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ここは、どこなのか?Where Are We?

現代の文明論的な行き詰まりは、言葉にし難い閉塞感として私たちの日常を覆っています。それは、私たち一人ひとりの喉元まで迫る、逃げ場のないどうしようもない切迫感・寂寞感です。現在、多くの人々が、「この先には何もないのではないか」という極度の不安から集団次元で不可能な現実から目を背けています。ゆえに、合言葉は「全員が目を背ければ、そこに現実はない」という見えない全体主義になっており、そのサークル内において集団逃避のために詭弁に詭弁を重ね、埋め尽くして日々をやり過ごしています。ですが、これこそがかつて繁栄を遂げるも、反転して衰亡を邁進する現在の日本の主因であることを、あえてお伝えします。この日本の状況と共に生きてきた私から見ても、どうも世界は似たような未来に踏み込み始めたように感じるのです。

一方で最大の問題は、既に集団逃避すら困難になりつつあるほど、人類は行き詰まりに達していることです。この軋みは、単なる個人のメンタルヘルスの不調に限定して考えていては見えてこず、私たちが信じてきたシステムそのものの構造自体、言い換えれば、私たちが信じてきた世界そのものだったです。ここを認められるかが、ターニングポイントとなります。

私はこの現象を、人々があまりに無批判に受け入れ、何度も何度も繰り返してきた「線形思考(Linear Thinking)」の限界点として定義しています。というよりも、線形思考は必ず後退の極致に至るのではないかという疑念すら持っています。そして残酷な通知は、私たちは限界に行き当たったのではない、既にこの限界の先に居るということです。だから右往左往しているのです。

近代以降、資本主義と進歩史観という無限の階段を登るようにプログラムされてきた人類は、より高く、より遠く、より多くを徹底することによって、未だ経験したことのない豊かなユートピアに到達できると妄信してきました。そのベクトルの先には常に「超越」が設定されており、そこに幸福なユートピアがあると信じて疑わなかったのです。しかし、実際にその階段を上り詰めた今、そこにはユートピアでもディストピアもなく、ただ残酷な真実があるだけに過ぎませんでした。そこは、生命を消滅させる世界だったのです。ディストピア論も結局はユートピア論と同根ですから、無意味です。

現代人は、構造的な階梯を登り詰めれば必ず意味に到達すると錯覚していますが、その頂上こそが「虚無」であるという致命的な欠陥、それも最初から組み込まれていた真実であることに気付いていません。頂上に到達するということは、過程の全てが完了することを意味します。特に線形思考において、完成とは終わること、すなわち死と同義です。私たちは満たされることを目指してひたすら上昇してきたし、第二次世界大戦以降はその速度を加速させてきました。ですが、皮肉なことに線形思考が到達した終着点は、最も空虚で、何もない場所だったのです。

現在、世界中で起きている人々のバーンアウトや、生きる気力の完全喪失は、個人の精神的な脆弱さにおいて考えるものではない。それは線形思考による文明全体が、登りつめた結果、何もない場所に到達してしまったという唯一の事実に直面して、集団的な酸欠状態を起こしているということです。そこには人間らしき形は無数に居るが、それらは心臓は動いていても、生きてはいない。そんなゾンビのような生存状態が蔓延しているのは、私たちが乗っている文明の根源自体が帰結する決まった終局だったのです。

つまり、もう線形思考の文明は終わっている。ただタイムラグがあり、私たち人間の一生程度ではそのタイムラグの全てを経験できないだけです。ゆえに、まだ終わっていないと信じることはあり得ず、もう終わっているという理解を徹底することから、次の思考が始まります。残念なことに、誰も彼もが線形思考という基盤自体を問うことができず、ここを前提に次を考えているため、全ての議論が何も語っていない、何もしていないという滑稽な茶番を世界規模で横行させる動因となっています。線形的世界における知識人など、所詮その程度だということです。

