移動の季節と変わる気候A Season of Travel and a Changing Climate
最近は、大阪、バンコク、東京と移動していましたが、やはりこの時期に最も堪えるのは気候変化です。かつての日本の穏やかに冬へ向かって移行する秋は既に過去の話。現在のように急激に夏から冬、さらに冬から夏という具合に乱高下しながら不安定な冬へ突入する過程は、普段健康に注意を払っていても、心身に甚大な影響を及ぼします。こうした気候変動自体には一定のサイクルがあるため、別に現在に始まったことではないものの、現在世界的に理解されている意味での『日本文化』の文脈に限定すれば、これらを育む源泉となったのは穏やかに移行する趣きある四季です。
この四季が失われた今、一体、日本や日本人の未来はどうなるのだろうかと最近は常に思案を巡らせています。別な言い方をすれば、誰もが理解する意味での日本文化は既に終わっているのです。東京に来訪すると、世界的に30年早かった90年代の日本のカルチャーを急速に消費する大量の観光客を見かけますが、これらは新たな日本文化を創造できなかった負債にも見えます。
ですが、現代以上の激しい気候変動に直面し、それまでの生活を一変させて適応、過酷な時代を生き抜いたサバイバルに長けた祖先がいたことを忘れてはなりません。それが、縄文人です。縄文人とは言っても、単一部族が日本各地に存在したのではなく、あくまでも縄文時代として規定される時代軸に日本列島で生きていた人々のことを指します。縄文人から学びを得て視方を変えれば、現代日本人の誰もが、四季の移ろいという緩やかな時間軸で感性を養い、発揮してきたこれまでの生き方・価値観を大きく変え、縄文人の生き方を現代にどのように取り入れ、昇華するかという歴史を圧縮したような課題に面しているように思えてなりません。
バンコクも本来であれば乾季の温暖な日々だったはずですが、来訪した3日間は雨季のように豪雨が続き、湿気が強い気候となっていました。そこから東京に移動すると秋はなく、冬の寒さに震える日々が続き、あっという間に体調を崩しました。かつて世界各地でマジョリティだった非定住の人々を、日本の民俗学では『漂流民』と呼んでいましたが、まさに気候・社会情勢などを鑑み、食糧や最適な暮らしを求めて移動する漂流民の生き方こそ、21世紀という地球規模のリスク次元では、年々重要性を増していることは間違いありません。
特に現代世界の問題は深刻で、2011年の福島原発事故による放射能を筆頭に、各地の戦争・紛争、さらには常に東欧・中東・東アジアは地政学的リスクを抱えているため、現代に生きる一人ひとりが、あらゆるリスクを想定し、準備し、何が起きても柔軟に対応できる先行的な生き方を実験し続ける必要があります。その答えは、長らく続いた定住にはありません。
中でもこの数年、頻繁に北東北に出向いてきた経験から感じていたことは、人類が生存するための基本OSとも言える自然が、誰もが考える以上に変わってしまったことです。その典型的な象徴は、今年になって日本各地で熊による被害が相次いでいることに現れています。もちろん熊は歴史的に日本にも生息しており、北海道にのみ生息するヒグマ、本州一帯に生息するツキノワグマが分布していますが、私の記憶では数年前まで個体数減少が問題になっていた熊が、この数年で大量に繁殖し、どんどん人の生活圏に入って軋轢をもたらしているのが現在です。ですが、日本有数の熊の生息地帯である北東北を定点観測してきた私から見れば、現在起きていることは数年前から既に兆候として起きていたことです。
しかし、地方であっても都市部(コンクリート中心型生活)での生活が一般化し、そもそも自然に触れる機会のない大半の日本人には、この古代から連なる感覚が失われてしまい、今年になって急に熊のリスクが上昇したように見えてしまいます。さらに、長らく日本を定点観測していると見えてきますが、個人的には、現在の熊問題は、現場を知らない場所で決めた管理の仕組みが、ほかの社会課題にもそのまま当てはめられていく入口になっているように思えます。
既に動きとしては、世界的に極右政党とラベリングされ、2025年7月20日の衆議院議員選挙で大躍進した参政党の党首・神谷宗幣は、そこからの4ヶ月間でAfdを筆頭とする欧米各国の極右政党・右派ポピュリズムと急速に接近し、幾度も会談を重ねて国際的な連帯を強めています。中でも今週13日の参院予算委員会では、初めて高市首相と神谷宗幣の論戦が行われましたが、ここで神谷が『日本のことは日本で決めてくれ』と首相に対して強く発言している点は見逃せません。明言はしていませんが、これは第二次世界大戦以降、自民党出身の首相の背後に常に存在し、強い発言力・決定権を持つ米国の影響から距離を取ることを促す発言と見て良いでしょう。おそらく神谷の本意はそこにあり、この点は私も賛同します。
