首相が替わる国:高市首相とロシアの批評A Country of Changing Prime Ministers: Takaichi and Russia’s Critique
地震に慣れている私たち日本人ですが、首相がコロコロ替わることにも慣れているように感じる最近です。これだけ首相が替わると国内外の論者も大して論じることはないでしょうし、どうせすぐに替わるのだから何も変わらないと感じるのは当然です。これを政治不信などと大層な言葉で騒ぎ立てる一部の人々にしても、現実は不信どころか誰も興味がないのが実情です。
そもそも、今回の石破首相から高市首相への交替劇は、流石、高市は安倍晋三の系譜にある政治家だけあって、国民など全く見ていないことが露呈した出来事だったと感じます。安倍晋三の死後、10年程度にわたって自民党の独裁状態を実現していた清和会(安倍派)が崩壊、汚職などで解散して一旦鎮静化したかに思えましたが、やはり清和会残党は自分たちの利権が四方八方に流れていく光景を横目で見ていることに我慢がならず、今回の転覆を他派閥と結託して行ったようにしか見えません。
新たな高市首相は、日本初の女性首相というポイントが喧伝されていますが、彼女は安倍晋三の後ろ盾が強かった有力者の一人であり、清和会崩壊と共に迷走を始めた一人でした。高市は自民党入党後から一貫して清和会に属していましたが、2011年に清和会を脱退。この頃は安倍晋三による第二次政権(長期政権)前後の政権交代などが立て続いた戦後初の自民党混乱期であったこと、さらに清和会の覇権は安倍晋三になかったことから、脱退は「脱派閥」のイメージを与える意味でも政治家にとっては重要でした。
しかし、蓋を開けてみると東日本大震災のショックドクトリンで安倍晋三による長期政権が発足。高市も派閥を脱退しながらも、堅牢な安倍政権の後ろ盾を受けて躍進し、10数年の歳月をかけて今回ようやく首相の座を射止めました。即座に政権運営が公開されますが、自民党と結託している国内マスメディアでさえ、高市の脱派閥というイメージはいつの間にか消えており、新政権は見事に派閥関係者で固められており、実質的に麻生政権(麻生太郎)だと騒いでいます。すでに85歳ながら、自民党の政権運営に今も強い影響力を有する安倍晋三の盟友・麻生太郎率いる麻生派のバックアップを受けて首相となった高市は、新政権執行部から石破前首相の影響力を露骨に一掃し、単に利権が右から左に動いただけという実態を露呈しています。
ここまでは、昨今の日本のマニュアル通りという感じですが、随所に微妙な異変が起きていることを見逃してはならず、これらが今後の日本において大きな問題として浮上していくでしょう。例えば、高市と首相の座を争った小泉進次郎ですが、これは事実上、自民党内の覇権争い以上に、官僚の覇権争いの代理闘争です。特に今回、小泉を一貫して支持していたのは財務省で、高市の勝利によって財務省の地位が相対的に低下するとの危惧が報道されています。事実、財務省は最近、汚職と国民生活の剥奪に対する告発が相次いで解体まで叫ばれ始めているため、政治家としてもあまり表立って重宝できなくなってきたということです。この財務省汚職・剥奪は以前から知られていましたが、最も顕著となったのは経済アナリストで今年一月に癌で死去した森永卓郎の徹底した告発です。ちなみに小泉進次郎が首相になれば、長期政権になったでしょう(小泉を擁立しているのが米国のCSISです)。
自らの死期を悟った森永が財務省の汚職まみれの実態、なぜ日本人がここまで貧困になったかを告発し続けて以降、財務省前で解体を叫ぶデモが行われています。無論、解体後のビジョンを持つ参加者は誰もいないのですが、世界的な官僚制度解体に準じた動きは着実に日本にも波及しています。しかし、こうした一連の動きが政治家に影響を与えることは事実で、露骨に財務省支持を掲げられないこと、今回の首相選挙の立役者である麻生太郎が財務大臣を務めた人物でありながら、財務省支持の小泉を擁立しなかったことから見ても、長期政権となった安倍政権同様、経済産業省側に利権が再び動いている兆候と言えるかもしれません。また安倍政権当時から、財務省と経済産業省は政権内の利権争いは激しく、このバックアップには外務省のアメリカンスクール出身者がいます。この利権に寄生している総本山が、在日米軍横田基地です。
そして最も重要なことは、国民の世論調査では石破茂前首相の支持率は悪くなく、むしろ石破を首相から降ろす動きに大して、世論は反発傾向が強かった事実です。事実、石破の続投を願う声は、石破交替よりも強かったのですが、これを派閥に依存する政治家たちが無視して恣意的に無理やり選挙に持ち込んだのが今回です。つまり、誰も国民を見ていない、相変わらず派閥内の力学しか見ていないことが再確認されただけであり、表向きに初の女性首相などと言われているものの、単に表看板が男性から女性に替わっただけで、中身は何一つ変わっていません。一体、これのどこを評価するのか疑問です。
