗について書かれており、この腐敗や不正が世に明らかとなれば、関係者は処罰されて少しでも正しい政治を取り戻せるはずだと、まるで儒教の聖人・孔子の言葉のような想いが綴られていました。ですが、朱子学型システムにおいて内部告発は最大の裏切りとなります。当然、朱子学派のイデオロギーが脳を席巻している幕府や藩の要人たちが、こうした言葉を真に考えることなどありませんでした。むしろ、幕府に対する謀反だと捉えられるのは仕方がありません。

確かに、反乱は物理的には鎮圧されたかもしれません。しかし、その精神の爆発、全ての家財を捨て、己の地位も捨て、ただ一心に「民を救う」という一点において全てを燃焼させたその命の在り方と生き様は、現代の私たちが失ってしまった「生きた人間」の原型を強烈に示しています。彼は反乱に際して妻と離縁し、全てを断ち切って死ぬ覚悟で事を起こしました。現代という空虚な時代、自分だけが良ければ良いという利己主義の偽善者たちが大量に地上に満ちた世界において、私たちが取り戻すべきは、この中斎のような生きた人間ではないでしょうか。情報を消費し、システムに飼い慣らされるのではなく、自らの腹の底にあるマグマと向き合い、学問し、そして生きること。人間なき廃墟の上に立ち尽くす私たちは、今一度、その凄絶な生き様に触れ、自らの内なる静寂な聖域に火を灯すべきなのです。

1830年代の動乱から学ぶことは非常に多いのですが、特に大塩中斎が反乱を起こした最も深刻な1836年の気候変動の一つの原因は、実は日本国内ではなく、1835年1月に南米ニカラグアでコシグイーナ火山が大噴火したことに由来する可能性が判明しています。事実、当時の天候日記の中には、1835年4月の記述に「この頃、異常な朝焼けが毎日見られる」とあり、ここで冷夏や長雨が常態化し、作物が全く育たなくなったことが分かります。つまり、決して自分たちの暮らす国が安泰だからと言って、危機を免れるという保証はない。むしろ、一度グローバリゼーションを通ってしまった私たちは、もはや自国だけで問題解決することは不可能であり、他国で上がった火が、地球の反対側の国や人々に同時多発的に影響することは十分に起こり得ます。

そして重要なことは、こうしたリスクを私たちは避ける能力も方法も全く持ち合わせていないことです。ゆえに、誰もがこうしたことがある日突然起きると前提して生きることの方が最も現実的です。今、平穏だからと言って準備を怠り、危機が到来した時に慌てふためくのか。あるいは、平時から修練などの準備を徹底し、いかなる危機に直面しても、微動だにしない心構えを立てておくか。

激動の時代が幕を開けてからでは遅いわけですから、まだ最後の平時を謳歌できる私たちは、生きた歴史に学び、今、やらなければならないのです。