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北信越を巡るTraveling the Hokushinetsu Region

この10日ほど北信越地域を巡っていました。北信越とは、北陸3県の富山県・石川県・福井県と信越地方の長野県・新潟県を合わせた広大な地域を指しますが、今日では自然以外にほとんど注目されることはありません。

しかし、現在では太平洋側に大都市・経済圏が密集しており、こちらが「表」と思われがちですが、太古よりこの北信越を中心とする日本海側がその機能を有していました。この古代の実態を理解しようと私自身も日本海側に何度も足を運んで調査を行ってきましたが、この主張は絶対とは言えずとも、ある一面を捉えている主張だと感じます。

では一体、この北信越の「北限」はどこにあたるのでしょうか。これはそれより北に至る東北を考えると非常に重要になるのですが、今回訪れて非常に興味深かったのは新潟県村上市が持つ文化的北限という性格です。

つまり、どうも新潟県最北端の村上市を境界に、北信越と東北の文化圏が大きく裂けていると感じます。いわば、村上は見えない結界であり、日本の文化の伝播経路と限界を知る上で非常に重要になると考えます。この北限に関しては、日本文化の代表的なものに関しても、村上を境界とする文化が存在しています。その一例は、あまり知られておらず、意外に思うでしょうが「茶」です。

茶といえば、長らく生産量1位を誇った静岡県が衰退を始め、代わりに近年台頭する鹿児島の躍進が注目されるように、もともと九州や西日本に起源を持つ文化として広く知られています。より正確には、一般的には九州に茶文化の基盤が中国側との交流を担っていた僧侶などによって伝来し、長い歳月をかけて育まれたものだと言われています。特に影響を与えたのは禅僧・栄西ですが、それ以前から茶文化の祖型があったことは確実です。

さらに基本的には大阪・京都・奈良などの関西圏で茶文化は昇華され、そこから太平洋側を東に向かって静岡から鎌倉、江戸へと茶文化は流れていきますが、そもそも東日本の日本海側北部で茶栽培が行われていることを知る人自体が少ない。そして村上は「茶の北限」生産地帯であり、現在も栽培が続けられており、西とは異なる独自の感覚があるように感じます。

では一体、なぜ日本海側には茶栽培のイメージがないのでしょうか。それは大半の日本人が日本海側に持つ暗くて、陰鬱な風土という先入観が未だ強く残っているからです。ですが、これは冬季に限定した場合の先入観に過ぎず、実際に日本海側を訪れるとわかりますが、秋に向かう9月いっぱいは海は穏やかで、青々しく輝いており、非常に静謐で美しい風景が広がり、また風も非常に心地よいのが特徴です。一方で長い冬、そして地域によっては雪に覆われる豪雪地帯もありますが、果たして九州や静岡とは異なる厳しい気候環境の中、村上の茶はどのような場所で栽培されているのでしょうか。

詳しく茶の関係者に話を伺うと、村上の茶畑は山が入り組んだ山間部にはなく、実は日本海側の山の斜面に沿って栽培されています。この理由は、日本海に吹く強い北西の風も影響します。なぜならば、冬の北西からの強風の影響で日本海側には雪がそれほど積もらず、意外にも茶の栽培に適した独自環境が形成されるからです。これは豪雪地帯という日本海側にまとわりつく条件を回避する古い知恵の集積であり、大変興味深いものです。

実際に村上の茶を飲んでみると、九州や静岡の温暖な気候で育つ茶にはない独特の奥深さと甘みが強く、村上特有の気候によって育まれる茶を筆頭に、この地域の茶文化は、日本の多元的文化を理解する上で学ぶことが非常に多いと感じます。特にこの「北限」という文化の臨界点(結界)を村上が担ってきたことを考えると、ここまでは一定の文化圏が日本海を伝って伝播してきたものの、それ以上北にはほとんど届かなかった可能性が浮かび上がります。つまり、見えない境界線がここに存在しているように思え、歴史的にここは北進の難所と位置付けられてきたということです。