では、この絶望的な世界で、私たちが再び生命の呼吸を再開するための道はどこにあるのか。ここで私たちは論理回路を一時遮断し、叡智のアーカイブを開く必要があります。そこで浮かび上がるのが、老荘思想における「無(Wu)」と、仏教における「空(Śūnyatā)」、そしてそれらを日本において独自に編集し、統合した「うつろ(Utsuro)」という概念です。

多くの知識人は、これらを単なるニヒリズムとして片付けがちですが、それは何も分かっていません。かつて老子は「車輪が回るのは、その中心にあるハブが空洞だからである。器が使えるのは、その中が空っぽだからである」と説いていますが、彼の言う「無」とは、何もないことではなく、「作用するためのスペース(Utility of the Void)」を意味します。空虚であるからこそ、そこに動きが生まれ、万物が生み出される。つまり、「無」とは極めて動的な作用なのです。

一方で仏教が研磨研鑽してきた「空」は、ラディカルな自己の解体でした。私にとっては、自己の解体を近現代の「自己」として見てしまった時、「空」の本義は喪失すると見ており、実は仏教における「空」とは、自己が近現代の自己へ転落しようとする微細な動きを察知し、その歯止めが効かない動因を解体し続けようとしたことにあると見ています。

仏教では「私という固定的な実体など存在しない。すべては関係性の中に仮に現れているだけだ」というニュアンスで語られますが、この「私」の現出を「場(Field)」として捉えては誤り、「場所(Place, Basho)」として見抜かなければ、ここで言われている関係性の中の仮の姿が消滅してしまいます。

これは、私たちが必死に守ろうとしている自我を溶解させるための、認識の技術だと言い得ますが、実はそもそも自我などは近代以降の産物でしかなく、作られた捏造物でしかないのです。日本思想の特異性は、この「作用としての無(老子)」と「実体の否定(仏教)」を、頭の中で分離せて解釈することに甘んじるのではなく、身体的な感覚として統合した点にあります。

日本人は古来、神や霊性が降りてくる場所を「うつろ」と呼びました。それは、仏教的に自我を空っぽにし(執着を捨て)、老荘的にその空間を保持する(作用させる)ことで、外部からの「何か」を招き入れるという、高度な受容でした。その核にある技術を私は「無化」だと考えています。つまり、個人的な解釈では、老荘の「無」は鋭利な刃物のような論理思考を持つ古代中国において、思考自体の地盤替えを行ったものであり、仏教の「空」はより大陸的な「自己・自我・主体(さらには主語)」が生まれる初動のパンドラの箱を人類が開けてしまったことに対応して、「自己」の現出(つまり暴走)は、必ず人類を破滅に導くと察知し、瞬間的に重ねられる否定によってこの「自己」の発現を阻み続けるためのものだったのです。

いずれも大陸的な思考と概念によって完成されたものですが、島国の日本に入って歳月を重ねる内に、非大陸的な性格の日本人によって徐々にこれらが有していた内的格闘は、呆気なく解消される次元に至ります。それこそが「うつろ」、すなわち無化の技術です。これは暴走的自己を運命的に抱えてしまった大陸的な歴史に対して、その危機をも瞬時に無化するような異なる世界(異界)が存在したことを示唆しています。無論、現代日本人に「うつろ」など全くありませんが、、、。

同時多発化した精神疾患のパンデミックは、現代人がこの「うつろ」を恐れ、常に何かで埋めようとするという古代から繰り返してきた焼き回しを続けていることによって起きたことです。これが、大きな間違いなのです。ソーシャルメディアの通知、過剰な情報、自己啓発的な成長への強迫観念などの円環に取り込まれた現代人は、常時充填(Filling)のイデオロギーに取り憑かれ、自己という器を肯定・否定する次元で右往左往しており、無化することを知りません。ゆえに、知識や所有物やアイデンティティでギチギチに埋め尽くそうとしているわけですが、すると埋め尽くされながらも、実はバブル化しているアルゴリズムのカテゴライズによって誰もが振り分けられているため、必然的に極端な意見の対立として集団次元で現れます。ここが現在です。

