未来に追いつけない焦燥と文明の液状化The Anxiety of Never Catching the Future and a Liquefying Civilization
今、あなたがもし、どれだけ走っても未来に追いつけないような焦燥感や、世界そのものが液状化していくような眩暈を感じているのなら、それはあなたの感覚が狂っているのではなく、あなたが依存している文明のOS(オペレーティングシステム)そのものが悲鳴を上げている証拠です。今回、閉塞して全てから逃れることができない、そのようように感じる現在の時空に対して、私は日本文化の中に眠っているある概念を、これまでの常識を覆す形で提案します。その概念は、「間(Ma)」です。
一見すると使い古されたかに思える「間」の概念ですが、それはほとんど美学的な属性において語られたものに過ぎず、美学的な「間」がこの概念が有する本質なのではありません。美学的な要素では、本記事で見ていく「媚び諂い」という日本では否定的に用いられる概念において考察可能です。これは、近代以降の世界なるものを作る原動力となってきた西洋と日本の双方関係において既に失敗しているからです。そして深刻な問題は、この双方向の浅薄な関係の偽装が、今も多様な形で継続し、「相互理解」として拡散されていることです。ここを批判することは容易いが、否定した時にどのような境地が表れるのかを考えた時、新たな可能性が見えてきます。
確かに、「間」を美学的な観点から鑑賞することは可能ですし、実際に芸術分野などで頻繁に語られる「間」には、そうした傾向が強調されてきました。それは観光ガイド的な文脈において間違いではありませんし、大半の人々はそれで満足するでしょうが、本当にこの世界の先へ到達しようとする人々は、こうした態度ばかりな現実に辟易していることでしょう。なぜならば、その筆頭格が私自身だからです。こうした態度を継続していると、永遠にこの概念が有する「真髄」に触れたとは言えない。なぜなら「間」とは、簡単に言語化して提示できるような情緒的な空間演出の技術ではないからです。つまり、「間」を演出などの計算可能だと考えている時点で、根本的にこの概念を理解していないということです。
そこで今回はこの「間」という概念を、本来どこに据えて理解すべきであったのか、その道筋を提示します。
まず、前提として思案すべきことがあります。それは、現代文明を駆動しているOS自体には、一つの根本的で致命的なバグが最初から存在することです。そのバグとは、「時間は過去から未来へと一直線に流れ、積み重なるものである」という「線形時間(Linear Time)」への盲信です。私たちは幾らこの線形時間を批判したとしても、どうしても無意識のうちに「昨日より今日」「今日より明日」「10代より20代、20代より30代」というように、時間は常に過去から累積し、成長し続けるものであるという呪縛の中に幽閉されています。不思議なことに、時空は多元的であるにも関わらず、この思考が芽生えるコードが人類規模で一元的に配備されてしまっているのです。
しかも、この「成長」という虚構のドグマの中で、私たちは永遠に満たされることのない「次」を追い求めて疲弊しています。現代の行き詰まった世界システムの構造的な制度疲労は、人々の極端な精神疲労として表れて大問題となっていますが、そのシステム内部に取り込まれた人々は、もはや逃げ場を失い、「Post-」という概念を多用せざるを得なくなるまでに追い込まれています。「ポスト資本主義」「ポスト真実」「ポスト・ヒューマン」などの陳腐な文言は、何かを語っているようで何も語っていない。実は「Post-」という言葉で装飾しなければ、未来を描いた振りができないまでに知的荒廃したことの証左でもあります。これは知的な営みではなく、虚妄の粉飾状態であり、どう考えても健全な状態ではありません。なぜならば、この文言に踊らされた人々は、幻滅の羅列を繰り返し、より一層、惑うだけだからです。つまりこうした言説は、何も人々のために寄与していない。単なる知識人と呼ばれる人々の戯れに過ぎないということです。
