良き師匠との出会い:王陽明、徐愛、恵果と空海Meeting a Good Teacher: Wang Yangming, Xu Ai, Huiguo, and Kukai
良き師匠との出会い。それは、人の生を根底から一変させる最大の転換点であり、誰もが成し得ることのない奇跡でもあります。それを求め、渇望したからといって、必ずしも機会が与えられるわけではない。むしろ私欲から師匠を求めるのであれば、この世界では、そうした機会が失われる不可思議なルールを纏っているのです。
私が最近、少しずつShitsuraeで触れ、その深淵を覗き込み始めている思想に、中国・明代(1368-1644)の儒者・王陽明(1472-1529)から発した陽明学があります。王陽明が登場した当時の中国社会において、圧倒的な知識の体系として社会を席巻していたのは、数世紀前の宋代(960-1279)に生まれた程朱学でした。程朱学は、主に北宋の程兄弟と南宋の朱熹(1130-1200)によって大成された、極めて論理的で堅牢な体制哲学ですが、これは新儒教と呼べるもので、孔子由来の伝統的儒教とは知の体系が大きく異なります。もともと、孔子の時代から数多の時を経てアップデートされ続けていた儒教ですが、いつしか現実との強烈な乖離を生んでいました。当時の知識人たちは、ただひたすら古典を新たに装飾する解釈に傾倒し、物事の本質から逸脱していきました。それに伴い、民の心は惑い、国の秩序は乱れて収拾がつかなくなったのです。
なぜ私が改めて儒教に注目しているかと言えば、今の世界が全く同様の行き詰まりに陥っているからです。今の世界の知のあり方もまた、当時の程朱学と同様に装飾へと傾き、本質的な議論が薄れ、言葉によって問題がはぐらかされていく構造の中にあります。そうした知のあり方のもとで、人々の心は惑い、国の秩序、世界の秩序は乱れて収拾がつかなくなっています。私にとって、現代世界は明代の王陽明が登場する時期と共鳴しているように感じているのです。
陽明学が説く、知識への傾倒だけではない、実践を重んじる思想は、当時の硬直した中国社会においては危険視されるものでした。しかし、こうした陽明学への弾圧が強まる過程で、不思議な縁に導かれるように、その教えは海を渡り、日本へと到達します。正確にいつ伝来したかは定かではありませんが、少なくとも日本が戦国と呼ばれた動乱の時代。民の心が荒み、各地で武士たちが天下統一を掲げて、激しい覇権争いを繰り広げていた最中には、すでにその種子は蒔かれていました。やがて全国統一に王手をかけた武将の織田信長(1545-1582)、豊臣秀吉(1537-1598)を経て、徳川家康(1543-1616)によって江戸幕府が開かれたことを以って、事実上の統一国家の枠組みが完成します。ここで家康は、新たな体制を開くべく、統治の哲学を模索し始めます。
この時、当時最高の知性とうたわれた藤原惺窩(1561-1619)という人物に声がかかります。この藤原惺窩の逸話を読んでいると、陽明学の思想は彼の在命頃に入っていたことは確実です。少なくとも、16世紀後半-17世紀前半にかけて、王陽明の思想は日本に渡っていました。この時代には、すでに陽明学の基礎的な文献が日本に入っていたようで、一部のルートを通じて彼の手元にも届いていたと考えられます。つまり、江戸時代の幕開けの時点ですでに、そこから体制を支えることになる朱熹に由来する朱子学と、個の精神を極限まで高める王陽明に由来する陽明学という、日本の精神史に甚大な影響を及ぼす二つの知の奔流が完成していたのです。そして、江戸時代を通じて、陽明学に傾倒した陽明学派と呼ばれる武士たちが、表向きには朱子学的な強固な秩序の下で暮らしながら、密かに爪を研いでいたのです。彼らは単なる学徒ではなく、体制の原理そのものを疑い、己の良知に従って行動する、ある種の革命的な因子となっていきました。
そうした人物は幾人か出ているのですが、最も大きな歴史のうねりである幕末の明治維新もまた、その指導的役割を果たしたのは、陽明学を信奉する武士たちによって成し遂げられたものです。このように、陽明学とは常に体制哲学の根本を疑い、それに対して自己を正していくという性質を持っていますが、勘違いしてはならないのは、それが単なる過激な革命思想ではないということです。
