大塩中斎 1Chusai Oshio, Part 1
世の中が移り変わるにつれて、歴史を知らない人々が地上を埋め尽くすことも世の常。未来を考えるためには、必ず歴史というレンズを通した洞察は必要不可欠であり、歴史を知らぬ者に未来はないとも言えます。ですが一方で、歴史は単なる文献であってはならない。歴史は意味されたものの解釈であってはならない。歴史とは、先人の生々しい生命の痕跡だからです。例えば、現在でこそ平和に思え、一億人規模の国民が生活している日本ですが、歴史を振り返れば、幾度か路上に大量の死体が散乱するような事態が起きていました。
現在のような表層的には進歩したかに錯覚する世界システム、その中に液状化している無数のシステムを考慮すれば、まさか先進国で今後、路上にそのような地獄の光景が広がるとは誰も想像しないでしょう。しかし、歴史が教えていることは、平穏無事に思える時代は決して長くは続かないということ。そして最重要なことは、人の心の腐敗は、必ず天から裁きをもたらすということです。既に私たちは、自然が人類に反撃し始めている光景を日々目にし、実際に経験しているわけですが、まだ序章に過ぎません。
私自身が生まれ育った大阪は、現在では日本の大都市の一つとなりましたが、街を歩いていても、まさかこの地でかつて大量の死体が転がり、歴史を大きく変動する動因となった出来事が起きたとは、誰も信じないでしょう。実際、その歴史を今では知る者自体が少なくなっています。そこで今回のテーマは「生きた人間」とは何かという問いです。
というのも、個人的に感じてきたことですが、現代において「生きた人間」と出会うことは、極めて稀な体験となってしまったからです。これは、実に奇妙なことです。なぜならば、世界では80億人を超えたとも、換算されていない人々も含めるとそれ以上に上るとも言われており、今後100億人を突破する勢いで猛烈に数は増えています。普通に考えれば、数が増えれば、生きた人間の数も比例して増えるように思えるのですが、事実は真逆で、数が増えれば増えるほど、生きた人間の数は反比例して減るのです。現代の問題は、とにかく人口も何でもそうですが、数だけは立派に増えるが、質は一向に向上しないことです。というよりも、現代的な作法においては、質も数も双方ともに高めていくことこそが正しいのですが、未だにいずれかに偏ってしまう傾向から免れることができない状況が続いて停滞しています。
「生きた人間」とは、単に心臓が鼓動し、呼吸を繰り返しているという意味での生存ではない。むしろ、現代人は寿命を長くすることばかりに躍起になっていますが、真の意味での生命なき延命は愚かを極めることになります。超高齢化社会の日本の日常を目にする日々を送るほど、この生きた人間とは何だろうかと自分に強く問いかけるのですが、それは彼らの姿が私たちの未来、いや、もっと悲惨な未来に立つ可能性が高まっているからです。
真に「生きる」ということ。それは、人間が本来有している生命力を余すところなく内包し、腹の底でマグマがぐつぐつと煮えたぎるような言葉にできないものを研ぎ澄ませている状態を指します。そうした人々は生命そのものを賭して、日々の修練にひたすら励む。その修練は、他人からでは分からないものである場合が多いのですが、その理由は「心の修練」とも言えるからです。心身は分離しておらず、不二です。
そして、その研ぎ澄まされたマグマのような生命力はある時、ある出来事を契機として、その蓄積されたエネルギーが強烈な持続力と爆発力を持って噴出し、人生そのものと対峙する動力となる。そうした瞬間に立ち会うことこそが、私たちが失ってしまった「生」の震源地なのです。生きること自体を取り戻すということは、現代人にとっては不可思議なテーマなのでしょうが、生きていると思っていること自体の定義が、もはや本来の姿ではないことは自明です。つまり、自らに対して、本当に生きているのかをどこまで問い切れるかということです。