つまり参政党の党首が見ている日本の未来は、現在の移民問題の文脈で捉えられているNipponjin Firstではなく、実は米国から距離を取ることにあるのです。そろそろ日本は米国の属国を破棄し、自立することの動きが始まりつつあるわけですが、相当時間もかかるでしょうし、日本に利権を持つ人々からの反発は避けられない。だからこそ彼らは、同じく米国と距離を取る未来へ歩み始めた欧州との接近を強めているのです。
実際、高市首相が台湾を巡って中国を挑発した問題発言が、今週、中国側からの強烈な反発を招いています。そもそも中国側を激昂させた首相の「中国が台湾を攻撃した場合、日本は自衛隊で対応できる」という発言は、全く根拠がなく、日本人から見てもそのようなことはあり得ないことは一目瞭然です。こうした国民次元でもあり得ないと分かることを、首相が平然と発言しているのですから、いかに国際感覚がないかが露呈しています。
そもそも多くの日本人が勘違いしているため、国際的にも知られていませんが、日米安保条約では有事が起きたときに米軍は日本軍と一緒に戦うとはどこにも書かれていません。あくまで米国議会にはかけると書いてあるに過ぎないのですが、なぜか日本人は有事の際には米軍が日本を守ると今も信じています。普通に考えて、そのようなことはあり得ず、今回の高市首相の発言を鑑みると、昨今実際に加速しているように、米軍(横田基地)が指揮系統だけを担い、実戦は日本の自衛隊と韓国軍で台湾を助けるという構図になることは見えてきます。
全く理解されていませんが、日本側から見た台湾有事の未来は、実は日本・台湾・中国の動きにあるのではなく、国家財政破綻の危機に瀕し、少子化が加速する問題を抱えた韓国側の動きを見るべきです。つまり、韓国が国家的に行き詰まる過程で、朝鮮半島の南北統一を行い、その上で中国に接近する可能性もあるわけですから、台湾有事は事実上、日本と台湾だけの問題へ転化されていきます。その過程で国内の内乱が強まっている米国は東アジア情勢どころではなくなるため、東アジアの日本・朝鮮半島・台湾の戦後から保持している利権を中国側に移譲する措置に出ると考えられます。これは日本の宗主国が米国から中国に替わる可能性がある未来です(台湾も同様)。当然、最悪の場合、東アジアでの核戦争が考えられるわけですから、当面、日本のことを自分たちで決められない膠着状態が続く以上、日本人・外国人を問わず、日本に住む誰もが地震・火山・津波リスクも考慮して、常に動ける状態を作ることに未来があります。その先行的な予兆となっているのが、実は熊なのです。
既に各地で未曾有の被害が起きており、これまで出没がなかった地域にも広範囲に熊が移動して生息範囲を拡大している現状を受けて、政府・自治体は自衛隊に要請を出すなどの議論を念頭において進めています。ここで奇妙に聞こえるのですが、彼らは「熊と人が接触しない対策」などと各方面で主張しているのですが、そのようなことは机上の空論でしかないはずです。言うまでもなく、最も怖いのは熊ではなく、熊を見たこともなければ、自然に出向くこともない人々が、机上の空論で物事を推し進める発言力を未だに日本が持っていることです。これが最悪の形で浮上したのが、東日本大震災の福島原発事故でしたが、それ以降も学ぶ様子はないため、もっと悲惨なことを繰り返すでしょう。こうした動きは、世界的に反エリート・反官僚制の潮流が起きてシステム刷新が画策されている現在、明らかに時代錯誤です。
すると、どうなるか。いくら熊のいない都市部の室内で熊対策を考えても、本質的な解決へ向かうことはありません。現在、熊被害が相次ぐ地域に暮らす人々は、日々不安を抱え、外出することも憚れると口々に話し、仕事をするのも命懸けだと話していますが、状況に応じて移動する選択肢自体を持っていないことが露呈しています。外出すれば熊との遭遇リスクがあるのに、その土地を動かず、ひたすら熊に怯えて暮らす日々が始まるのです。5年前に岩手県の地方都市に住む友人を訪ねた時、夜間に歩くのは熊との遭遇リスクがあるので危険だと言われたことを改めて思い出しますが、既に2020年前後に始まっていた動きだったのです。こうして東京などの大都市圏の人々は、日々流れてくるニュースだけを見て熊に対する不安、恐れを抱くようになり、その都市部の不安・恐怖が今も強い影響力を有するマスメディアを通じて各地に伝播する結果、本来、熊との共生が行われてきた地方の人々まで不安・恐怖に苛まれるという異常な構造が起きています。2020年代前半のパンデミックと構造は同じです。