しかし彼らは発言の立場がどこであれ、自分たちの正当性を疑う力をもう失っています。なぜならば、満タンになった器には、もう新しい水は一滴も入らないからです。車輪のハブをコンクリートで埋めれば、車輪は回りません。現代人の苦しみは、自己を実現しようと必死に中身を詰め込んだ結果、皮肉にも「生きるための作用的スペース」を完全に失ってしまったことによる窒息です。窒息している人々が、同じ界域の中で激しく闘争しているわけですから、極端化するカテゴライズされたイデオロギーに歯止めは効かないのは当然で、一方の意見を取り入れられないのも妥当です。なぜならば、一滴も入るスペースを作ってしまえば、それは「妥協」だと同胞(アルゴリズムに動員された同胞)に見做されてしまい、裏切り者として弾圧されるからです。

だからこそ、「埋める」のではなく、「浚渫(Dredging)」すること。日本語の「虚(Utsuro)」という漢字を、ネガティブな欠落として捉えてはいけません。なぜならば、「うつろ」は可能が充満している「Plenum(充溢体)」だからです。木の洞(うろ)を想像してください。外側から見ればそれは欠損や傷に見えるかもしれない。しかし、その空洞があるからこそ、そこは小動物の巣になり、風雨をしのぐ聖域となり、時には神が宿る依代(ヨリシロ)となります。

「うつろ」とは、世界と接続するための道なのです。私たちが恐れている虚無感とは、実はまだ何も入っていない純粋な容量がそこにあるというサインに過ぎません。それをゴミのような情報や薄っぺらい意味で埋めるから問題が生じるのであって、その何もない空間を、何もないままに強烈に保持し続けること。それこそが、日本的知性が到達した強さの正体です。なぜならば、その「何もない」とは現代的な意味のものではなく、充溢の状態を語っているからです、

最後に、一つのイメージを提示しましょう。私たちは今、深い谷にかかった一本の橋の上にいます。この橋は線形思考という名の橋です。現代人は、この橋を渡りきった向こう岸にゴールがあると信じて、押し合いへし合いしながら進もうとしています。しかし、先述した通り、彼らが向こう岸など存在しません。橋は永遠に続くように倒錯してしまうからですが、実は自分たちがもうゴールを超えていることに気付いていない。だからこそ、みんな橋の上で立ち往生し、進むことも戻ることもできず、疲弊して足を引っ張り合っているのです。

ここでの生存戦略は、橋を渡りきることではない。私の提案は、自ら橋を崩落させ、谷底へ落ちることです。思想的に言えば、あらゆる概念を「超越」することの全否定で、深淵な底に「潜る(Dive)」ということです。「もっと成長しなければ」「もっと上にいかなければ」という線形的な超越なる強迫観念の足場を、自ら外す時、必然的に線形思考が幻想だったことを理解し、「潜る」ことにこそ真理があると気づきます。

それは意識と無意識などの次元でさえない、それらが分離する前の、深い「うつろ」の底です。自己という幻想の地盤を崩し、その深淵へと潜る時、「無」や「空」の歴史的な内的格闘を遡及する形で再体験できるでしょう。それは、これまでの価値観からすれば「転落」に見えるかもしれませんが全く逆です。その深淵な底、何もないと思い続けている「うつろ」の中にこそ、真の生命のリアリティがあり、そこが疎外された現実性ではない、現実の界域です。

このように考えると、人類は一体いつから停滞(後退)しているのだと情けなくなる思いに絶望するのですが、だからこそ問題を集団へと向けて集団に埋没してはならないことを強く感じます。独りで生きる覚悟を持つ者のみが先へ進める。それだけは、歴史上の賢人たちが唯一伝えてきた真実なのですから。