しかし、現代の風景を見渡したとき、そのあまりの異質さには戦慄を覚えずにはいられません。個人的な経験則で言えば、少なくともiPhoneが登場する以前、あるいはインターネットという巨大な神経網が世界を覆う以前の日常や、かつての人間の顔つき、街の相貌を知る者にとって、現代の姿はあまりに異様であり、生気も覇気も奪われた抜け殻のように映ります。日本で言えば、iPhoneがリリースされたのは2008年初頭だったと記憶していますが、当時私は高校を卒業する間際で、ちょうど同級生が大学に進学する辺りでした。まだこの時にソーシャルメディアはなかった、あるいは一般的ではなかったので、現代のような諸問題が現れる直前に私たちの世代は18歳を超えたということになります。
そしてここから、急速に周囲の人々の顔つきが変わっていったことを今でも覚えています。その理由が何なのか未だに明らかではないものの、明らかにiPhoneとソーシャルメディアの勃興以降、人間の顔が変わったように感じてなりません。そして、かつて人間と呼ばれた存在は、いつしか人間ではない何か――機械となり、装置となり、システムの一部へと変貌を遂げました。さらに言えば、もはやかつての意味での人間ですらなく、ただ飼い慣らされた動物的な生命の単なる集積として存在しているに過ぎない。この現状に、強烈な違和感と異質性を感じざるを得ません。
こうした荒廃した地平から、美辞麗句や綺麗事を並べ立て、「人間とはどうあるべきか」と叫んだところで、それは虚空に響くだけでしょう。なぜなら、その「人間」として対象化されている定義や概念そのものが、もはやかつての生命の重みを失って浮遊しているからです。綺麗に整えられ、漂白された「人間らしきもの」が、新たな人間として意味付けされて肯定されなければ何も語ることのできない現代において、私たちの生命の発露は行き場を失っています。だからこそ、その反動として、生きることを志す強い信念と決意に満ちた少数の者の登場の余地が開かれたのが現在だと言えるでしょう。こうした状況こそ、まさに歴史を知ることで繰り返していることを自覚できます。
現状、神経質に苛立つ人々や、単なる不満や不平を撒き散らす人々が世の中には溢れていますが、彼らはそれを「人間的な感情」だと強固に正当化し続けています。しかし、そうした世の中を席巻する突発的かつ反応的感情(反射)は、真の生命力とは程遠いものです。このような状態で、人間とは何か、あるいは人間が人間であるとはどういうことか、いかに生きるかという本質的な問いを立てることは、ほぼ無意味な徒労に終わるでしょう。私たちは、廃墟となった「かつて人間がいた世界」の地平に立っているのです。
それでも、その姿に違和感を覚え、我慢ならず、改めて人間とは何かを問い直そうとする力強い生命力の発露が、国境を跨ぎ、随所に現れ始めているのもまた事実です。現在生きている人々の中から「生きた人間」を見つけ出すことが至難である以上、私たちは歴史という水脈にその源泉を求め、学ぶ必要があります。そうして知るでしょう。いつの時代も、同じようなものではないかと。今回、私がその深淵を覗き込むために取り上げたいのは、私と同郷に生まれ育ったある人物の物語です。単なる歴史記録の提示ではなく、その人物の心を切迫する形で迫ることによって、生きた人間の存在について思案するためです。
それが、大塩中斎です。
現在では一般的に大塩平八郎と呼称されますが、戦前までは大塩中斎の呼称で知られていました。大塩中斎(1793-1837)は江戸時代後期の大阪に生まれ、町の奉行所に勤務する役人の家に生を受けました。ただ、早くに両親を失ったことから、若くして家業を継がねばならなくなり、現代で言うところの官僚的な警察機構、犯罪者の裁定を行う「与力」という仕事での出仕を余儀なくされます。しかし、彼は幼い頃から組織に属してシステムに自己家畜化できるような性格ではなく、激情の持ち主でした。とにかく短気で喧嘩っ早く、あまりの乱暴に手を焼いた祖母は、心配のあまり、毎日幼い中斎を連れて神社で彼の気性が治るように神に祈っていたと言います。
