ヴァータとサツマイモVata and Sweet Potatoes
私は元々夏が非常に苦手な体質で、日本の高温多湿の6月中旬からの三ヶ月は、いつも体調が乱高下してしまい安定しません。一般的に夏は外で太陽を浴びながら楽しむのでしょうが、近年の日本の夏は外に出ると気分が悪くなるほど悪化しており、この季節は私が子供時代だった頃と比べると、健康に悪影響を及ぼすほどになったと感じます。この厳しい夏を乗り越えた秋になると一気に活動力が増大するため、近年は日本を動き回る調査旅を基本的には秋と春に重点的に行い、冬は徹底的な読書や勉学と次の準備、さらには内省の季節にしています。そのため、いつも夏の過ごし方が非常に難しく、今年も毎日試行錯誤の日々が続いています。
これは単なる個人の季節の好みではなく、体質からもその傾向が伺えます。古代インドに起源を持つ伝統医学のアーユルヴェーダでは、人それぞれに異なる生まれ持った体質・生理機能には、ドーシャと呼ばれる三つのエネルギー原理に基づくと言われており、その配分によってプラクリティ(先天的体質)が決定されると考えます。「空・風」のヴァータは風のドーシャと呼ばれ、「火・水」のピッタは火のドーシャ、「地・水」のカパは水のドーシャと呼ばれます。
アーユルヴェーダのプラクリティに基けば、私のプラクリティは風のドーシャであるヴァータが90%、水のドーシャであるカパが10%程度となっており、火のドーシャであるピッタは先天的には含まれていません。つまり、私はヴァータが圧倒的優位であることから、生涯を通じてヴァータの調整とうまく付き合っていくことが良質な人生を過ごす鍵になるのですが、アーユルヴェーダではプラクリティのみならず、環境や生活習慣によって変化する後天的なヴィクリティがあるとされています。そして私にとって最大の問題は、このヴィクリティで圧倒的優位となっているのが火のドーシャであるピッタなのです。
またドーシャは人間の体質に限らず、様々なものに適用されていますが、季節のドーシャで言えば、現在は晩春から夏を司るピッタの季節に相当します。この季節は必然的にピッタが亢進することから、私にとっては要注意の季節となります。なぜならば、私が持つヴィクリティのピッタが過酷な夏の季節と相乗効果を有して日常的に影響を与えるからです。これによって、心身の安定が非常に困難となるのですが、それでも創造力は日々次々と溢れてくるため、一気に創作して一気にエネルギーを消耗し、極度の疲弊状態に陥る悪循環を繰り返しています。
そこで34歳の今、そろそろヴィクリティのピッタとの付き合い方を考え、しっかりと夏であってもヴァータが安定した状態でプラクリティを優勢にして、静かに過ごしたいと思っているのですが、その鍵が食生活にあることはアーユルヴェーダでも基本となるため、どのような食生活で夏を過ごすかが、これからの生涯においても重要なテーマだと考えています。
私自身の食生活は極端な性格を持つヴァータらしく極度の偏食で、驚くかもしれませんが365日の99%は全く同じ食事を続けます。しかもそれを1日に全ての作業を終えた夜に限って食べるため、この4年ほどは1日一食が基本となっており、食事も鶏肉に米を入れたスープと、ナッツ以外を口にすることはほぼありません。そのため、日常食と言えるこのスープに対して、様々な工夫を加えることが私にとっての改善策となるのですが、そこで最も重宝してきたのがサツマイモです。
カパのドーシャを持つ人にとっては問題となるサツマイモですが、ヴァータのドーシャを持つ人にとっては優れた食事で、ヴァータの乱れを鎮静する作用があります。これは江戸時代由来の「食養」に陰陽論を交えた独自の食事法を理論化した桜沢如一(1893-1966)の提唱したマクロビオティックにおいても通じており、マクロビオティックではサツマイモは「やや陰性寄りの中庸」に分類されています。マクロビオティックは素材の持つ陰陽論に加えて、調理法などで調整することが理論化されていますが、スープなどで煮ることによって陽性にエネルギーを向けることができます。
