日本的身体的主権Japanese Bodily Sovereignty
Japanese Bodily Sovereignty
冬を目前に控えた今、私たちはかつてないほどの警戒レベルを引き上げ、来るべき季節を迎える必要があります。なぜならば、2025年を振り返ると、激しい気候変動の一年を集約するかのような、想定外の事態が頻発する冬が到来する可能性は否定できないからです。気候を個人が動かすことはできませんが、だからこそこれまで以上に慎重に、自らの健康管理、とりわけ「気分の調整」という極めて繊細ながらも現代社会で重要な課題において、日々の準備を行う必要があるのです。これは前時代的な単に健康維持を目的としたものではなく、人類一人ひとりに課された、喫緊の危機管理と言えるでしょう。この生存能力の向上と、試行錯誤は、激動の2030年代を生き抜く基本となります。
そんな中、私が今回のテーマとして深く掘り下げたいのは、日本列島で暮らしてきた人々が「冬」という季節との間に抱えてきた相性の難しさを、歴史的に蓄積された「生活の知恵」という名の生存戦略で調整してきたことについてです。
世界的に見れば、日本のライフスタイルはしばしば「Zen」や「Marie Kondo(片付け)」といった、美的・精神的なミニマリズムの文脈で語られ、今も消費されがちです。しかし、パンデミック以前の比較的平穏な時代ならまだしも、現在、そして今後を見据えた時、私はその見方を真っ向から否定します。先人たちが築き上げてきた所作の正体は、情緒的な美意識などではなく、日本という環境において、「遺伝的・地理的条件を調整するためのバイオ・エンジニアリング」そのものだったからです。ではその目的はどこにあったのか?その失われた目的を、今回の記事では探究していきます。
そのためにも、まずは現代人が直面しているリスクの正体を、可能な限り高い解像度で捉える必要があります。その代表格が、主に太陽光から生成される「ビタミンD」の慢性的な欠乏です。昨今、うつ病やメンタル不全は個人の問題を凌駕し、人類規模のリスクとして顕在化していますが、その隠れた主因としてビタミンD不足は医学的にも注目されてきました。ビタミンDは単なる栄養素ではなく、脳内のセロトニン調整や免疫機能の司令塔として働く、実質的な「ステロイドホルモン」に近い物質だからです。
ここで、この物質の「スペック」を正確に把握しておく必要があります。一口にビタミンDと言っても、そこには決定的な違いが存在するからです。大きく分けて、キノコ類など植物性由来の「ビタミンD2(エルゴカルシフェロール)」と、魚類の動物性由来、および日光浴によって皮膚で生成される「ビタミンD3(コレカルシフェロール)」の二種類があります。化学構造の違いに過ぎないように見えますが、私たち人間という生物のシステムにおいて、植物性由来のD2よりも動物性由来の「D3」の方が圧倒的に血中濃度の維持効率が高く、生体利用率に優れているという臨床データが主流です。つまり、ヒトのOSにとってのネイティブ形式は「D3」であり、それ以外の形式では変換ロスが生じる可能性があります。
視点を変えれば、個々に異なる身体、環境などを踏まえたビタミンD3の最適な確保と活用こそが、現代社会を生き抜くための「盾」となっていると言えます。つまり、私はD3の摂取意識を見ることによって、その人物が現代社会をどのように捉えているか、激動の時代を迎える準備ができているか否かの指標になるのではないかと考えています。
本来、私たち人間は日常的に紫外線を浴びることで、皮膚にあるコレステロールの一種を材料にビタミンDを生成するように設計されています。しかし、この植物の「光合成」のようなプロセスは、現代において深刻なバグを起こしています。必要な日光浴の時間は、緯度や季節、肌の露出度によって大きく異なります。例えば、夏の正午であれば数分から10分程度で十分な量が生成されますが、冬の東京で同量を生成しようとすれば、顔と手だけを出した状態で直射日光を1時間近く浴び続けなければならない場合もあります。さらに致命的なのは、ビタミンD生成に必要なUV-B(紫外線B波)は、ガラスを透過しないことです。つまり、暖房の効いた明るい室内で窓越しに日向ぼっこをしても、ビタミンDは生成されないのです。現代の都市生活者の大半が該当する屋内型ライフスタイルにおいて、必要量を自然生成だけで確保することは、物理的に極めて不可能なフェーズに突入している上、しかも、そうした自然生成量も現代を生き抜くためには十分とは言えません。