事実、今回は能登半島、長野の山岳地帯の村落、新潟県南部から北部、新潟に隣接する福島の会津若松の山間部などを動き回りましたが、神社が奉祀する祭神や土地の古伝承にも、古くから他部族が北へ向かって移動を行う際の最大の難所となっており、大半の部族は北信越を超える力がなかったことが見えてきます。この結界を超えた神、それこそが出雲大社の祭神・オオクニヌシであることは、神話・伝承・祭神などの観点から見ても、古代日本の実像を理解する上で極めて重要となります。

実際、一例をあげれば、北信越の沿岸部一帯には、この出雲の神が来訪した伝承が無数に存在しており、さらに出雲の神が娶った姫は新潟県糸魚川市のヌナカワヒメ、そしてこの両神の子は糸魚川から内陸を進んだ先の諏訪大社の祭神・タケミナカタという具合に、古来の実像が随所に示唆されています。

そしてこの北限の日本海側に流れているのが、三面川です。この三面川を含めた村上一帯は、地理的にも歴史的にも非常に興味深い土地です。というのも、村上は古来より三面川を遡上する鮭を神として奉りながら生活を築いてきた独自の文化を持っており、しかもそれを現代にまで見事に継承する素晴らしい土地です。三面川を遡上する鮭を奉祀しながら、そこを起点に生活全体に取り入れる暮らしは村上文化そのものであり、その起源は縄文時代にまで遡ります。

何より注目すべきは、この場所では鮭は神であり、一つも無駄にする部分はなく、すべてを活用する独自の文化が長年築かれた結果、何と村上には、たった一匹の鮭から100種類以上もの多様な鮭料理を生み出しており、一人あたりの鮭の消費量で村上は常に日本一です。これは、単純に和食とも言い難い、事実上の村上独自の民俗遺産です。そしてこの「鮭の文化」というレンズを通して日本文化の本質の一端が見えてきますが、何よりも風土の観点を熟知した人々が、風・水・火などの神を筆頭に奉る姿を現在も見ることができるのは、正直胸を打たれます。何より、土地の人々が素晴らしい。かつて、日本文化とはここに本質があったということを、今も村上の人々は鮭を通じて伝えており、各地で消え去った日本人の持っていた気質、さらには生活の丁寧さ、信仰までが現代にも残っています。

さらに三面川流域では縄文遺跡も発見されており、平安時代には京都の貴族にも三面川の鮭が献上されていたことから、この地が古くから人々の生活圏として重要だったことが示されています。しかし実は、村上がこの稀有な独自文化を現代に継承できたのには、江戸時代の一人の下級武士の奮闘が関わっていました。それが青砥武平次(あおと ぶへいじ)です。

村上では鮭が長らく生活資源の最重要素材であり、これは村上藩を有した江戸時代も同様でした。しかし、藩の政治を支える重要な資源であった鮭が乱獲によって枯渇寸前となり、1720年に漁獲量が一時ゼロに近づく危機的状況を迎えます。ここで藩の関係者が為す術なく迷走していた時、立ち上がったのが青砥武平次でした。

1713年生まれの青砥は村上藩の下級武士でしたが、故郷の危機に立ち上がり、一人で三面川に遡上する鮭の姿を長年観察。その結果、鮭が生まれた川に戻ってくる習性を世界ではじめて発見します。そして青砥はその鮭の性質を生かして、三面川を三つに分流する人工的な策を講じて、その一つの分流は産卵に適した「種川」と位置付けて鮭の産卵を助けて保護し、この種川の鮭は捕獲禁止とし、通常の三面川本流側はそれまで通り土地の人々が捕獲可能とする『鮭の回帰性を活かしたエコシステム』を提唱します。いわば、世界初の「鮭の自然孵化システム」が青砥によって打ち出されたのです。