皮肉なことに、「Post-」という言葉が大量生産され、それを冠すれば何か新しい視座を獲得したように見える装飾性が獲得されるほど、実は「時間は過去から未来へ一直線である」という線形的世界の認識は強化され、離脱が困難になっていくという逆作用が起きます。激しく批判される資本主義も、アンチエイジングへの執着も、ドーパミン駆動の快楽消費も、すべてはこの「線形ベクトル」を前提に動いていることに変わりはないのです。
確かにかつては、そうしたベクトル自体が社会を前進させているという実感がありました。しかし、この30年でデジタル世界における速度が極限まで加速し、オンラインとオフラインの境界が消失し始めていた結果、私たちは従来の線形的な時空感覚に、生理的な吐き気を催すほどの強烈な違和感を覚え始めています。そして冷酷な事実は、いかに人々が装飾で誤魔化した振りをしても、冷静にシステムの「外」から観察すれば、線形的世界というOS自体は微動だにしていないことです。つまり、何も変わっていない。では、なぜこのような虚妄が平然と偽装され続けてしまうのか。
まず、幽閉された内部での情報の積層速度が超高速かつ大容量になったことで、人々は既存の時間や空間を既に脱出したと思い込んだり、あるいは「Post-」を目指して自分たちは進んでいるという嘘の実感を持つことが可能になったことが考えられます。そもそも、進んでいる、あるいは後退しているという実感すら、いずれにせよ「線形のルール」が崩れていないことの証左です。つまり本当の問題は、実は地盤自体が揺さぶれておらず、表面で戯れをやっているに過ぎないことです。おそらく、あまりにも超高速かつ大容量の時代が急速に進展したことで、従来の世界には対応できていた知識人の頭脳が、全くアップデートされないまま新時代の状況を論じてしまったことで起きた混乱でしょう。つまり、淘汰されるべき人々が淘汰されずに残っていることに問題の核心があります。
もう少しフォローするならば、ある意味で線形的世界という土台の上で、現在は「液状化」現象を起こしていると言えます。圧縮された時間が、人々の日常に毎秒毎秒うごめいていることで、完全に実像が見えなくなってしまった。典型的なのは、最近Shitsuraeで頻繁に主張している「人を見る」ことの喪失です。自分自身を喪失したことによって、他人を見ることができなくなった人々が、焦りに焦って原因の全てを社会・政府・世界に押し付けているのが現在なのです。なぜ、誰もまず自分自身を見ないのか。
ゆえに多くの人々が暗闇ではないにもかかわらず、大容量の情報過多という洪水によって、暗闇だと自分自身で偽装して錯覚し、混乱した演技をすることが肯定的に蔓延しています。こうした根深い問題ほど、根源自体を問い、そこの地盤替えを考えない限り、旧来の線形モデルにしがみつきながら、崩れゆく吊り橋の上を全速力で走り続けようとするだけです。その行く先に「Post-」など存在しません。そもそも知識人が頭で処理した程度の未来など、たかが知れています。では一体、そこには何が待っているのか。
これは今後の記事で取り上げる予定の仏教の概念と関わります。それが「虚無」です。
しかし、この虚無の理解は未だに進んだとは言い難い。なぜならば、一神教の世界観における「God」の視点が、天上の一点から世界を照射する「点(Point)」の座標を持つのに対し、日本の世界観にはそうした絶対座標としての「点」が置かれていないからです。
日本の哲学者・西田幾多郎が「場所」論で説いたことは、日本における実存は「点」ではなく、それを包み込む「場所(Basho)」にあるということです。そして重要なことは、この「場所」は「場(Field)」ではない。「主語」と「客語」が対立する二元論の言語構造では、神や自己という「点」を確立する視座に立ちやすい一方で、日本の言語構造や思想は、主客が分離する状態など根源的に有していない「非分離」の状態にあり、「場所」そのものを認識の基盤としています。
もちろん、この「場所の哲学」も「非分離」も、一朝一夕に理解できるものではなく、これだけで数冊の本が書けるほど深淵なテーマです。これについては改めて別の機会に詳細を譲りますが、現段階で仮に読者がイメージするならば、スポットライト(点)で暗闇の一点を照らし出す世界があるとすれば、もう一方には、淡い月明かりのように全体(場所)がぼんやりと浮かび上がっている和歌的な世界がある、と言えるかもしれません。その中では、主役も脇役も境界が溶け合っています。