実際、そうした直接的な行動を取らなかった陽明学派の人々も大勢います。ですが今回、私が焦点を当てたいのは、この陽明学が後世に伝わった背景にある、師と弟子の関係です。王陽明その人が多くの書籍を残したのではなく、陽明学が後代に伝わった背景には、一人の弟子の存在がありました。彼の名は徐愛(1487-1517)。彼は陽明の妹婿でもあり、最も早くから陽明の教えと生き方に傾倒した一番弟子でした。王陽明の哲学の発展を、最も近くで見届けていた若き秀才です。
陽明自身は、自らの教えを文字として固定化し、それが形骸化して後世に残ることを、他の賢人たちと同様に嫌いました。しかし徐愛は、師の言葉を一つひとつ丁寧に記録していきました。その意図は切実なものでした。時は動乱の明代。次々と陽明たちのように官職に就く者は、僻地へ飛ばされたり、移動を繰り返したりするため、いつでも陽明のそばで学べるとは限らなかったのです。そうなった時、自分たちのような意志の弱き者たちは、師と直接向き合いながら修行することはできない。だからこそ、少なくとも言葉を残すことによって、それを日々の修練の糧にするしかない。だから彼は「残すのだ」という論理で、自ら筆を執り、陽明の教えを書き溜めていったのです。
残念なことに、この徐愛は31歳という若さで、王陽明よりも早くこの世を去ってしまいます。しかし、彼の遺した意志は他の弟子たちに引き継がれ、結果的に陽明の教えは後に『伝習録』という一冊の書物として結実しました。この書が海を超えて日本へも流れ着き、現状を憂う志士たち、未来を本気で思う人々に強烈な感銘と感動を与え、実際に歴史を変える力となってきたのです。私もまた、この陽明学に傾倒する一人であり、『伝習録』を愛読書として、先人たちの熱量に日々触れ続けています。
師と弟子。その関係性において、もう一つ、語らねばならない物語があります。かつて、一人の無名の僧が、仏の教えを求めて日本から唐へと渡りました。当時、最先端の文明国であった唐を目指して海を渡ることは、まさに命がけの行為でした。この若き僧を乗せた船を含めて四隻の船で渡航を試みるも、そのうち二隻は嵐に飲まれて到達することすらできなかったのです。死の淵を越えて、なんとか大陸へ辿り着いた若き僧は、自らは使命を果たすために運命が味方したのだと感じ、その日から猛烈な勉学を始めます。
同じ時期、インドからやってきた僧に梵字を学び、当時の世界都市であった長安で、一、二を争う高僧としての評判が高かった人物の門を叩きます。当時、既にあやふやになりかけていた仏教をきちんと考察した優れた人物がいたのです。それが、恵果(746-805)です。そしてこの高僧は、日本から来た無名の若者を一目見るなり、「私はあなたが来るのを待っていた」と告げたのです。自らの命が尽きかけていることを悟っていた恵果は、寝る間も惜しんで、本来ならば修得に数十年を要する密教の奥義を、この若き異国の僧にすべて注ぎ込みました。当時の長安は、仏教を学びたいという若者が世界中から集まる場所であり、当然ながら中国の優秀な若き僧も溢れていました。そして密教は梵字で教えられますが、これはインドの人でさえマスターするのに十年以上の歳月がかかるものです。この無名の若き僧も、二十年の留学計画を申請して渡航していたことから、いかに当時の学問が生涯をかけたものだったかが伺えます。
幸いなことに、恵果という当時最先端の最も優れた師匠との出会いを果たしたこと、そして自らに「運がある」と確信した彼は、とにかく力を振り絞って学び続けます。おそらくその勉学のやり取りは、現代の私たちが考える大学の猛勉強といった次元ではなく、異様な熱量を帯びた「生きた学問」だったと考えられます。そして何と一年十ヶ月後、その師匠・恵果は若き僧に言います。「私は全てを教えた。一刻も早く日本へ帰り、これを人々に教えよ」と。そう言って師匠はぐったりとし、やがて入寂します。全てを他国から来た無名の僧に伝えたのだから、もう自分の役目は果たしたと言わんばかりに亡くなったのです。
この時点で、恵果の弟子は五、六千人はいたと言われていますが、この短期間でこの教えをマスターした者は他におらず、ましてや日本からの無名の僧がそれを成し遂げたことに、周囲は驚きを隠せませんでした。そしてこの僧は、弟子を代表して師の偉業を碑文として自ら書き、二十年の留学申請などどうでも良かったかのように、わずか二年後に日本へ戻ったのです。806年のことです。この僧の名を空海(774-835)と言います。日本に密教をもたらした人物、あるいはお遍路を拓いた人物など多面的な偉業で知られる歴史的人物です。
