大塩中斎2Chusai Oshio, Part 2
歴史は、意味されたものや、参照リンクの集積であってはならない。常々そう考えているのですが、どうも昨今の歴史はこうした死んだものばかりが横行しており、歴史自体が生命を持って生き生きとしている姿がない。そしてこのような生きた歴史を知らない、知ろうとしない人々が増大する現在において、人類が方向を誤るのは至極当然であり、だからと言って、生々しい歴史を実体験する機会は想像以上に失われて久しくなっている事実も重なっています。こうした中で、いかに歴史の重要性を心ある人々が主張しようとも、もはや人類にとっては手遅れになったように思えてなりません。歴史から離れたとき、社会は方向を見失う。それがこの世界の道理です。
まず、一つの問いから始めましょう。自分自身の足元を真摯に見つめるならば、あなたはそこに何が見えるでしょうか。
その答えの濃度と深度こそが、まさにその人の知性を表すものであり、また未来の可能性でもあります。しかし、ここまで人々が思索や思考能力を喪失した以上、起源への問い掛けを通じて、精神を充溢するようなことは難解を極めており、現実的ではなくなっています。そうした中で、瞬く間にこれまで信じられてきた普遍は消滅し、単に形骸化した虚偽でしかなかったことが急速に露わとなってきたわけですが、これこそまさに文明の終わりに通底するものです。
世界の終わりでも文明の終わりでも呼び方は何でも構いませんが、80億人が迷妄する現代という特異性において、私たちは生き生きと生命力を持った歴史を再び発動せねばなりません。私が考える生きた歴史とは、その時代の社会や経済がどうだという流れだけを現代の視座から無思慮に見るのではなく、徹底的に人を見ることから始まります。社会や経済などを論じる歴史観は、例外なく人を見ておらず、ただ彼らの目はシステムばかりに気を取られているからです。しかし歴史とは、別にシステムのことではない。ゆえに、人を見ることによって初めて歴史は見えてくるわけですが、実は現代人は人を見る力自体を悲惨にも失っているため、この本義が分からなくなってしまっています。
だからこそ、誰でも構わないので、あなたにとって敬意に値する歴史上の人物をまずは一人でも選び出し、その人物の人生に誰よりも深く寄り添う視座から、言葉にしていく鍛錬が要されます。できれば、その人物の事績や縁のある場所を巡ることができるところから始めた方が良いため、最初はあなたが暮らす地域で見つけることをお勧めします。この方法の蓄積が、真に歴史を理解する力となります。
すると、誰もが気付くでしょう。今まで考えていた歴史、あるいは学校で教わった大学試験のための歴史は、一体何であったのかと。真の歴史の探究は、この気付きを得た時にようやく始まります。個人的には、この気付きは可能な限り早い時期に気付いた方が良いと考えますが、それは人生で残された時間が長いほど、その探究心によって到達できる深度が深まるからです。何しろ、人々の時間を浪費するためだけのシステムが完璧に張り巡らされた現在では、内省すること自体が極めて困難なものとなっており、年を取れば取るほど、脳内は汚染されて制御できなくなるからです。
ある意味、テーマは真の歴史を求めてですが、ここを基礎とした上で、昨日の記事で示した興味深い人物の人生の続きを寄り添いながら綴っていきます。そこに歴史が凝集されていることに、誰もが気付くはずです。
昨日見たように、外的世界に責任転嫁をする自己を猛反省し、真に人間の生きる道を求めて、求道者の如く儒教の門を叩き歩いた若き大塩中斎(1793-1837)。しかし、彼を待ち受けていたのは、学問の形をとった、中身を欠く形式主義の広がりでした。講義を聞いてみると、スタイルだけは立派だが、中身の伴わない議論が横行し、師匠や弟子からも自身の内省に準じた言葉は遂に語られることがなく、権威ある学者の見解や書物の引用ばかりをペタペタと随所に張り巡らせることによって、社会的信用を担保して発言するという主張の数々が響くだけ。また、どこかで見つけてきた装飾に満ちた長ったらしい言い回しに長けるばかりで、結局何も語っていない権威。孔子などの儒教の聖人の言葉だと堂々と語りながら、何の実践もないまま、ただ師匠と呼ばれて崇敬される、形だけの師のあり方。