ここでさらに見ておきたいのが、日本列島で暮らしてきた人々に見られる遺伝的な傾向です。実は、「ビタミンD受容体(VDR)」や、ビタミンDを運搬・代謝する遺伝子には、集団ごとに分布の違いがあり、日本で調べられた研究では「効きにくい(効率が悪い)」型を持つ人の割合が比較的高いことが示唆されています。これは、太陽光から合成したビタミンDを体内で有効活用するシステムにおいて、構造的な個人差があることを意味します。しかし、ここに不可解なパラドックスが存在します。日本列島は南北に細長い形をしていますから、どこに居住するかで気候条件は大きく変わります。
特に冬季の日照時間が極端に短く、厚い雪雲に長期的に閉ざされる東北や北陸、日本海側の地域で、人々は何千年もの歴史を生き抜いてきた事実があります。注目すべき点として、こうした地域には、縄文時代に由来する古い遺伝的特徴を比較的色濃く残す人々が多いとされることです(イコールで縄文人ということではありません)。日照が豊かで温暖な太平洋側や九州などの西日本とは異なり、半年近くも十分な太陽光を獲得できない過酷な環境下で、なぜ「ビタミンD効率の悪いハードウェア」を持つ人々が生存し得たのか。
ここで私が提唱したい概念が、日本の「丁寧な暮らし」の再定義です。現代において「丁寧に生きる」という言葉は、単なる作法や美意識、あるいは道徳的なスローガンとして消費されがちです。しかし、これを先人たちが無意識に行ってきた「バイオハック」の視点から捉え直すと、その整合性に戦慄すら覚えます。彼らの生活習慣は、獲得効率の悪い身体(ハードウェア)を熟知した上で、外部からの補完(ソフトウェア)で強制的に最適化するための、極めて精密な演算処理だったのです。その最たる例が、日本の食文化です。まず、魚食です。鮭やサンマ、イワシといった脂の乗った魚は、自然界でも稀有なビタミンD3の主要な供給源です。
個人的に興味を惹きつけられることは、この鮭・サンマが日本海側の東北・北海道などで太古から漁獲量が多い魚であるということです。現在は気候変動と自然自体が大きく変化してしまったため、これら地域でも鮭・サンマの漁獲量は激減していますが、D3含有量の高いこれらの魚は縄文時代から同地域の人々の主な栄養源でした。縄文時代より東北の人々が鮭を主要な食糧として多様に摂取していた事実は、厳しい冬期の気候条件下で暮らす彼らにとって、理に適っていたことが分かります。加えて、ただ食糧として摂取するだけではなく、日本ではこれらを骨まで余すところなく食べるなどの習俗もあったことは見逃せません。
二ヶ月前に独自の鮭文化を有する新潟県村上市を来訪した際、鮭文化の理解を深めましたが、この地域では「鮭=神」として奉祀されることもあり、一匹の鮭から100種類以上もの食を生み出し、一つの捨てるところはありません。これは東北日本海側地域の人々が、縄文時代から連なる遺伝的背景において、生活の知恵として鮭を主食に摂取することにより、冬期に欠如するD3の補填を行うライフスタイルを構築し、代々子孫に伝えていたことを示します。
このように先人は、自らの遺伝的弱点に対して、自然環境を活用した知恵で補ってきましたが、さらに驚くべきは「干物」や「天日干し」の技術です。キクラゲや椎茸などのキノコ類に含まれるエルゴステロールという成分は、紫外線に当たることでビタミンD2へと化学変化を起こすからです。わざわざ手間をかけて食材を太陽に晒す行為は、単に保存性を高めるだけでなく、食材自体を「食べる太陽サプリメント」へと変質させる古代人の化学実験に他なりません。そして特筆すべきは「発酵食品」と「骨ごとの摂取」の組み合わせです。