こうして長安を出発し、日本の九州大宰府に着いた僧は、自らが辿ってきた海を見て、そこへ出立する前は名もなき僧であった自分が、今は師の教えを全て授かり、こうして母国に立っているということに感激を覚えます。そこで呟いた言葉があります。
「虚しく往きて実ちて帰る」。
現代においても、多くの人々が故郷というものを離れ、決死の覚悟で他国の文化を学んだり、あるいは他国のコミュニティや社会に馴染もうとして苦労しています。そうした経験を持つ人は、多いでしょう。しかし、その孤独な苦闘、そして格闘――全く異なる文化圏に馴染めなかったり、理解できないことなどに自ら身を置き、なんとか独りで乗り切ってやろうとしていく決意と覚悟と行動こそが、まさに「虚しく往きて」と空海が残した言葉の原型にあります。そして、こうしたことは人の人生の質を大きく高め、生きるという行為が徐々に帯びてくる原動力になります。
そして気づけば、ある一点を超えれば、勉強も何でもそうですが、水が流れるようにスイスイと物事が進むということは、そうした経験を持っている人にとっては自明の事実です。それは他国のコミュニティや文化を学ぶ時も同じことで、ある一点を超えれば、すらすらと入ってくるものです。その一点を超えるまでに、果たしてどこまで本気で努力できるか。どこまで本気で食らいつくことができるか。こうした時に、やはり私は師匠の存在というものは、非常に重要なのではないかと考えているのです。
実際、私にもそうした師匠がおり、今も生きているその師は、この十年で私に大きく人生を変える影響を与え続けています。そういう意味で言うと、私たちのような弟子に相当する人々が、できることは一つしかありません。それは自分自身ができることをひたすら為し続けるということです。
ちょうど一年前から、Substackで記事を書き始め、とにかく色々な記事を書いてきましたが、それはまさに試行錯誤の連続で、一体どういうものを書けばいいのかもあまり自分では分かっていませんでした。とにかく毎日思索していることを日記のように書き綴るということを前提に、次々とリリースしてきましたが、それは自らの正確が熱中しやすく飽きっぽいため、特定のテーマに絞って書き続けることが不得意だからです。日々、考えていることは移り変わるのだから、むしろそれをオーガニック食材の産地直送のように、できるだけ新鮮な状態で読者に届けてみようと考えたのですが、それを大体一年近く続けてきた時に、やはり時代も大きく変わってきたのだから、自分のやり方も大きく変わっていかなければならないと強く感じ、単に日本というものを題材にして伝えるというよりは、むしろそうした文化や精神などを領有した上で、どのように他国の読者に感応させることができるだろうかということを真剣に考え出しました。それがちょうど一ヶ月前です。
こうして一つの模索として、一ヶ月ほど前から方針を大きく変えたのですが、それはまだ新たな思考錯誤、実験の始まりと言えるかもしれません。ですが一方で、この一年というものを振り返ってみると、異なる技量が身についたことを実感します。それは世界的な潮流として、この2025年に誰もが経験してきた、動画生成AIの爆発的な進歩です。
実際、この動画生成というサービス自体はこれまでもあったのですが、到底使えるレベルではありませんでした。しかし、今年の初め頃にOpenAIからSoraがリリースされたことを契機、一気に潮目が変わります。それ以降、各社がしのぎを削って爆発的な進捗を遂げ、あっという間に現在では、相当なクオリティの動画を誰でも作れるようになるという時代に達しました。実際、この一年の流れは、ある程度詳細に自分の中でも追いながら作ってきたのですが、今回、自分がこの一年やってきたことの集大成として、また、ちょうどShitsuraeを始めて一年経ったので、プロモーションビデオというものを自分なりに、そうした観点から作っていくということをしました。