ですが、気性の荒い子供というものは、常に正しい方向性にそのエネルギーを使うことを教える優れた師匠が登場すれば、性格も一変することは誰もが知ることでしょう。そして中斎の場合、それは本との出会いでした。ある日、育て親である祖母のところへ一人の古物商(当時はこうした行商人が大阪などに徘徊していました)が古本を売りにきたのですが、その中に『古本大学』と他に数冊あったので、熱心な読書家であった祖母は早速購入します。
ちなみにややこしいのですが、『古本大学』とは、中国宋代に起きた新儒教というムーブメントによって、本来『礼記』の一編であった『大学』が重宝されるようになり、最重要の儒教経典の一つとなったのですが、それに対して、それは後代の儒者(つまり宋代)の恣意的な装飾や解釈に過ぎないとし、新儒教以前の『大学』にこそ真理はあるという激しい論争が起こったことに由来します。こうして呼称が分裂し、区別するために本来のものを『古本大学』と称する習わしが生まれたのですが、ここではあまり難しく考えず、とにかく新儒教以前の教えと考えて頂ければ構いません。
そして、祖母が買っておいたこの『古本大学』を偶然見つけた子供時代の中斎は、何を思ったか祖母にこれを自分に教えてくれと懇願し始めます。当時の日本の知識人は、漢文で記された原著に「句読」と呼ばれるものを施し、それによって日本で漢文を読むための試行錯誤が既に領有されており、知識人なら誰もが漢文を読むこと程度はできて当然でした。祖母は元々学問熱心であったため、これができたのですが、ゆえに中斎に自ら漢文の句読を教えます。すると不思議なことに、彼の乱暴な性格は落ち着き始め、あっという間に読書に没頭、天性の才能を発揮する土壌をつくります。
この運命的な出会いを通じて、学問に身を捧げたいと願っていたのですが、14歳の頃、中斎は祖父の業務を継承しなければならなくなり、役所に出仕することを余儀なくされます。ですが、早くから儒教の聖人の教えに触れていた中斎にとって、役人のように組織の歯車となって生きることは容易なことではありません。
また、ここで言う学問とは、現代の私たちが想起するような、大学や大学院を卒業して博士号を取得し、就職してプロフィール欄に社会的な地位を連々と書き綴るための退屈な手続きではありません。本来の学問とは、生身の存在と存在がぶつかり合う場所であり、生命が最も発露する瞬間であり、人間が人間であるための根源的な営みなのです。それは宗教における求道にも似た、魂の燃焼です。ですが、こうした機会は誰もが承知の通り、滅多にあるものではありません。今だって大学機関自体は世界に無数にあり、個人でレクチャーする人の数も無数ですが、果たして一体、どれだけ生きた学問が存在するのかと言えば、誰もが経験から、自分にとって一つ見つかれば良い方だと理解するでしょう。そして人生は、この一つの運命的な出会いによって大きく変わるものです。
こうして役所にいやいや出仕する日々を送る中、彼の人生を一変する最初の出来事が起きます。それは、何となしに中斎の家系の系図を調べてみたところ、自身の先祖が今川氏の一族で、徳川家に仕えてからも、功労によって伊豆に領地を賜ったという江戸時代前後の事実を知ったことに始まります。今回は触れませんが、簡単に言えば、彼自身は役人の生まれとなっていたが、本来は名門の出自だったということ、さらに江戸幕府を開いた徳川家側に対する功労がかつて先祖にはあったということです。