こうしたことに、真理を求める求道者が耐えるなど、できるはずがない。結果、中斎は門を叩いて誰かに教わることを諦め、独学の道で生きることを決意するほかありませんでした。しかし、これこそが中斎の大きな特徴であり、当時の他の著名な学者とは異なる重要な点です。彼は事実上、誰からの教えも受けず、自らの独力だけで強烈な生命力を発揮し始めたからです。こうした儒者は当時稀ですが、私はこういう人たちに決まって惚れ込みます。
そして24歳の時、世を憂いて自己を打ち立てようとしながらも、苦悩に苦悩を重ねて行き詰まっていた志ある若者に、運命がチャンスを与えます。師匠もなければ教師もいない、独学で生きる道を歩もうとする者にとって、最大の師匠は常に歴史、つまり本です。私自身も一時期、同じように独学で生きると決めながらも迷妄していた頃、飢餓状態で食べ物を求めるように各地の古書店を渡り歩きましたが、本によって救われることは多いと経験上理解しています。私の近しい友人の女性で優秀な翻訳家も、人付き合いが苦手で一年中ほとんど一人で過ごすような人物ですが、彼女は人生には本があれば生きていけると公言するほど日々本を読み耽っています。こうしたことは、読者にも経験があるでしょうが、中斎もまさに同じだったのです。
こうして中斎は奇遇にも、当時輸入されたばかりの貴重な一冊の本と巡りあい、ここから人生の歯車が大きく動き出すことになります。その本の名は、『呻吟語』。著者は、中国の哲学者・呂新吾(1538-1618)と言います。
『呻吟語』は、呂新吾が人生に対する深き思索を元に30年に渡って書き綴ったもので、題名は病者の呻きに例えた人生の道標となる良書ですが、推定で1800年代前半頃に日本に初めて輸入されたと考えられます。つまり、中斎は輸入早々に運命的に入手できたと言えるのですが、彼は呂新吾の言葉を読むなり、これこそ我が求めていた学問だと直感します。実際、彼はこの呂新吾の本との出会いを、後年の1833年に書かれた手紙に熱量を持って記しています。
全文を英訳はできないので、私なりの読み方で部分的に示しながら進めると、内容は当時の学者や教育者への痛烈な批判が前面に出ており、彼らの学問は純真なる内面的要求を欺くだけであり、意味されたものの解釈に明け暮れるばかりで人間が生きる道には達せず、体裁を飾るだけで出世以外に何の役にも立たないと喝破し、それに埋没すると人間の生命力は失われ、迷いに迷って人生の本質を見失うと綴っています。そして、その経験を経たからこそ、自分は外に答えを求めず内省して自己と向き合い、そこにおいて真に自由なる人格に生きる心構えを立てた。だが、現実はあまりにその志を果たすことから遠く離れており、どうすれば良いのか分からず迷妄して後悔ばかりしていたと若き頃の自分を振り返って記しています。
そうした迷妄を断ち切るには、もはや外や他者に答えを求める自分自身の甘さを徹底的に除去し、自ら独学で全てを為すしかないと決意したと綴り、手紙では語ることができないほど苦しんで勉学に励んだと書いています。その時、苦しみながらも志を果たそうとする意志が通じたのか、天が呂新吾の『呻吟語』を我にもたらしてくれたと感激を持って語っています。そして同著を読むや否や、呂新吾も同じように苦しい心の病を患いながら、それでもひたむきに生きることをやめなかった偽らない真の言葉の力を感じ、この本を熟読して何度も吟味したと言います。
こうして何度も没頭して読み続けていると、彼は人間は深刻な煩悶にこそ真の道があるのではないかと徐々に気付き、この気付きを得た瞬間、恍然として自覚の光に接したように感じ、これによって自分は生きながらにして死体になることを間一髪のところで脱することができたと述べています。それだけ、呂新吾の言葉は迷妄の淵に堕ちた彼にとって救いになったのですが、ここから彼の運命は呂新吾の本との出会いを通じて、ある人物の思想に達することへと帰結します。それが、最近Shitsuraeで少し触れている明代の儒者・王陽明(1472-1529)なのです。