この映像というメディアを誰でも扱えるようになったというのは、本当の革命だと思っています。それはなぜかと言うと、一年前にはできなかったことだからです。つまり、私がこの記事を書き始めた当時には全くできなかったことが、一年後には平然とできるようになっているということです。私たちは、既に誰もが未来に生きているのです。
そして他国の文化を学び、英語や、あるいは自国の言語に翻訳して伝えようとする経験がある方なら分かると思うのですが、文化圏というものを超えると、言語が変わってしまうので、必ず「翻訳不可能性」というものに突き当たります。この翻訳不可能性というのは、つまりは限界です。翻訳しても伝わらないエッセンスやニュアンスというものが、多く削ぎ落とされてしまうどこかに臨界点があり、それをどう捉えていくかということが多文化コミュニケーションの肝心となります。私の場合は、これはある程度もう仕方がないと割り切って、捨てる方に向かっていますが、そのテキストだけではどうしても言語的な問題で放棄しなければならない、その多文化の要素というものを、実は私は映像で提示するという、補完的な考え方を前から持っていました。
というのも、やはりテキストとは違ってビジュアル・コミュニケーションの観点で言えば、視覚的にそうした領域が見えてきますから、言葉では翻訳不可能性に阻まれるものなどを、表現として伝えるという余地が残されているからです。完全ではないにしても。ここで動画生成というものがAIによって出てきた今年の流れに注目し、技術を磨いてきたのですが、その直感は正しかったと思っています。
しかし、ここにも面白い問題があります。これがおそらく私にとってのAIとの付き合い方の最大のテーマになってくると思うのですが、それが言語構造の違いです。プログラミングなどを考えても分かると思いますが、基本言語は英語です。そして今も生成AIとは言っても、例えば動画生成や画像生成などのプロンプトを打ち込む時というのは、日本語も当然対応はしているのですが、精度で言うとやはり英語で打たなければならないことが多いのが実情です。これはやはり、AIというものが根本的に英語のルールで動いているということがあるからですが、これは何かと言えば主語を持っている、つまり「主語制言語(Subjective Language Mode)」における技術だから、ということが絶対的な前提にあると私は考えています。この主語制言語の技術的な作法に対して、日本語は「述語性言語(Predicative Language Mode)」の作法があり、そこから様々な文化が生まれてきました。余白や、侘び寂びや、禅など、そうした観点がなぜこのように受け入れられているかと言えば、実は言語が違うからということが私の確信です。中身ではありません。
こうしたことを考えていると、私にとってここから最大のテーマとなるのは、AIという主語制言語から生まれてきた技術に対して、述語制言語のrealmにおける文化表現、精神表現というものをどのように感応させるか、ということです。実際その可能性を考えて探りながら一年間取り組んできましたが、故に私の場合はAIの使い方という時に、この述語制言語が持つ特有の感覚や作法、様々な表現方法などを、まずは徹底的にAIに叩き込むことから始めます。というのも、AIはどうしても、そのプロンプトの指示に対して返してくる応答――それが画像であれ映像であれ音楽であれ文章であれ――主語制言語のrealmに基づいた表現方法で返してくるということを、私の感覚ではもう確認できているからです。
そして私の場合は、それを求めているのではなく、述語制言語に由来する文化感覚というものをどうやって出すかということを考えていますので、この一年間、様々なAIを触りながら、その可能性を探ってきました。今では、まだ意図の全てが表現できているわけではないものの、少しはできるようになっているんじゃないかと思っています。それが、今回のプロモーションビデオに凝縮されたものなので、いわばこの一年の集大成の発表と言えるかもしれません。
いつの時代も誰にとっても、良き師匠と出会うことによって、弟子はどんどん飛躍する。私自身もまさにそうですし、歴史の偉人たちもそうだったことを、今改めて強く感じるのです。先人たちが、言葉の壁、文化の壁を超えて命がけで繋いできた知のリレー。そのバトンを、今度は現代のテクノロジーという新たな器を用いて、私なりの「伝習録」として残していく。それが、今を生きる私たちの使命なのかもしれません。