そして彼は、今の自分自身の境遇を冷静に見てみると、先祖は功績を挙げて家紋に恥じない働きをし、徳川将軍家に徴用されたにも関わらず、なぜその血筋である自分はこのような役所で利己的で狡猾な人々と日々顔を合わせて働いているのかという疑念が生まれます。そしてこの自分の生き方は、先祖に恥じるものではないかということを強く感じたのです。ですが、時代は形式的な身分が固まっており、戦いもなければ功績も上げる機会のない平穏な時代。彼はなぜ自分はこのような時代に生まれてきたのか、なぜ両親は早く亡くなったのかと境遇を呪い、その鬱積を晴らすように学問に続いて今度は武術を始めます。この時、中島流の砲術を学び、今も日本で唯一継承され続けている佐分利流の槍術を習うのですが、元々気性が荒くて体格も大きく、屈強で恵まれた彼の性分が幸いして、周囲に敵なしというほど強かった。仮に彼が武士の群雄割拠する戦国時代に生まれていれば、かなりの戦功を挙げたでしょうが、時代はそのようなこととは無縁。志ある者が歴史を知れば知るほど、自らがこの時代に生まれていればと思うことは一度や二度ではありませんが、中斎も同じだったのです。
しかも時代は、知識を悪用し、庶民を犠牲にして自分たちの利得ばかりを考える現代同様の愚者が蔓延する江戸時代後期です。そこら中に利権が巡らされて規則・規範が徹底される時代では、いかに中斎とは言っても為す術がなく、ただ鬱積を日々学問や武術で晴らすしかありませんでした。システムが維持できていて自分たちの身分が安泰なのだから、別に庶民が苦しもうが他者がどうなろうが知ったことではない。自分たちの利得がしっかりと保証されているならば、それ以上に何を望むのだということです。ゆえに、自分たちの利得や利権を脅かすような新たな挑戦などは一切認めず、とにかくシステムへの自己家畜化こそが出世の方法であるという具合でした。
この時代がちょうど中斎の18-19歳と多感な時期であったと伝わりますから、どうすることもできない若者の相当な苦心と鬱積を、私たちは直に感じることができます。ですが、彼はこのまま生きることを諦めて、他の役人同様に生きながらにして死体となる道を選ぶことはありませんでした。次の転機は、20歳に訪れます。
この時、彼は気付いたのです。自らの心が揺れ動いていることこそが、真の問題なのではないかと。つまり、これまでの自分は全てを時代や他者の責任にして境遇を憂いてばかりいたが、社会においては、たかが一人の小役人に何ができるかと言えば、何もできないではないか。だったらそれは、己の心を内省によって凝視せず、ただ答えを外に求めていたことに起因するのではないか。それこそ先祖に恥じる生き方であり、真に生きることではないと悟ったのです。
ここで、再び彼は学問に没頭します。一つの説によると、この時に江戸(東京)に出向いて江戸幕府の御用学者であった林家による朱子学を教える機関に入門したとも言われていますが、本格的に儒教に足を踏み込んだことは事実です。
儒教は、どうしても偏屈で理屈ばかりで規制にがんじがらめの、個人の自由を拒絶する教えと勘違いされる傾向が今も世界的に強すぎるのですが、本来の儒教はそのようなものとは全く異なります。ただ、儒教の教えは時代ごとの為政者の統治を目的とする体制哲学に都合の良い解釈可能な余地があるため、それを悪用した小賢しい知識人たちが、儒者を名乗って孔子や孟子の教えをどんどん歪曲していき、さらに宋代の新儒教によって大幅に改変されてしまったため、今日のような儒教に対する心理的抵抗感を生んでいます。実際、日本はこの誤った儒教解釈が今も体制哲学の根幹となっており、特に1990年代後半以降にこの朱子学的システムが復権。強固な全体主義、新しいことを一切認めない前例主義、個人が組織・システムへの犠牲を強いられるなど、とにかく儒教の悪い側面ばかりを現在では全て体現している有様ですから、儒教に問題があることは一定の事実を含有しています。しかし、本来の儒教はそのようなものではない。人間が人間として生きることとは何なのか。この問いに最も向き合ったのが儒教の聖人たちです。