しかし、ここでこそ問い直す意義がある。それは西洋と日本の関係における歴史的な失態を認め、双方向にどのように「理解」するかを新たな次元で創出することです。これまでの日本文化の発信は、実は日本の内側から日本について提示したのではなく、常に外からの眼差し——いわゆる「オリエンタリズム」に応える視座が前提に固着していました。オリエンタリズムの文脈での「神秘的」「静寂」「エキゾチック」といったイメージに対して、本来は相互理解の次元をそのような中身のないものにしてはならないと、本質的な日本を提示しなければならなかった。ですが日本の側もそのイメージに応える形で文化をパッケージ化し、それを癒しとして提供してしまった反省があります。しかも、このオリエンタリズム型の日本文化を、今では日本の内側でも日本文化だと思い込んでいる状況があります。
その結果、日本文化が本来持っていた現代文明のOSを書き換える「構造的な変革力」は骨抜きになり、単なる鑑賞物へと成り下がって大量消費されながら今日に至ります。ある意味では、この時の「相互理解」の偽装による双方の迎合が起きたことにより、私たちは現代世界システムを超える絶好の機会を自らの手で喪失させてきたのです。これが「媚び諂い」です。つまり、どちらが問題なのではなく、共犯関係にあったということ、そこを前提に現代の「相互理解」は語られているため、これほど信用できない関係はないということです。
仮に明治以降にこうした問題を自覚し、真摯に双方向の理解を別の次元でアップデートしていたならば、今日のように近代の世界の枠組みが転換期を迎える中、ここまで人類規模で迷走する必要はなかったはずです。そして西洋と東洋の相互理解が表層的なものに留まり、常に言葉にできない違和感が蓄積されてきた原因は、この文化が本質的に持っている「機能」(これは実際的な機能で、むしろ文化資本を想定)を「情緒」にすり替えて全て処分してしまった点にあります。何より最大の問題は、未だに明治以降と同じ態度を異なる形で双方が続けて満足していることです。ここを脱却しない限り、西洋と東洋がどのように一つの世界を創造するかを議論する以前の問題です。
最初のグローバリゼーションが完了した「Post-」の世界において、私たちは予測可能な未来などどこにも存在しないという多くの言説に直面しています。しかし、これも線形的世界自体を問えてはおらず、線形的世界の中で液状化し、圧縮された状態が日常化したがゆえに、実像が見えなくなっただけのことです。この危機的状況、つまり「このままでは先がない」という閉塞感に対し、知識人が主張する「減速(Slow down)」や「癒やし」、反対に「加速」は何の解決にもなりません。そもそも速度を前提とする発想自体、線形世界のスピード調整に過ぎず、パラダイムを変えてはいない。これはこれまで同様、将来世代へ負債を先延ばしにするための現代世代の詭弁、責任逃れです。この態度が人類規模で横行しています。
ここで日本の叡智である「間」を再定義し、一つの突破口として提示することの可能性が開かれてくるのです。これは単なる美的空間や休息の提案ではありません。「間」という文化を洞察することで、全く異なる世界が開かれる、その入り口として「間」が有する機能を提示したいのです。
私の解釈において「間」とは、「線形的世界(Linear World)と非線形的世界(Non-Linear World)を邂逅させるワームホール」です。
二つの異なる世界を短絡、あるいは接続する回路ですが、要点は二つの世界が分離していない状態で存在していることです。それこそが「日本概念の非分離」の姿で「場所」の本質です。西洋世界から生み出された物理学においては、ワームホールは離れた二点を繋ぐと捉えられますが、「間」はそこに広がる解明されない空白地帯を指しているのではなく、それ自体が充溢の界域となります。つまり、そこに「点」はない。