そもそも熊がここまで人の生活圏に移動している背景には、様々な問題が複雑に絡まっているものの、大前提を見抜けていません。産業社会が自然というOS自体を破壊してきたことは世界各地で議論されており、若年層に大きな支持を得ていますが、それ以上に根本的に、近代の産業の仕組みが自然を甘く見過ぎたことが根底にあるはずです。つまり、産業的な破壊活動以前に、そうした破壊活動へ繋がった思考自体が本質的な問題なのですが、ここが改められない以上、何の対策も対処療法にしかならないのです。
つまり現在起きていることは、自然というOSが一変した事実であり、その兆候を示すために熊が漂流民のように移動を繰り返しているのですが、これは熊でさえ自然というOSから逃れる新たな生存方法を模索している段階と位置付けられます。ゆえに、いくら人間が机上の空論で議論したフリをしても、都市生活者はOS自体に目が向くことは絶対にないため、いくら議論しても解決には至らず、結果的に暴挙に走ることは目に見えています。ここ数日、熊の個体数を制限・管理するなどと主張が行われていますが、そのようなことができるわけもなく、現実的には熊被害が多発している新たな生息域に暮らす人々が、自らの居住地を放棄して移動する決意が問題となります。つまり問題は熊の個体数を制限することではない。自然というOS自体が一変し、これまで破壊活動に勤しんできた人類に対する自然からの反動が始まった今、熊は私たちに何を教えているのかを誰もが自省することです。これは日本人に限った問題ではないはずです。
熊が私たちに教えていることは単純明快です。自然というOSが一変した以上、「これまでの生活」という慣れ親しんだスタイルを維持すること自体が問題外となり、この変動にいち早く適応し、先手を打ってどんどん移動する以外に生存の方策はありません。この一気に既存のルールが通用しなくなる動きが、個人的には極めてAI時代の動きと呼応しているように感じています。ある意味で現況は、熊が人間に先んじて漂流を始め、その漂流で生息域が変動したことから、そこに居住する動物(人間)が漂流を始めざるを得ない流れですが、自然破壊の速度を考慮すると、これでは遅い。動物の本能で危機を理解して即座に行動している熊の姿は、あらゆる物事同様、かつてのルールが通用しなくなったことを教えており、OSが変わっているのに、人間側が何も対応できていない事実を暴いています。
では、日本人はかつてのように漂流民となれるのか。残念ながら、自発的に漂流民となる可能性は極めて低いでしょう。そもそも漂流民となるには様々な現代世界の基本がありますが、最も顕著なところで言えばデジタルスキルです。しかし、デジタル分野に長けていたと評価されていた日本の姿も太古の昔の話です。現在の日本社会はデジタル分野の足腰が弱く、特に若年世代を見ていると、仕組みの側が時代に追いついていないことを感じます。他国と異なり、日本の場合、いつも新たな技術の浸透は大規模災害をトリガーとしていることは注目に値します。例えば1995年の阪神淡路大震災をトリガーにパソコンとインターネットが爆発的に普及し、2011年の東日本大震災をトリガーにTwitterを始めとするソーシャルメディアが爆発的に普及しました。
私自身、この二つのトリガーはよく覚えています。確かに東日本大震災以前、日本でFacebookやInstagramやTwitterなどを活用する人々は、東京に住む帰国子女や留学経験を持つわずかな人々に限られていました。私も東京でこうした友人たちから教わった記憶があります。そして東日本大震災の当時、私は東京のオフィス街の真ん中にいましたが、ビルが揺れ動く中、携帯電話の通信の大部分が普通となり、メールは届かず、政府の情報が一切入らない状態に陥ったのですが、その中でリアルタイムに機能していたのはTwitterだったのです(あとは公衆電話)。地震発生直後、東京でも交通網が全てストップしましたが、どうやって帰るかなどの復旧情報は、随時Twitterの方が政府発表よりも先行していました。この大災害以降、日本ではソーシャルメディアが爆発的に普及していったのですが、ゆえにリテラシーの議論が全く行われていなかったため、今も日本人のソーシャルメディアの使用はリテラシーが完全に欠落していると感じます。リテラシーの議論が進んで法規制も強い欧米の旅行者は驚くでしょうが、今も日本のメイン情報源は各国で規制されているYahoo!であり、過去の技術であるCookieが未だに強い影響力を誇っている始末です。