そして私が考える儒教の特徴は、システムへの自己家畜化ではなく、外のもの、つまり他なるものである他者・システムなどを変えるのではなく、まずは自分自身が変わることを説く原理を有している点です。自分自身の心をまず変える変革や革命を起こすことによって、徹底的に自分自身を修練する。すると時代がどうであれ、システムがどうであれ、他人がどうであれ、やること為すことはいつの時代も変わらない。そして「外」である家族・社会・国家を変革することよりも、「内」である自己を変革することの方が圧倒的に困難である。私は、社会変革や国家変革などに邁進する現在の人々を見ていて滑稽だと考えるのは、自己変革という人間にとって最も厳しく、最も困難なことを今の人たちが経ているようには到底見えないからです。自己変革なき外部の変革はない。もっと言えば、自己変革によって自分自身が変われば、外の世界の見え方が一変するという具合です。
中斎は儒教に没頭したことによって、元々実践的な才覚も高かったことから、次々と聖人の教えの真理を学んでいきます。一方で儒教は個人の修練は説くが、同時に自らに与えられた責務を果たすことも同じように重視します。よって中斎は、それまでは役所勤めが自分の未来の何の役に立つのか、なぜ米相場(今でいう株式市場)の話ばかりするような連中と一緒に人生の大半の時間を過ごし、しかも捕らわれてくる犯罪者の裁定という業務を行わなければならないのかと憂いてばかりでしたが、ここから態度を改め、今、自らに運命が与えた責務を果たすことこそが、自己変革の実践であると捉えて挑み始めたのです。それこそが、人生を開く唯一の道ではないかと覚悟します。たった20代前半の若者が、ここまで悟るわけですから、真の学問とは本当に尊いものです。
こうして、自己変革によって自覚を為した人物ですが、私たちの誰もが知っているように、世界はこのような自覚ある生きた人間を、幸福に導くシステムにはなっていません。むしろ、歴史的にこうした正しく生きた人生の旅人ほど、深く、嘆きに満ちた深淵に誘われていく奇妙な運命を持っているものです。大塩中斎も、例外ではありませんでした。若くして悟りを得た中斎に待ち受けていた運命は、あまりにも残酷な試練の連続だったからです。
まず、中斎は深く学問を極めるべく、次々と熱心に儒教を教える私塾などを訪ねては学び始めたのですが、当時は腐敗を極めていた時代であり、その筆頭が学問の皮を被った無味乾燥な死んだ教育にありました。当時の学問は現代同様、単に意味されたものだけを師匠が弟子に教える無意味な教育が蔓延していました。例えば、師匠は弟子に対して、孔子や孟子などの古典の素読や注釈という表面的技術を伝授するか、題を与えて資料をあたっては優等生の答え合わせをするという愚行が蔓延していました。そこには生きた学問も、師匠と弟子の生の存在の対峙もない、心を感激する力もなければ、ただ小賢しい役人思考を持った役人予備軍の育成機関でしかなかったのです。要は、無意味な機械的教育だったのです。
ここに中斎は、またしても絶望します。何しろ中斎が求めているのは、そうした形式的な外で生きるための悪知恵を拵えるために人生の時間を注ぐことではなく、内面的要求の切迫した生命に迫るものを学問に求めていたからです。ですが、当時は江戸幕府が開かれてから既に200年の歳月を経ており、もはや幕府初期の熱烈で熱狂とも言える新時代の熱気は消え失せ、固定したシステムに基づく身分を前提に、今と同様に肩書きが全ての時代でした。そこには生きた人間など不要で、システム維持を目論む人々にとっては彼らは邪魔でしかない。一見すると平穏な社会だったわけですが、その中身は現在同様に中身も生命もない状況だったということです。ここで中斎は遂に絶望してしまい、何をやっても楽しむことのない日々を送り続ける毎日を過ごします。その時、彼は24歳でした。
ですが、運命は一度覚悟を決めて本気で生きる強い志を立てた者に対して、その苦難に相応しい機会を授ける不思議な力を持っています。当時、大都市の大阪・京都・江戸であっても自らの内面的要求に応える教育がないことを憂いていた彼を救う次の転機もまた、先人の残した一冊の本として巡ってくるのです。この本との出会いが、彼が自らの運命から逃れることのできない人生を歩む転換点となります。
To be continue…