ビタミンDは脂溶性であるため、単独では吸収されにくい性質を持ちます。しかし、味噌や漬物、納豆といった日本の発酵食で腸内環境を整え、胆汁の分泌を促すことで、その吸収率は飛躍的に向上します。特に「納豆」に豊富に含まれるビタミンK2は、ビタミンD3と相乗効果を発揮する重要なパートナーであり、ビタミンDが血中に取り込んだカルシウムを、血管への沈着(動脈硬化)ではなく、正しく「骨」へと誘導する役割を果たします。小魚を煮干しにして骨ごと食べ、発酵食品の納豆や味噌汁と共に摂取する伝統的な日本の朝食は、単なるミニマリズム的な食事法なのではなく、実は日光不足による骨の脆弱化と免疫低下を防ぐための、完璧な栄養学的プロトコルとして昔から高度に完成されていたのです。それは「生存のため」です。
つまり、先人たちの「丁寧な暮らし」とは、限られたリソースと極限の環境下で、自身の生命維持機能を正常化させるための高度な生存戦略であり、現代人の美意識とは根本的に異なります。私は今こそ美意識という形ではなく、本質的な人間が有する生存戦略として、あらゆる日本文化の概念を再定義・再構築する時代が到来したと捉えています。なぜならば、美意識を前提にしてきた日本文化の消費は、生存戦略の観点では全く使えるものではなく、そのようなものに固執していては、次世代を生き抜くことなどできないと考えるからです。実際、ここで見ている「丁寧な暮らし」に限らず、禅や片付けなども本来は美意識ではなく、本質は先人にとっての生存戦略だったのです。それを美意識のようにパッケージングして分かりやすく売り出した先駆者は、禅では鈴木大拙、マクロビオティックの桜沢如一などと言え、さらにグローバリズムの潮流に便乗してライフスタイル・トレンドとして片付けをパッケージしたMarie Kondoなどが見えてきます。ですが、本質にある「生存」という強い意志をそこから感じ取れるか否かが重要だということです。
しかし、現代を生きる私たちは、その本質的な意味を見失い、ただ「面倒な作業」として先人が蓄積してきた大半の習慣を捨て去り、本当の資産である歴史的な知恵をも放棄してしまいました。その結果、身体というハードウェアの脆弱性が露呈し、人間のOSでもある心がメンタル不全というシステムダウンを引き起こしています。これこそが現代社会の現状であり、全人類が向き合わなければならない深刻な問題に思えますが、日本人だけの問題ではないため、要するに「あなたの世界」において、同じことが起きたことを凝視することから始まります。
ここで読者は、そもそもなぜこのような適応と調整によって生み出された豊富な知恵が、手放されていったのだろうかと疑問に思うでしょう。実際、現代の日本の食卓で、前述したような朝食が摂られることはほぼ皆無となっています。前述の観点で見れば、「骨」を食の知恵によって強化してきた習慣は、戦後に脆くも崩れ去っています。中でも、小麦や乳製品などの日常的な摂取が広がったことがトリガーとなります。なぜならば、根本的に日本には小麦や乳製品を摂取する日常的な習慣はなく、多くの人の身体が十分に対応していなかったからです。
実は現在、この乳製品の日常的な摂取が、日本での乳がんの発生率増加の一因である可能性が度々指摘されており、心ある医師は女性に対して乳製品の摂取を控えるべきだと個別に進言しています。また高齢化社会の日本では、高齢者層が骨を維持するために乳製品、特にカルシウムサプリメントを摂取することが頻繁になっていますが、これは逆効果であり、むしろ骨粗鬆症のリスクを増加させることも世界的に知られています。そもそも骨形成には前述の通り、ビタミンDとマグネシウムが必須であり、単にカルシウムだけを摂取しても沈着するだけで効果は反転するからです。
こうした観点を踏まえても、戦後日本の食生活の大幅な変化こそが、現代の不調の根幹を占めていることが見えてきます。つまり、戦前までの歴史において蓄積されてきた生存戦略の知恵が、第二次世界大戦の敗戦を契機に大きく断絶し、そこで全く新しい、身体が適応していない食生活が流れ込んできた時、今日の不調の根幹は形成されたということです。その理由は、当時の国際的な食糧政策の構造にありました。流れとしては、敗戦直後の日本は飢餓状態にあり、当初は「占領地域救済資金(GARIOA)」として、人道的支援および共産化防止の観点から小麦や脱脂粉乳が送られました。ですがこの流れは大きく一変し始めます。