呂新吾と王陽明は直接の交流はありませんでしたが、王陽明が亡くなって8年後に呂新吾は生まれたことから同時代人です。しかも、当時は真に生きることを最後まで成し遂げた王陽明の影響力は一部に凄まじい熱量で広がっていたわけですから、呂新吾もその影響を存分に受け、亡き心の師匠を支えに自らも真に生きることを決意します。
呂新吾の思想の根源が、王陽明に由来していることを突き止めた中斎は、この時に初めて王陽明の名前を知ります。当時はまだ、王陽明の名前は日本では一般的ではなかったのですが、既に一部の心ある儒者の間には知られており、日本における初期の陽明学の基盤自体は早くも用意されていました。しかも、実は日本の陽明学は彼の暮らしていた関西で最初の潮流が始まったのですが、17世紀の時点で一度系譜が廃絶しており、既に1世紀ほど関西では陽明学をまともに教える場所がなかったことが、中斎の手紙からも理解できます。
ですが、自らの人生の救いとなった呂新吾の思想の源流が王陽明にあることを知った以上、中斎は何としてでも学びたいという気持ちが高まります。こうして中斎は、日本の陽明学の系譜を辿ることから始め、日本で入手できる王陽明の著作を探し歩く日々が始まります。
探し求めた本は、王陽明が自ら撰定して序文を書いた『古本大学』と、陽明の弟子による陽明の教えを編纂した『伝習録』です。幸いなことに、これらの貴重な本は中斎が生まれる前に、ある一人の人物の手によって翻訳・出版されていました。その人物の名は、三輪執斎。三輪執斎(1669-1744)は、京都の医者の家に生まれた人物ですが、江戸時代中期の代表的儒者の一人で、実はこの人物の登場によって、日本の陽明学は途絶えることなく今日に連なることになったのです。しかも、執斎は単なる知識人ではなく、王陽明に傾倒するほどですから、相当な人格者として当時から深い崇敬を受けていました。
何とか、三輪執斎が出版した王陽明の書物を探し出した中斎は、王陽明の思想に初めて触れた瞬間、信じ難い感激を受けます。手紙では、「従来、いたずらに内省を忘れて、機械的に走っていた傾向が続いていたが、(王陽明の思想に触れて)改めて一変しました。こうして私の目的は、要するに意志の純一自由にあり、その手段として、純真な内面的必然の要求を拡充していくべきことを悟ったのです」と、陽明の思想によって人生が変わったことを興奮を持って書き綴っています。私も王陽明の教えに触れた時、同じ感激を抱かずにはいられませんでした。人類が生んだ最高峰の聖人の一人だと思います。
そして、王陽明の思想に没頭する中、中斎は非常に重要なことに気づきます。陽明の教えは一般的に知られている儒教と根底を異にしており、特に知識と実行を分離させる朱熹の朱子学的な考え方ではなく、英語に翻訳することは難しいのですが、端的に言えば「知ることは実行のためであり、実行は知ることの実現である」という意味での「知行合一」という概念を提唱しています(非分離です)。さらに陽明は、いつの時代も知識人が陥る机上の空論を徹底的に排撃し、実際生活にこそ真の学びがあることを幾度も強調しており、自らに与えられた職務や責任の中にこそ、真の学問があるという実践的態度を弟子に説いていました。
この考え方に感銘を受けた中斎は、自らの境遇を憂うことをやめて「現在の職務を徹底して遂行することを心がけるようになった」と書いています。そして中斎は独学で陽明学を修養すると、この王陽明の精神こそが人々を精神的荒廃から救うと確信し、31歳の時に自宅に「洗心洞(心を洗う洞という意味)」という私塾を開いて陽明学を教え始めます。