ヴァータ体質では、冷えた飲み物・食事がヴァータを過剰亢進させる原因となり、私の場合で言えばヴィクリティのピッタが亢進して暴走することから注意が要されるため、それらを踏まえて今年から夏であっても温かいスープしか食べないようにしています。そしてヴァータは甘味のある食物が安定化には必須となるため、サツマイモは非常に適しています。そして、このサツマイモというたった一つの食物には、日本における非常に興味深い歴史が宿っているのです。
日本で古くは『甘藷』と呼ばれていたサツマイモは、メキシコやペルーなど中南米を原産とする作物で、15世紀末にコロンブスが欧州へ持ち帰った後、16世紀末までにフィリピンのルソン島や中国南部などのアジア圏に伝わったとされています 。つまり、日本でも17世紀まではサツマイモは知られていなかったのですが、日本への伝来は江戸時代初期の1604-1605年頃だと考えられています。そしてそのサツマイモの伝来ルートは、日本で使用されている『サツマイモ』という呼称自体に残っています。それが南方起源です。
まず、中国の福建省から琉球の役人・野國總管(のぐにそうかん)なる人物が、琉球王国(現・沖縄)にサツマイモを持ち込んだことから日本のサツマイモの歴史は始まります。元々、琉球では日本列島本土側で進んでいた水田稲作に適した土地が限定的であったことから、雑穀の畑作がメインでしたが、そうした土地でも育つ高カロリー作物としてサツマイモが栽培されるようになり、人々の生活を支えます。
この1604-1605年頃に琉球で始まったサツマイモ栽培は、次に奄美大島などを経由して九州南部の薩摩(現・鹿児島)へと伝わります。この伝来に関しては諸説あり、現在まで歴史研究では三つの説が考えられています。一つは、1609-1611年頃に薩摩藩主・島津家久による琉球侵攻(1609年)の際、従軍した兵士がサツマイモを持ち帰ったという説。次に1698年に種子島の島主であった種子島久基(たねがしま ひさもと)が、琉球王・尚貞からサツマイモの苗を取り寄せて種子島経由で薩摩本土に伝えたとする説。最後に1705年に薩摩国山川(現・鹿児島県指宿市山川)の漁民・前田利右衛門が琉球からサツマイモの苗を持ち帰り、自ら畑で栽培して近隣に広めたとする説があります。面白いことに、前田利右衛門はこの功績により「甘藷翁(かんしょおう)/サツマイモの翁」と称され、彼を祀った徳光神社が指宿市山川に建てられています 。日本には、サツマイモの神が居り、神社まで建立されているのです。
薩摩藩では18世紀初頭までにサツマイモ栽培がかなり広く定着し、痩せた土地環境でも広く作られる作物として注目を集めます。実際、日本の『サツマイモ』という呼称は、『薩摩の芋』という意味です。サツマイモは環境適応能力が高い作物ですが、特に高温多湿な気候に順応した背景から、琉球や西日本から先に普及しました。しかも痩せた土壌や傾斜地でも栽培可能であったことから、薩摩のように火山灰土(シラス台地)の多い地域にとっては重宝された作物でした。
そして興味深いことに、元々寒さに弱い作物でしたが、やがて冬季に貯蔵芋を腐らせずに保管し、翌春に発芽させる新たな技術が確立したことで、東日本の寒冷地域にも限定的に普及が始まります。江戸時代を通じてサツマイモが関東以北へ広がる速度は緩慢で、背後には低温下での貯蔵・育苗の難しさがあったと考えられていますが、当時の農家はムロと呼ばれる床下貯蔵庫や敷き藁など工夫を凝らして越冬保存に努めるなど、様々な試行錯誤を行なっています。
