根無し草の時代を生きるLiving as Weeds Without Roots
現代を生きる私たちは、身も魂も、まるで根無し草のように揺らぎ続けています。ある時は緩やかに、またある時は恐ろしいほど高速で、定まることのない時流の中を漂流している感覚。液状化した世界における最適解は、確かに漂流することにこそあるのでしょうが、漂流の生活を送る中にも得体の知れない不安は常に日常に迫ってきます。移動が物理的なものであれ、精神的なものであれ、あるいはその理由が仕事のため、家族のため、あるいは自らの意志であるにしても、その実、心の深層では何処かへ辿り着くことを渇望しながら、永遠の過渡期を生きているのが現代人の肖像に見えます。私たちの心が本当に求める「何処か」という名もなき所在。ここを探究することは、一つの救いをもたらすでしょう。
こうした「漂泊の生」において、一向に得体の知れない不安が解消されず、常に心の奥深くに沈潜しているように感じるのは、一体なぜなのか。本来、定住的な非移動よりも、漂泊を選ぶ方が、不安は軽減されるのではないかと思うものです。しかも現代のように極度に不安定な時代を生きるためには、明らかに漂泊によって自らの変化への適応力を磨き上げる方が現実的です。しかし、人間は残念ながら、そのように効率的に最適解であるからと言っても、それが腑に落ちるとは限らないもの。この腑に落ちない感覚が、人生を一年一年重ねるごとに高まっていき、やがて誰もが直面しなければならない危機となるのです。その時、あなたはどう振る舞い、どう生きる決意を為すか。
沈潜している不安の原因というよりも、そもそもなぜそれが生じており、あなた自身の内部深くを蝕むように感じられるのかということを思案することは、徐々に漂泊が標準化しつつある世界情勢を鑑みると、誰もが直面する問題となります。そして、すでに漂泊の生を人生において経験してきた人々は、まさにその先行的な課題を抱えながら、今日も力強く生きようとしているモデルだと言えます。問題は、各人がその不安がどこに由来するのかを突き止めることにあります。
不安というものは面白いもので、単純な不快ではない。そして不安とは、その蠢く所在を特定することによって、随分と心が楽になり、人生に活力が戻る反転作用を秘めています。逆に言えば、生きることにおいて日々不安を感じている人の方が、実は人生を活力を持って生き抜くことができる可能性を秘めているということです。一見すると、現代の見方では反対に思えるでしょうが、不安を感じない生き方など、所詮は不安を隠して振る舞っているに過ぎない。それは人間の生命において、極めて不自然だということです。そして不安は嫌悪されて排除されるものではなく、実は私たちの人生に活力を覚醒するトリガーです。
即ち、不安を感じていること自体は自然なことであり、何も否定すべきものではないということです。なぜならば、不安は根源的な問題の深部から派生しているため、そこを特定し、対策を練ることができるならば、まだまだ続く人生においてこれほど力強い武器はないからです。人生のいつ、この不安と対峙するか。これこそが、残りの長い人生を生きる最大のパートナーとなります。
私が考えるに、「不安の所在」というものは、決まって当事者の認識の誤認の積層に潜んでいます。つまり、不安は人生自体に潜んでいるわけではなく、あなたの認識自体に潜んでいるということです。
さらに、この不安の所在を特定し、解決策を日々の中で実践することによって、あなたに限らず、さらに多くの共通する不安を抱える人々に救いの可能性を差し伸べることができます。ゆえに、私は内省できる力を持つ人々こそ、どれだけ辛く、苦しくとも、日々あなた自身が抱えている不安と向き合う強い決意が必要に思えてならないのです。なぜならば、薄っぺらいヒューマニズム的な救済では世界は劣化するばかりですが、こうした徹底的な不安との直面と、そこからの解決に至る道を自らの経験において持つ者の存在は、その数が僅かであっても、ヒューマニズム的救済よりも遥かに多く、そして深く人々を真に救うことができるのです。
こうしたことを考慮して言えば、実は不安の所在について、現代人がかなり混乱している地点が明確に存在します。それは、人々が安易にアイデンティティという言葉を拠り所にして問題解決をはかることです。アイデンティティ・クライシスという潮流が先進国で蔓延したことを鑑みても分かりますが、一方で事実としてこの問題は解決されていない。なぜならば、問いの立脚点自体、つまり不安の所在自体の特定を誤って推進されたからです。その結果、本来アイデンティティ・クライシスという病を抱えていなかった健全な人々までもが感染し、一気に潮流として世界規模に高まったのです。この時、大勢の人々から不安の所在は消えています。ここを見極めることです。
実は、私たちが真に問うべきは、自己定義としてのアイデンティティではありません。むしろアイデンティティとは、定住し、生活環境が固定された者たちが抱く特有の悩みであり、漂流する人々にとっては、いささか頼りない概念に過ぎません。しかもそこに一つの大前提があります。それはアイデンティティの問題は近代以降の定住生活を営む人々にかなり限定されるということです。一方で、私は真に見つめるべきは、アイデンティティよりも遥かに深く、重たいもの、すなわち起源(オリジン)だと考えます。