ただし、この災害を契機に新技術が普及するという視点は、あくまでもマジョリティの消費者次元での話です。現在の日本を来訪すれば理解できますが、少子高齢化による前時代的なルール、つまり二十世紀の規範を未だに若年層に強要する旧態依存したシステムが強いため、若年層のデジタルスキルが異常に低い現実があります。この時代錯誤の速度なきシステムは、あたかも現代先進国で高速化する通信速度に対して、20年前の通信速度で対応しているような姿に見えるほど滑稽ですが、この大きな要因はかつてデータや通信の分野で世界的に優位なポジションに立てた日本企業が、反転したことも大きい。それは当然、そうした企業に勤める人々の問題でもあります。ここに、世界初の超高齢化社会に突入した日本の厄介な側面が潜んでいます。
実は日本では、1990年代末に130兆円程度だった企業の利益剰余金が、2023年には600兆円まで増大しています。私は1991年生まれですから、ちょうど父親の1990年代を通じた姿を覚えていますが、当時の日本はバブル経済が破綻する状況下であっても、業種によってはかなり自由な裁量権があり、仕事をする人々の表情も活気に満ちていました。ですが、この企業の利益剰余金の増大にせよ、バブル崩壊後の2000年を迎える頃、とにかく上場することしか考えない株主ファーストの構造が強まり、結果的に従業員の意欲を大きく削ぐことになります。すると利益剰余金が勝手に積み上がる企業に属する従業員自身も、何もせずに企業に属した方がメリットがあると判断し、自身のキャリアを脅かす者を次々と排除するシステムを強化することに邁進し、今日の大問題を醸成していきます。こうした態度がマジョリティだったため、デジタル時代の鍵である流動性を日本人は全く生かしきれず、未だに過去の慣例を守ることを死守する方向へ向かう負債となり、その結果でしょうが、日本人のデジタルスキルは極端な凋落へ向かいます。
例えば、各国のコンピュータの家庭内普及率を見ても、米国・欧州などは90%超えですが、日本は60%弱と低迷。ですが日本側は、この数字を国際標準を無視して非常に優れた数字、つまりデジタルスキルに長けた日本人という嘘をメディアを通じて散布しています。実際に総務省の調査によると、2005年には87.2%の人々がパソコンを保有していたが、2023年には65.3%にまで減少していると報告されています。これは一見するとスマートフォンの普及という妥当な理由が見つかりますが、内実は最先端のデジタルスキルを学ぶ自発的な意欲を日本人が放棄したデータとも言えます。つまり、20年も経たず、社会の仕組みが新たな先端デジタルスキルを学ぶ意欲を後押ししなくなり、既存のシステムに依存して保身を図る官僚主義的な構造が広く行き渡ったのです。
そして最大の問題は、日本では20代のコンピュータ普及率が激変していることです。日本の20代では、パソコンを保有している方が少数派と反転しており、30代でも過半数程度しか保有率がありません。つまり、世界的に超高速化するデータ・通信の可能性を活かすこと以前に、そもそも日本の社会全体で、高齢層・若年層を問わず、デジタルスキルを学ぶ場が十分に開かれていないのが現実です。実際、私が接する人々を見ていても、デジタルスキルやリテラシーを学ぶ機会がなく、個人情報を大企業に流し込むリスクも共有されていません。私より若年者がAIやノーコードツールを活用できていない光景を日常的に目にするのですが、これでは世界各地で行われているAIの議論の土台に立つ以前の問題です。ここを考慮しても、今後この国の社会の停滞が深まることが見えてきます。
さらに一般的に、AIが社会構造を一変する議論ばかりが先行していますが、私たち人間はそれ以前に自然というOSに順応して生きる必要があるはずです。この基本OSが変動した現在、そこに即座に適応して自らのOS(考え方)をアップデートしなければ、当然ながらAIだろうが新たな技術だろうが、何も活用できるはずがありません。この潮流への無理解は、滑稽な現実へと帰結します。熊被害への対応と称して、何とドローンに拡声器をくっつけ、それを飛ばして犬の鳴き声を大音量で流して熊が人の生活圏に入ることを防ぐと豪語する企業まで出てくる始末です。自然というOSが壊れたから熊は避難・移動を始めていることが、全く見えない前時代的な思考から生み出された発想で、あまりに酷い。このような発想が出てくることを見ても、かつての日本のテクノロジーに長けたイメージは、今は存在しないことが見えてきます。
個人的に熊の問題は、この20-30年程度、日本人が無視してきた現実の全てを暴き出しているように感じており、今もこの諸問題をなかったことにするためには、熊を抹殺すれば良いという議論が先行していることを鑑みると、今後も日本の「失われた時代」は続くのだろうと思います。世界有数のパスポート、世界有数の安全を有しながら、デジタルノマドとして動くためのデジタルスキルを学ぶ場が足りない現代日本の若者たち。この構造は、さらに次の世代へ雪だるま式に重くのしかかり、日本の社会の姿を大きく変えることになるでしょう。