では、そもそもなぜ東日本のような寒冷地域でさえ、熱帯原産のサツマイモを栽培しなければならなかったのでしょうか?しかも江戸時代は藩ごとの統制が厳しく、薩摩藩で育てられたサツマイモを他領へ自由に持ち出すことも禁制とされていたため 、有用な新作物であっても広域普及には政治的ハードルがありました。このような状況下の中で、普通に考えるとわざわざサツマイモを東日本にまで普及させる必要性が考え難いことは事実です。しかし、この背後には深刻な当時の問題がありました。それが江戸時代を通じて頻発した飢饉です。特に18-19世紀にかけて起きた深刻な飢饉は三つ知られており、1732年の「享保の大飢饉」、1782-1787年の「天明の大飢饉」、1833-1839年の「天保の大飢饉」です。これ以外にも無数の飢饉が起きていたのですが、これらは江戸幕府の統治を瓦解し、結果的に新たな明治時代を迎えるかなり重要な動因でもありました。
そしてこれら三つの深刻な飢饉が発生した時、全国的に飢餓者が大量に続出し、特に東北などの僻地は壊滅的な被害を受けています。しかし、なぜか薩摩藩では餓死者が出なかったと言い伝えられているのです。その理由が、薩摩藩が既に栽培に成功していたサツマイモにあったのです。この事実は他藩の有力者たちにも知られるようになり、徐々に飢饉対策の作物としてサツマイモが有用だと見られるようになっていきます。
実際、サツマイモが飢饉の救世主であるという噂は、当時の幕府を動かしています。八代将軍・徳川吉宗(在職: 1716-1745)は、「享保の大飢饉」に直面した際、従来の米に代わる飢饉対策の作物を求めて、薩摩藩の事例を聞いてサツマイモに着目した一人です 。儒学者の青木昆陽(1689-1769)は京都でサツマイモに関する書物を読み、その価値を知っていましたが、吉宗の命令で江戸近郊でサツマイモの試作栽培を行っています 。青木は薩摩藩から取り寄せたサツマイモを用いて試験栽培に取り組み、1735年に江戸で初めてサツマイモの栽培に成功したと報告しています 。こうして、青木昆陽は栽培方法をまとめた意見書を吉宗に提出し、それが認められてサツマイモの普及が幕府公認の大事業となります 。
江戸幕府は飢饉を幕政最大の危機と位置付けたため、1744年に各地へサツマイモ栽培の奨励通達を出し 、以降は江戸を中心に関東や東北南部でも徐々に栽培が広まる契機を作っています。この時、青木昆陽が江戸にもたらした苗が薩摩由来であったため、この新作物は「薩摩芋(サツマイモ)」として知られるようになったのです。
しかし、サツマイモは東日本で言えば関東近郊までは何とか栽培可能になったとは言っても、東北全土にまで広まっていたわけではなく、栽培の大半は薩摩が変わらず活況でした。そして東北は特に飢饉の被害が深刻な地域であったことから、徐々に戦国時代の有名な武将に由来する先見的な知恵を活用し、独自の飢饉対策を行なっていったのです。その時期がちょうど天明の大飢饉を終えた後、来たる次の飢饉の準備として藩主が主導して行なった大規模調査に由来します。この時に集積された知恵は、実は江戸時代の飢饉に限らず、太平洋戦争中でも盛んに活用され、庶民たちは戦乱の中で生き抜くためにこの古い知恵を存分に駆使したのです。
サツマイモから始まった飢饉対策としての作物。もしかすると、極度に悪化した地球環境を生存することを余儀なくされた現代人の誰もが、既にかつての飢饉に匹敵、いやそれ以上のサバイバル時代に入っているのではないかと感じます。つまり、まだ最悪な状況が起きていない今のうちに、誰もが過酷なサバイバルを生き抜く準備をしておかなければならないのかもしれません。ただ一つの作物であるサツマイモの日本史を見ても、どこか不穏な未来が迫っているように思えてならず、その兆候は昨今の日本で問題化している深刻な米不足と高騰を背景に、かなり現実化しているように思えてなりません。
私は数年前から、日本各地を巡っている際に知り合った知人に、歴史を踏まえてサツマイモを育てておいた方が良いと伝える変わった伝道を行なってきましたが、米問題が加速する今、改めて江戸時代の飢饉に際する時代に注目が集まるように思えるのです。
一体、日本の未来は米によって変わらず揺れ続けるのか?稲を中心に据えてきたシステムの崩壊は、これまでShitsuraeで触れてきたように、様々な日本・日本人の価値観の崩壊を象徴しているのかもしれません。
ヴァータとサツマイモ
サツマイモの日本史は来たる苦難を予期しているか?