この洗心洞は極めて修練が厳しいことで知られており、中斎は毎日午前2時に起床し、天体観測、陽明学研究、読書、執筆、刀の素振りを千回行った後、午前5時に弟子を集めて講義を行うものでした。しかも、同時に役所の仕事もこなしているわけですから、相当な体力です。中斎は、当時の人々の中では相撲の力士のように恰幅が非常に大きく豪快な人物であり、しかも激情の持ち主で知性も鋭利に研ぎ澄まされていますから、逸話によると、弟子はあまりに威厳ある中斎の顔を一度も見ることができなかったと言われるほどです。そんな彼が弟子に口癖のように言っていたことの一つに、「正義と私利、誠と嘘偽り、その境目を誤魔化してはならない。口先だけで善を説くことなく、実践しなければならない」というものがあります。今の私たちにも、身に沁みる言葉です。
そしてこの間、片っ端から本を買っては読み漁る独学の凄まじさを中斎は体現していたのですが、その結果、彼の私塾はかなりの大きさであったようで、自宅の書庫には何と5万冊もの蔵書があったと伝えられています。そして、この天による運命的な出会いを受けて以降、覚悟を決めて己の信念を貫き、自らの日常で実践することをひたすら続けた結果、思いがけずして中斎の名が、大阪以外の地方にも知られるようになったのです。
当時もそうですが、現代人の大半も、こうした思わぬ名声を得ると驕って傲慢になるものですが、中斎は儒教の聖人同様に、まだ自らの人格も確立していない未熟な己にも関わらず、実態なき名前だけが広まることこそが天の最も忌むことであるとして、ある決断を行います。それは、自ら養子を後継者として役所の職を辞退し、静かな休養生活(隠居)に入ったのです。この時、中斎は既に38歳になっていました。ちなみに、こうした名声だけが勝手に広がることを、儒教では「虚名」と言って古くから最も蔑んでいますが、現代はいかにこの虚名が溢れていることか。虚名は金儲けや人を騙すことにだけは役立ちますから、次々と溢れ出て止まることを知りません。
こうして中斎は、41歳まで隠居して、自己の心を磨き養いながら、少しでも人格を高める努力を日々続けていたのですが、一つだけ嘆き悲しむことがありました。それは不幸なことに、中斎には優れた師匠も友人もいなかったということです。実は、師匠や親兄弟、学問を語り合う友人の存在などは、儒教においては非常に重要な要素の一つであり、実際に孔子にせよ王陽明にせよ、弟子に友人との関わりの中で実践することを重視しています。しかし、幼少期に両親を亡くしており、また良き師匠にも巡り会えず、当時はあまりにも知的頽廃が凄まじく、誰もが知識を単なる出世や媚び諂いのためのものでしかないと考える有様でしたので、真に生きた学問を語り合える人に出会うことがなかったのです。これは、中斎にとっては唯一名残惜しいことでした。
そこで中斎は、先ほど紹介した手紙をある人物に向けて書き綴ることになったのですが、その相手は当時日本最高の儒者として知られ、何と生涯で3000人もの門人を抱えていた人物でした。しかも、この人物が素晴らしいのは、単なる名声の凄まじさなのではなく、彼の門弟から多くの人格者が登場し、彼の精神を継承した後継者が、実際に江戸時代後期から幕末にかけて歴史を動かす真の原動力となり、多くの人々を救い、江戸時代から新たな明治時代を繋ぐ人々を輩出したことです。良い師匠や教師というものは、学歴や社会的ステータスではないことを、現代人は完全に見失っています。自らの才覚が優れているから素晴らしいのではなく、良い後継者を次々と生み出す人格にこそ真価あります。
その当代随一の学者であり、腐敗した社会において微動だにしなかった人格者の名は、佐藤一斎(1772-1859)。江戸幕府の儒官として、官学を教える専門機関の昌平黌という武士教育の最高峰の学問所で教授を務める最高責任者の佐藤一斎は、いわば当時のエリートの最高峰に君臨していました。表向きには江戸幕府樹立以来、官学として採用されていた朱子学を教える大家でありながら、裏では素質を見抜いた僅かな門人にのみ、秘伝で陽明学を伝授した異端の儒者です。