何より今回の出来事で個人的に興味深かったことは、西洋メディアの動きとは異なり、ロシア側がこの高市首相就任に対する強烈な不快感を示した点です。そしてロシアメディアの発言の方が、日本・西洋メディアよりもよっぽど確信を突いている点が興味深い。主に「憲法9条の改正論者」「旧日本軍の戦争犯罪を否定する日本最大の保守主義団体・日本会議のメンバー」「靖国参拝を繰り返してきた極右」などとロシアメディア側に列挙されていますが、これらは高市に関する事実でありながら、所詮は表看板に過ぎない首相ではなく、それらを支える背後の存在を摘発しています(実は、この一連の糾弾の本意が、ロシア側の最大の標的である日本に寄生する在日米軍であることが見えてくるはずです。ここが肝心です)。
無論、所詮は政治家ですから、本当にそのような主義主張を持っているかは誰にも分かりません。ですが、ロシア側の反発こそが、今回の実態どころか、戦後日本を垣間見るレンズとなっており、ここは西洋側、特に日本の宗主国・米国からは見え難い点となっています。まず最初に、日本の高市首相の就任、そして先月後半に起きた韓国側の旧・統一教会の総裁・韓鶴子の逮捕は、別々の出来事ではなく、一つの戦後東アジア史の流れとして見る視座を持つことが重要です。
統一教会は言うまでもなく、単なる新興宗教以上に戦後米国による東アジアの反共の防衛最前線を担った主翼であり、当然ながら韓国・日本の宗主国となった米国の意向のもとでここまで成長しました(育て親は米国ということです)。ですが1991年にソ連崩壊後、反共政策が不要になったため、ある意味で存在意義を喪失していったのは事実です。ここからソ連に勝利した米国によるアメリカナイゼーションがパンデミック以前頃まで勢いを持って続きましたが、この過程で反共の防衛最前線であった日本・韓国の戦後レジームは徐々に解体作業が始まります。ただし、日本と韓国で顕著に異なる点は、韓国側は1997年のアジア通貨危機によって一度、国家財政破綻に瀕してIMFの支援を受けたことです。この時、韓国はそれまでの旧・利権を一掃する機会を強制的に得ることができ、文化などを活用して今日の復活を遂げる国家政策に舵を切ったことから、日本とは異なる未来へ歩みを進めます。しかし、日本はリセットする機会がなく、韓国のように政治家・官僚・宗教家の汚職を摘発できずに停滞、新たな一歩を踏み出さない疲弊した未来へ歩みを進めます。この点が社会の透明性などに反映されており、この10年の日本の衰退、韓国の躍進の差を生み出したように感じます。
統一教会と結託した安倍晋三の腐敗は摘発され、事実上の安倍派組織である清和会と統一教会の繋がりは表面的には簡単に指摘されたものの、実はロシアメディアの指摘にあるように、日本の問題はこの統一教会だけではありません。戦後日本を形成した新興宗教の動きは、今も「最後の戦い」と称して今日にまで影響を与えているからです。彼らのスローガンは『反共産主義』です。戦後日本を占領し、今も宗主国の地位に君臨する米国は、日本が共産主義の潮流に飲み込まれてしまうと、ソ連に対抗する手段がなくなることから、徹底して日本の共産主義運動を壊滅することに尽力しました。これが1960年、1970年の学生運動において露呈していきますが、実は当時、この学生運動(日本共産化運動とも言えます)を撲滅するために、米国の意向のもとで結託した三つの存在があります。それが在日米軍・右派新興宗教・ヤクザです。このトライアングルが高度経済成長期の日本、ソ連崩壊までの日本側のレジームを支えたと言っても過言ではなく、この反共の前線防衛基地である日本列島を守護するために、米国は在日米軍を次々と駐在させて撤退させず、ソ連に対抗します。
この結果、日本は戦後に連合国側によって自律的な軍事能力を剥奪されていたこと、そして焼け野原となった全国各地の復興に集中しなければならなかったことから、政権は事実上、軍事機能を米国側に一任し、経済復古に全ての労力を集中します。これが実は、日本の劇的な戦後復古の事情であり、高度経済成長の真実です。つまり、当時は日本をソ連の影響下に組み込まれたくなかった米国と、経済的復古に集中したい日本の思惑が一致し、ここで結託したことから戦後史は始まっているということです。そして全ての問題は、この『太古の昔』に形成されたレジームが未だに生きていることです。これは米国・日本双方ともに、この利権を放棄できないことに起因しています。
すでに第二次世界大戦を覚えている人は僅かとなり、米国の影響力も昔話。韓国はいち早く脱米国への動きを試行錯誤していますが、日本は未だに米国の影響力に過度に依存しており、ドラッグのように抜け出せなくなっています。米国も服属させている日本や韓国からの献上金によってシステムを維持している側面も強いことから、東アジアの情勢が膠着したまま動かなくなっています。個人的に本質的な原因は、戦後の東アジアにおける占領と撤退の仕組みの組まれ方にあるように思えます。つまり、占領の構造を保ったまま見えない形で撤退する道筋が描かれてこなかったとも言え、ここに東アジアの問題が潜んでいるように感じるのです。