それは因果律に縛られた演技をし続けている「現在の私」と、時間軸を無化した「未来の私」をダイレクトに「場所」において接続する回路として機能します。注意が要されるのは、ここで「時間軸を超越する」のではなく、「時間軸を無化する」ということです。この点は、未だに日本側の禅の文脈でも誤ったままですが、「超越」概念を用いた時点で既に禅ではなくなっていることは、禅の内側でも見過ごされがちです。ここにおいて時間は「過去から積み上がる」ものではなく、「未来から逆流してくる」ものへと変化しますが、ここでも「逆流」ではなく「順流」です。しかもそれは直線的な線形ではなく、螺旋構造を描くように双方向にうごめく非線形なダイナミズムとなります。
「過去の私」→「現在の私」→「未来の私」というように線形で接続されているのではなく、「私」において時間は無化されており、そもそも「線形の接続」自体が存在しないという認識から全ては始まります。この「私」とは「場所」において顕現しますから、時空を無化することができます。現代的に言い換えれば、「努力して未来を勝ち取る(Push)」という発想ではなく、「未来の自分が現在の自分を強烈な重力で引き寄せている(Pull)」という発想の転換とも言え、これこそが古来に孔子が「天命」と呼んだメカニズムの正体です。つまり、私たちは最初から「非ニュートン的な重力」に引っ張られているということです。
では、具体的にこの「間」という新たな次元の概念を、どのように私たちの人生に実装(Install)すべきか。それをいきなり精神論で解釈するよりも、先に物理的・生物学的なエンジニアリングとして理解する必要があります。なぜなら、日本において思想とは、脳内で完結する論理パズルではなく、常に『身体的実際行為』を伴う現象だからです。身体というハードウェアを整えなければ、OSは書き換わったとは言えません。多くの人は身体を物質の塊だと思っていますが、生命現象の本質は物質そのものではなく、物質と物質の「間」によって駆動しているからです。
例えば、細胞同士が創る「間」があります。実際、神経細胞(ニューロン)は物理的には接触せず、必ず「シナプス間隙」というナノレベルの「間」を通して情報伝達をします。情報はこの「間」があるからこそ、電気信号から化学物質へと姿を変え、伝達することが可能なのです。しかし、現代人の身体は過剰な代謝産物(アミロイドβや酸化タンパク質)によってこの「間」がヘドロ化しており、その結果、未来からの信号である「直感」を受信できない状態に陥っています。これはノイズで埋まったラジオを用いては、微細な放送を受信できないのと同じ原理です。だからこそ、ここで「ファスティング(断食)」を単なるダイエット法としてではなく、生存戦略として取り上げる文脈が必要となります。空腹とは欠乏ではありません。この「間」の汚れを洗浄し、本来私たちが持っている信号伝達のレイテンシー(遅延)を極限までゼロに近づける「システム・クリーニング」がファスティングの機能です。それによって、直感という霊的な能力を自然状態にまで回復させ、未来からの信号を掴み取ることができます。
次に、酵素の「間」です。タンパク質や酵素が機能するのは、未だ全貌が解明されていない複雑な立体構造の中に「ポケット(活性中心)」という物理的な「間」を持っているからです。つまり、生命とは物質そのものではなく、このミクロな「間」で起きる化学反応のことだとも言えます。「間」がなければ、反応は起きません。そして「間」は常に「場所」において創られます。この場合、代謝ノイズとなる過食や毒素を排除し、生命が持つ「間」の状態を維持することでのみ、生命力という名のエネルギー効率は高められます。仏教の僧侶が修行と称して断食などに励むのは、このノイズを生み出す根本原因をリセットするためです。
さらに遺伝子レベルの「間」もあります。飢餓状態という欠乏を「間」として身体に入力すると、身体は「mTOR」と呼ばれる成長・分裂モードを停止し、「AMPK」や「サーチュイン(修復・長寿モード)」を起動させます。これは遺伝子レベルで「老いて死ぬ線形時間」から「修復し生き続ける非線形時間」へとワープするスイッチなのです。ここにも、トリガーとしての「間」が不可欠となります。ここで示したいことは、いわゆる主体意識などの作用ではないところにおいてこそ、「場所」から生まれる「間」によって異なる世界へスイッチングが行われるということです。仏教の僧侶が「煩悩」を消すことに取り組んできたのは、このためです。スイッチングの境地に、主体意識などないということです。