戦時中、米国は欧州への供給のために小麦の増産体制を敷いていましたが、戦争が終わり欧州の農業が復興すると、米国の小麦は行き場を失い、歴史的な大豊作も重なって巨大な余剰在庫を抱えることになります。この在庫の保管料だけでも国家予算を圧迫する事態となったため、アイゼンハワー政権下で「PL480法(余剰農産物処理法)」が成立。この時、「発展途上国への援助」という名目で、この在庫を処分する戦略がとられました。1954年、既に食糧危機も経済危機も脱して成長を遂げていた日本でしたが、敗戦国の立場にあった日本は米国側からのMSA協定を受け入れざるを得なくなり、この枠組みの中で不要ながらも大量の余剰小麦を受け入れることになりました。
あまり注目されたことはありませんが、問題はこの時、単に小麦を流通させるだけではなく、食習慣そのものを一変させる普及活動が仕組みとして広く行われた事実です。つまり、それまでの食生活に代わる、新しい食生活の普及です。これは特に「栄養指導車(キッチンカー)」が小麦の業界団体の資金で日本全国を回り、「米は頭が悪くなる」「パンは近代的で栄養がある」という宣伝が展開されたことが象徴的ですが、最大の対象となったのは子供でした。この時代、「パンとミルク」というパッケージが標準化され、完全給食化が推進され、学校給食制度が登場し、子供は小さい頃から「パンとミルク」の味に慣れていったのです。
この結果、全国規模で戦後の子供たちは、これまで歴史的に日本でほとんど摂取されてこなかった小麦(グルテン)と乳製品(カゼイン)を日常的に摂取することになりました。しかし、麦や乳を長く食べてきた地域には、これらに対する遺伝的な耐性を持つ人が多い一方で、日本ではその歴史が浅く、グルテン・カゼインへの耐性を持たない人が少なくありません。この結果、多くの人の腸内環境は大きく荒れてしまい、かつ中毒性の高いグルテン依存が進んだ結果、社会の健康は重大な課題を抱えて今日に至ることになったのです。
つまり、グルテンフリーやカゼインフリーは、日本で暮らす多くの人にとって、トレンドではなく、生存のために必要な行動だということです。私はグルテンフリーやカゼインフリーを、戦後の食の構造からの脱出というラディカルな行為だと位置付けています。ゆえに、私は7年かけてほぼ完全なグルテンフリー・カゼインフリー生活を実践してきました。
これらを踏まえて、私自身の話をしましょう。私は大阪で生まれ育ち、東京やロンドンといった大都市で基本的に生活してきました。しかし、私のルーツを辿ると、母方の祖父は雪国として知られる秋田の農村部、祖母は温暖な瀬戸内海の離島の出身で、父方の祖母は島根の石見沿岸部出身ですから、私の遺伝子には、明らかに「雪国」や「日本海側」の記憶が強く刻まれており、その過度なバランスを調整する「瀬戸内海」の記憶が交差しています。
その記憶の反面、現代はグローバリズムによって均質化された世界であり、私たちはどこにいても同じような食事、同じような生活リズムで生きることを可能としています。しかし、だからこそ私たちは直視しなければなりません。「自分が今どこに住み、そして誰の血を引いているか」という事実を。私の身体というハードウェアは、本来、寒冷で日照の少ない環境に適応するため、魚や発酵食を多く摂取し、自然のリズムに厳格に従って生活することを、遺伝子レベルで渇望しているのです。
ですが、言うまでもなく現代社会でこの生活の実現ほど困難なものはありません。私に限らず、個々それぞれに求める生活は異なるにも関わらず、大部分は日光を遮断されたオフィスで働き、伝統的な食習慣から離れた生活を送っています。この結果、遺伝子と環境の致命的なミスマッチを引き起こしており、このバランス崩壊に対して、即時的な解決策はないと感じます。世界的に現代人の問題となっている説明のつかない不調や気分の波は、この「OS(現代生活)とハードウェア(身体)の不適合」に起因している可能性が高いと個人的には分析しています。ゆえに、病院に行っても治りません。