なぜ、こうした形で陽明学を伝授をしていたかと言えば、実は汎用型論理で誰もが理解できる朱子学とは異なり、陽明学は素養や素質がなければ、必ず理解し切れずに誤った行動に帰結するからです。つまり、主体と客体を分離して考える朱子学は教えることは容易いが、陽明学ほど教えることが難儀なものはない。私は朱子学を含めた宋代の新儒教は近代の先行的動きだったと考えていますが、朱子学は論理的であるがゆえに、現代で言うところの大学の勉強程度ですが、陽明学は論理を持たない単純明快な生きる道であるが故に、論理的に物事を考える人々ほど必ず理解を誤ります。つまり、論理で物事を捉える習慣が強いほど、陽明学の理解に苦しむという具合です。現代の世界は論理による理解を重んじる場ですから、陽明学がそのまま受け取られる場は限られています。
私は日本の陽明学に関する著作もかなり読んでいますが、論理だけで組み立てられた陽明学の解義は、陽明学の生きた力を欠いていると感じます。つまり、佐藤一斎はそのことを熟知していたため、全ての門人に陽明学を教えず、一部の弟子にのみ伝授する形を取ったのです。こうしたことを当時の学問のトップが実践していたことを考えると、佐藤一斎が本当に素晴らしい師匠であったことが分かります。
中斎は、最後の望みを託して、既に60歳を超えていた佐藤一斎に手紙を出すも、大阪で暮らす中斎と、江戸で暮らす一斎が会う機会はありませんでした(ただ一斎は中斎の才覚を評価はしており、書簡は交わしていました)。中斎が一斎に送った手紙の最後には「先生(佐藤一斎)は必ず、この私を受け入れてくれるでしょう。それを思って、私は私の志を告げて、先生に教えを乞うために、まずこの書(手紙に同封した中斎の自著)を差し上げました」と悲痛な想いが書かれているように、中斎にとって、佐藤一斎の存在が最後の生きた希望だったことが伺えます。
しかし無惨なことに、彼の念願が叶って一斎に学ぶ機会は最後まで訪れず、このまま中斎は、ここから始まる江戸時代を通じた一番の激動の時代に巻き込まれて、短い生涯を終えることになるのです。
本来、昨日と今日で大塩中斎について書くことを終える予定が、殊の外私の書く熱量が高まって終わりそうもありませんので、次に続きます。どうも、どこか中斎の人生や心情が、今の私自身と深く共鳴するところがあるからなのでしょうが、きっと読者にとっても、国や文化や時代を超えた一人の人物の苦悩や憂慮、そして決死の決意と覚悟に、行き詰まっている人生の光を見出して頂くことを願ってやみません。
冒頭で書いた通り、私は歴史は意味されたものや、参照リンクの集積であってはならないと考えています。旅先で機会があれば、必ず自らが崇敬する歴史上の人物の墓参りをしますし、彼らが残してくれた遺著、そして生きた時代の心に敬意を持って感謝を捧げたり、深く熟読して時空を超えた対話を重ねています。何より、それを日常で実行し続けること。
いつの時代も、生きた学問に出会うことは難しいが、自ら行動を起こした時に、その機会は少ないながらも巡ってくるものです。それは自国かもしれないし、他国かもしれない。良い師匠に出会えるかもしれないし、良い友に出会えるかもしれない。また偶然入った古書店で、運命的な本との出会いがあるかもしれない。それらは人によって異なるでしょうが、その本質や熱量はこの意味においては等価であるはずです。そして私は、こうした人々が少数ながらも世界にいると信じてきました。
中斎を救ったのが、中国の哲学者の言葉であったように。人間は煩悶の淵に立ってもがき苦しんでいると、思いがけない人の言葉に救われることが多々あります。当時と違って、良くも悪くも世界大戦を経験し、さらにグローバリゼーションを一度通過した異質な世界を生きる私たちは、彼らの時代以上に他国の全く知らない人物の生き方や言葉に感激を受けたり、人生が変わる転機がもたらされることがあって良いはずです。そうした新たな可能性を楽しむことができる時代に生きることは、大抵のことが嫌になる世界において、美しいことなのだろうと私は信じています。