そして、高市首相の背後にある一つの団体が、ロシア側の指摘する日本会議です。これらは秘密結社でも何でもなく、簡単に言えば戦後の反共の第一線を担った右派系新興宗教の青年団体に由来します。中でもロシアメディアが指摘する「憲法9条の改正論者」「旧日本軍の戦争犯罪を否定する日本最大の保守主義団体・日本会議のメンバー」「靖国参拝を繰り返してきた極右」という文言は、この日本会議の主要メンバーを構成していた「生長の家」という新興宗教に由来しており、彼らの悲願であるということを覚えておいてください。ただし要注意なことは、現・生長の家は1980年代に政治活動から一切手を引く宣言を行なっており、日本会議に対して時代錯誤と糾弾して決別、何と右派から左派に転向して現在に至ります。つまり、現在の生長の家ではなく、見なければならないのは学生運動時代の生長の家、中でも原理主義者の動きです。
そして、生長の家を立ち上げた人物こそが、教祖・谷口雅春(1893-1985)です。何を隠そうこの谷口は、Shitsuraeで何度か取り上げてきた出口王仁三郎率いる大本教の有力信者の一人であり、のちに幻滅して脱退し、新たに宗教組織を立ち上げた大本教の遺伝子を継ぐ筆頭人物です。そして学生運動期には、この谷口の教えに回帰しようとする原理主義派と、時代に応じて組織を変化していく改革派に分裂し、後者が覇権を握った生長の家は最終的に1980年代に左派に転向することになります。ですが、1960年以上に1970年安保闘争の最大の戦いとなった1968-69年頃、最も勢いを誇ったのがこの生長の家原理主義派たちが組織した青年団体だったことが重要です。単なる宗教団体ではなく、徹底的に知能と暴力を合わせて反共運動を展開し、最も成功した存在です。
何より、政治中枢地・東京では1970年の安保改定を控えて躍動する左派が優勢、右派は敗北を続けていたのですが、これでは安保継続が実現できず、日本がソ連の影響下に置かれるという懸念が宗主国・米国側を動揺させます。当時、米国側ではご存知のように西海岸の反戦運動としてカウンターカルチャーの要素が強かったのですが、日本はむしろカルチャーではなくイデオロギーの要素がかなり強く、この点が全く異なります。そして戦後日本に隆盛する共産主義イデオロギーは反米運動として大勢の若者を魅了しました。おそらくあの時に米国が国内のカウンターカルチャーを抑えきれずに日本に対して策を打てなかったならば、日本はソ連の影響下となっていたでしょう。それほど、あの時代は戦後の運命を決定づけました。それだけの影響力があったからこそ、容易に変化できないとも言えます。
この1968-69年の反米・反体制運動があまりにも勢いがあり、米国側は強い懸念を抱きますが、既に最初の安保闘争となった1959-60年にも同じような状況を経験していたため、もう手段を選ばず徹底的にこの運動を鎮圧する方策に舵を切ります。1960年の窮地は、かつてA戦犯者でどう考えても処刑の必要があった政治家・岸信介(安倍晋三の祖父)と、右翼・児玉誉士夫を釈放し、両者を米国の手先で動く人形として利用したことから、安保闘争を壊滅することに成功しています。ここで米国の犬・岸信介とCIAの犬・児玉誉士夫が結託したことによって、躍動したのが全国各地のヤクザ組織であり、中でも3代目として勢力を急拡大した田岡一雄率いる山口組でした。
特に岸信介は安保闘争の1957-1960年に首相を務めており、バックアップの実働部隊、つまり暴力で運動を捩じ伏せる組織は、児玉誉士夫の影響下で動くヤクザ・右翼組織の構成員が担い、文字通り政治汚職と暴力で反米・反体制運動を捩じ伏せます。ですが1970年の安保闘争は性質が異なっており、当時は日本で最も若者が増えた時代であり、かつ日本・米国に対する強烈な不満とイデオロギーへの触発が強かったため、同じ手法でねじ伏せられる保証がありませんでした。こうして新たに目をつけたのが、新興宗教の青年団体と警察です。新興宗教の青年団体の構成員は、安保闘争の担い手同様に大学生辺りの若者でしたが、こちらはむしろ大学生によって構成されていました。しかし、警察は別でした。当時の若い警察官は、大学にいける裕福さがなく、地方の農村などから都市部に出稼ぎに出た若者が主軸で、彼らは裕福で大学にまでいきながら、勉強せずに学生運動に身を投じる同世代の人々への強烈な憤怒があり、暴力的衝突には格好の対象でした。つまり、冷戦の構造のなかで日本の若者と若者が衝突する状況が生まれ、ソ連の動きを食い止める力学が働いたのです。
この策略は功を奏しますが、では一体、左派が優勢だった反体制運動の状況が変わり、のちに日本会議なる組織が勃興する契機はどこにあったのか?その大きな潮流は意外にも、学生運動の激化していた東京大学や早稲田大学ではなく、東京から遠く離れた地方の一つの大学から始まったのです。次回は、ここに触れていきます。