だからこそ、私は「丁寧に生きる」という概念を、美学から実践的な「機能」へアップデートすべきだと考えています。なぜならば、美学や美意識での文化適用では、あなたの不調は一向に改善されないからです。ここが強い私の問題意識となります。それは自己の生命維持機能を正常化させるための、最も合理的なアルゴリズムの実装であり、個々それぞれに異なる調整の基本を形成する重要な力となります。
現代において、毎日魚を焼き、干物を一から作り、発酵食を仕込むことは現実的ではないのですから、科学の力を借りることに躊躇する必要はありませんし、各々が日々できる範囲で始めることが最も効果的です。私で言えば、良質なビタミンD3のサプリメントを積極的に摂取することは必須で、特に日照時間が短くなる秋分以降は摂取量を増やし、人為的に血中濃度を維持することで、「冬季うつ」のリスクを個人でマネジメントしています。実は以前までこの「冬季うつ」に限らず、慢性的な精神疾患に悩まされていた私ですが、最近はようやく精神状態をマネジメントできるようになってきました。
またこの効果を最大限に高めるためにも、体内炎症を起こす食事は避けており、グルテン・カゼイン・精製された糖などを摂取することは基本的にありません。これは単なる気分の問題というよりも、日本で多く見られる働きの弱いタイプの「ビタミンD受容体(VDR)」において、私がホモ変異型(+/+)を有しているからです。これは体内でビタミンDを効率的に利用する力が脆弱だということです。
さらに現代人にとっては、サーカディアンリズム(概日リズム)を整えるための光のコントロールも重要です。可能な限り日中は窓を開けて直射日光を数分でも浴び、夜間はブルーライトをカットして照明を落とす基本的な生活。これは都市という人工的な洞窟で生きる私たちにとって必須の「環境設定」であり、生存戦略の大前提でもあり、現代社会では相当難しいことですが、私も少しずつ取り入れています。すると最近、このような新たな角度から、日本が育んできた陰影の美意識などを実践的に昇華し、人々の生活を向上する契機を創造する可能性があるのではないかと考えるようになりました。「丁寧に生きる」ことによって、新たなアイデアが湧いてくるのです。キーワードは、単なる美意識で解決する従来の姿勢と視座を否定し、実践的に自らの生活・人生に取り込める形に変換させることです。
このように今回提唱した「丁寧に生きる」とは、決して弱々しい精神論や懐古趣味ではありません。それは現代世界のバグに共通して悩む私たちが、一段と激変する気候と不自然な都市生活の中で生き残るために、自らの身体というハードウェアを冷徹に理解し、最適なソフトウェアを実装し続けるための知恵、すなわち高解像度な生存戦略そのものなのです。そのためには、実は何よりも先に自らの思考(OS)をアップデートする必要があるはずです。この思考のアップデートが行われていなければ、再び単なる美学・美意識としての「トレンド」に日本文化の知恵は回収されていくでしょうが、それは自己満足を与えるドーパミン世界の力にはなっても、本当に人々を救う力にはなりません。
個別化時代においては、誰かが提唱する「理想の暮らし」を模倣する必要はありません。しかし、自らの遺伝的リスクなどを多角的に直視し、内省を続けながら、現代的なテクノロジーと古来の知恵をハイブリッドにミックスし、自分自身の心身を「正しく機能させる」こと。これは単なる健康管理の枠を超えた「身体的主権(Body Sovereignty)」の回復に他なりません。それこそがこの厳しい冬を、そして何よりも狂騒の現代を生き抜くための唯一の鍵となるはずです。集約すれば、現代において最もラディカルでアナーキーな行為は、「自らの健康を自分で取り戻すこと」だというのが私の考え方です。
Main Title:
Japanese Bodily Sovereignty