しかし、時代は江戸時代。どんなに素晴らしいアイデアを持っていたとしても、上への服従は絶対だった上、下級武士が上級武士や藩主にこのエコシステムを提唱・提案するなど御法度です。それは藩上層部を批判するとも受け取られませんから、当時は下級武士からの提案は文字通り命がけでした。

下級武士の行動ですから詳細は不詳ですが、相当激しい戦い、さらには周囲の人々からの嫌がらせなどもあったはずです。ですが青砥はめげずに未来の村上の人々のために孤軍奮闘で戦い抜きます。そしてついに青砥が50歳を迎えた1763年、藩令でこのエコシステムを整備・拡張する計画が本格始動します。このプロジェクトは結果的に1794年までの30年程度を有しましたが、青砥は1788年に没したことから完成を見届けることはありませんでした。

ですが青砥の行動力とエコシステムの確立によって、何と村上藩の鮭の漁獲高は3-5倍に増加。この鮭という歴史・文化の資源を保護した見事な策は、やがて江戸時代に頻発して日本海側の村落を地獄へ貶める飢饉の際に、藩を救う力を発揮します。なぜならば、飢饉で村民の大半が餓死した背景には、基本的には農作物の壊滅的被害でしたが、青砥の構築した鮭という最大資源を村上藩は有していたため、農作物が取れなくとも、鮭によって食いっぱぐれることはなかったからです。これが、村上で一匹の鮭から100種類以上の鮭料理が生まれた背景にあります。そして同時に、この飢饉から村民を救い、藩を救った鮭は神として奉祀されていきます。

さらに時代は進んで現代。青砥の行動に匹敵する大きな試練が村上文化と鮭に訪れます。それが現在の村上文化を継承する立役者となった鮭事業を営む「Kikkawa」の当主・吉川真嗣です。吉川は家業を継がずに東京に出てキャリアを積むも、家業を継ぐ決意を固めて故郷へ戻り、Kikkawaへと参画します。日本全国で続く道路拡幅の影響で城下町の村上からも文化が消え始めていた頃、現在のKikkawaの通りにも開発計画が持ち上がり、周辺住民には立ち退き金が手渡され、もはや村上文化が絶える寸前にまで追い込まれます。

そんな中、吉川は偶然新宿髙島屋の物産展に出展していた時、全国町並み保存連盟の会長と出会い、『道路を拡げて良くなった商店街なんてどこにもない。』『自分の町が壊される前に、あなたがそれを止めなさい。』との言葉で目が覚め、自らが主導して村上の町を開発の流れから保護するために身を捧げることを覚悟します。

『歴史を活かして成功した町はあるが、壊して成功した町は無い』という会長の信念は、私自身も全国各地を巡っていて強く同意しますが、何しろ戦後日本はゼネコンと自民党、さらにはマスメディアまでが一体化した破壊と開発の利権に覆われた国。この既に決まっていた計画を取り消し、町を守るのは容易いことではありませんでした。しかし、青砥から連なる村上の人々の遺伝子は、吉川の強い説得によって蘇り、何と開発計画を破棄して町を守ることに成功したのです。当然、その間の心労は計り知れず、地元の人々からも大反発を受けるなど、おそらく青砥も同じような経験があったと思われます。

この窮地の時代にたった一人が立ち上がり、村上文化の真髄を深く理解して守るところを守り、変えるところを変えることができた結果が現在の村上の姿です。事実、村上は大勢の人々が観光に訪れる町ではなく、あまり知られていないとも言えますが、新潟の北端にありながら、この文化資本を守り、継承した土地のエネルギーが素晴らしく、人々が素晴らしいと感じ、このような場所は現在の日本で見られない特質を持っていると感じます。

こうして吉川は、鮭を軸にしながら、さらに目をつけたのが村上文化としてこちらも長らく継承されてきた『北限の茶文化』だったのです。一体、かつての日本の文化の素晴らしさ、日本人の素晴らしさはどこにあったのか?それを理解できる場所は今や日本全国にも数える程度しかなく、間違いなく村上はその代表です。