これは空間においても適用可能です。これまでの美学的な「間」では、居住空間において「機能を持たせない余白」を「間」として意図的に把握することが考えられてきましたが、発想が逆です。「間」に機能(文化資本の振動)が充溢しているからこそ、他の空間や配置される物に機能が生まれるのです。重要なことですが、これは現代のミニマリズムに見られる「物を少なくして豊かに」という中身のない提唱とは異なります。部屋にある物のすべては「過去の決断の集積」と捉えられますから、それらはあなたを線形時間(過去)へ繋ぎ止めるアンカー(錨)となっています。実際、誰もが大切にしている物を捨てられない経験を持つでしょうが、これらは全て「過去の決断の集積」であって、未来を創造するためには必要ではない。この過去の集積を捨て去る覚悟と決意こそが、未来へ加速するために不可欠です。
こうすることで、かつての日本の床の間がそうであったように、機能が充溢する絶対的な「間」が生まれます。その地帯に「思考(過去のデータ)」ではなく、「啓示(未来のデータ)」を通道させる時、私たちは特定の居住空間において異なる世界の邂逅に立ち会う機会を得るでしょう。つまり、「間」の文化本質とは「時空を無化する場所」ということです。そしてそれは私たちの主体が創るのではない、場所が創るのです。
この場所において、線形的世界と非線形的世界が邂逅し、溶解するどちらとも言えない状態が「間」です。ですが、量子力学の世界で観察者の存在が量子の振る舞いを決めることが知られているように、私たち現代人という線形的世界を前提とする観察者では、この「間」を肯定的・否定的を問わず、欠如・空白などとネガティブに見做してしまいます。
私は周囲の友人に対して、頻繁に「頭を使うな、腹で考えろ」と言います。「頭で考える」とは、脳(大脳新皮質)に蓄積された「過去のデータ」に基づく判断を行うことであり、これはAIの確率論的な処理と同様です。そしてこの場合、人間はAIには絶対に勝てない。しかし人間には本来、脳を使わない思考方法が配備されています。それが、丹田(臍から指を二、三本分下の位置)で発露する「直感」であり、啓示という「未来のデータ」です。これはメタファーではありません。人間の身体構造上、意識を頭部(脳)に置くと重心が高くなり不安定になりますが、意識を丹田(下腹部)に落とすと物理的に重心が安定し、外部からの衝撃(ノイズ)に動じなくなる物理法則の応用です。
だからこそ、脳を使わず、丹田で決断する。これによって未来の最短ルートが見え、自分の天命に基づいた生き方が可能になるのです。脳を使った瞬間、過去のデータ(恐怖や経験)によって本来の判断が揺らぎ、未来へ進む速度は低下、最悪の場合は未来の可能性を放棄します。現代人の多くは、とにかく焦って結果を早く求めようとする悪い癖がありますが、脳の処理能力を信奉し過ぎているからです。これこそが線形世界に取り込まれている証拠となります。
ここで主張したいことは、必要なのは「能動的な待機(Active Wait)」だということです。つまり、待機(Wait)とは何もせずに待つのではなく、未来の啓示を受けた上でビジョンを描き、その上で来る準備を徹底的に為すということです。孔子が語っていることは、非常にシンプルです。
前述の量子力学における「観測問題」が示すように、観測者が対象を観測し続けることでしか状態が確定しない世界において、私たちが為すべきことは、ただ静かにその「間」を観測し続けることしかありません。磁力(自力)を使って無理に制御しようとすれば、向こう側の世界の重力は遮断されます。これが要するに主体意識の弊害です。ですが、自力を捨て、制御を手放した瞬間、向こう側の世界から重力が働き、あなたは導かれ始めます。これこそが、「間」という概念を単なる美学として消費するのではなく、非常に深い次元で、物理的かつ生物学的な機能として捉え直した時に初めて見える、生存のためのプロトコルなのです。