そもそもアイデンティティは、時代に応じて変遷する脆弱な概念です。ゆえに、幾らアイデンティティに不安の所在を設定し、それを解決する対策を求めても、一向に問題は解決されず、むしろ極端な方向に帰結する運命を抱えています。アイデンティティの発見は、中毒性が高く、一度摂取すると中々やめることのできない薬物だからです。ここで「アイデンティティの発見」という言葉を使っていますが、これは文字通り、アイデンティティは幾らでも発見可能だということ、即ち捏造することも可能だということです。アイデンティティ・クライシスが蔓延した根拠は、この概念は無数に捏造し、再生産することが可能だからです。
ですが一方で、どれほど時代が移ろい、住む場所が変わり、社会的な立場が変容しようとも、決して言葉によって書き換えられることのない魂の始原があります。それが、起源です。
「漂流する生」に人生を照らし合わせている人であればあるほど、私は心の内に真の優しさを持っていると感じますが、それは人生の流転の激しさゆえに、自らの内側にある「変えられないもの」、その絶対的な核としての起源を希求しているからです。こうした人々にとって、アイデンティティが問題にならないのは、人生の流転を物理的・精神的に経験していることによって、アイデンティティというものが常に「移動すればズレる」ことを理解しているからです。ですが、だからと言って起源が瞬時に見えるわけではない。ここに、漂泊という生き方そのものを実践する人々の悩みの本源があります。
なぜ、起源が瞬時に見えないかと言えば、近代という単一的かつ一元的な管理システムからすれば、人々が起源の問題に向き合い、そこに対する解決策を思案すればするほど、システム自体の脆弱性が露呈する必然性を含有しているからです。ゆえに、近代というシステムは人々から起源の問題を取り上げて、システムにおいてのみ発露する付着物に過ぎないアイデンティティへと問題を偽装して摺り替え、人々が必ずそこに至る準備を行なっていました。こうして人々は起源の問題から、アイデンティティの問題へと歳月をかけてすり替えられていき、やがて起源の喪失をアイデンティティの喪失と誤認するようになり、その誤認が再生産され続けることによって、やがてアイデンティティ・クライシスという潮流が生まれたのです。この時、アイデンティティに気を取られるがあまり、本当の不安の源泉が起源自体にあった事実を忘却しており、誰も問うことはできませんでした。なぜならば、それはシステム内部での戯れに過ぎないからです。
ただし、ここに重要な前提があることも考慮しなければなりません。そもそも近代を軸に据えた場合、それ以前の漂泊と、それ以降の漂泊とでは、決定的に異なる層(レイヤー)が存在するということです。私は漂泊する人々が共通して直面している得体の知れない不安の所在は、必ず起源にあると見ていますが、一方でアイデンティティの所在へと擦り替えられている傾向を強く持つのは、むしろ定住する人々の側にあります。しかし前述の通り、この定住という生活者自体も、近代以前と以降ではレイヤーが異なります。このズレを認識した時、必ず不安を抱えている自分自身に迫ることを阻害している要素が見つかるはずです。これを内省によって突き止めることから、全ては始まります。大抵その障害は、何かに対する誤認に由来しています。
このレイヤーの違いは重大です。かつて先祖が暮らし、命を繋いできた同じ場所であっても、私たちの時代にその場所はないからです。場所というのは、地理的な土地のことではないからです。ゆえに、そもそも近代以前にアイデンティティの問題などないと断言できます。そこにあるのは、アイデンティティなき世界における起源という強烈に生々しい問題だったのですが、実は近代以前であれば、定住であろうが漂泊であろうが、人々は共通する深い次元で同質の問題を抱えていました。起源はアイデンティティとイコールではない。
現代の私たちの多くは、様々な事情で物理的な故郷を離れ、あるいは故郷自体を持たないことが一般化しつつある不安定な時代を生きていますが、そうは言っても、人間はどこで生きようが穏やかに、そして静かに人生を送りたいと願うものです。だが、それが現代では実現することが難しい。日本ならば、近代以前の江戸時代までの歴史において、ある一定の年齢を超えるか、あるいは後継者が自らの職務を全うする技量を備えた時を迎えると、「隠居」という風習がありました。隠居は外(社会)で活動する期間を終えて、静かに隠遁しながら余生を過ごす内省の風習でしたが、自らの意志で隠居を選ぶことも多々あり、これは特に僧侶や芸術家などに典型的に見られました。
ですが、現代を生きる私たちにとって、物理的な隠居は現実的ではありませんし、まさか今更1960年代的なヒッピー文化の焼き回しを謳歌できるものではない。人類が80億人を超えて、どこもかしこも騒々しい世界において、私たちはこの隠居の習俗を、自らの内的世界において実現する段階に入ったと感じます。
一体、あなたが抱えている不安の所在はどこにあるのか。それをアイデンティティと見るのか、起源と見るかによって、今後の人生は大きく分かれることでしょう。