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トカラ列島の民俗文化:南北文化の結節点Cultural Nexus Between North and South

6月21日以降、鹿児島県南部のトカラ列島では2000回を超える群発地震が立て続けに起きています。実際、今日の記事執筆時(日本時間16:50)だけでも、約25回で最大震度4の地震が起きています。以前、縄文時代の状況を大きく変えたトカラ列島より少し北部の喜界島周辺の海底火山噴火についてお伝えしましたが、今回はトカラ列島という地域がどのような歴史的特性を持っているのかについて見ていきます。

トカラ列島は、九州南部の鹿児島の中でも屋久島と奄美大島の間に位置する7つの有人島からなる列島のことです。この地理的環境から、北の大和文化と南の琉球文化の接点にあたると見做され、民俗学的にも極めて興味深い地域として調査されてきました。その先達となったのが、民俗学者の下野敏見です。彼は昭和30年(1955-1964)から40年代(1965-1974)にかけてトカラ列島の現地調査を先駆的に行い、後に『トカラ列島民俗誌』にまとめて、文化混淆の結節点であるトカラ列島の全体像を初めて明らかにしました。

この研究によると、トカラ列島の習俗には日本本土の中でも特に九州南部の文化と、南方の奄美・沖縄の文化が重層的に現れており、列島全体が南北文化の混淆地帯としてかなり特殊な性格を持っていることが明らかとなりました。例えば、トカラの信仰には日本本土由来の神社祭祀と奄美・沖縄の南方的な自然崇拝や祖先信仰が併存して行われています。各島には小規模ながら神社があり、八幡神や金山神など本土系の神々が祀られています。特に悪石島には金山神社や坂森神社が鎮座しており、その鳥居には「鋸歯文(きょしもん)」と呼ばれるこの地域特有のギザギザ模様が刻まれています。この模様は魔除けの意味を持ち、日本の他地域の神社ではほとんど見られない意匠です。しかし一方で、神社そのものの作りは非常に簡素で、これは奄美・沖縄の御嶽や拝所のように、自然石や巨岩を神体とする南方系の信仰形態を伝えています。この自然信仰的な側面はかつて日本列島全体に広がっており、今も各地にその痕跡は深く残っていますが、特に近代化の過程で神社の体系化が徹底された影響から、その影響が届きにくかったトカラや南方では比較的後世まで残りました。

さらにトカラ列島には、琉球王国時代に祭祀・神事の実権を握っていたノロと呼ばれる巫女に通じる女性が行う信仰があったことも指摘されています。下野の報告では、宝島など南部の島々では、かつて巫女的な女性が豊穣祈願や加護を祈る祭祀を担っていた例があり、奄美・沖縄的な祭祀がトカラにも残存、さらには影響を及ぼしながら、祖先や土地神への祈りを女性が取り仕切っていました。一方で本土的な影響として、各家には神棚や仏壇を祀る習慣も広がっており、先祖供養や年忌法要など仏教的儀礼も行われています。これは神仏習合的な民俗信仰が根強く残っていた鹿児島本土の影響であり、その祭祀の表現方法に南北双方の要素が見られる点が興味深いところです。

下野の調査で最も興味深いのは、1185年の源氏と平家による大規模な壇ノ浦の戦いで敗れた平家の落人伝説がトカラ全体に伝わっていることです。中でも平島は、平家の落人が最初に流れ着いた島と伝えられており、この島の名前も平家に由来するとされています。

もともと海上交通の要衝として、本土と奄美・琉球をつないでいたトカラでは、航海安全や漁業繁栄の祈願も重要な役割を果たしていました。ここでは鹿児島や本土と同様に海の神として恵比須神を祀っており、この習俗は下野氏の調査当時では口之島などの北部の地域に特に見られたと伝えられています。漁業の守護としては「えびす堂」と呼ばれる施設を構えて豊漁を祈るのが本土系文化圏の特徴です。一方で、南方的な海の彼方にある神の国への祈り(ニライカナイ信仰)や海神に対する祭りも盛んに行われており、これら本土系の海神信仰が琉球系の信仰と混在しながら、文化の結節点であるトカラにおいて独自に形成されてきた痕跡が残っています。

また、トカラ列島の年中行事は、旧暦(太陰太陽暦)に基づく伝統行事に加えて、新暦(太陽暦)に基づく行事が混在していることが特徴です。当時はまだ奄美・琉球では旧暦を重んじる風習が強く残っており、盆や豊年祭などは旧暦で行う島が多く、こちらはトカラも同様です。特に悪石島の奇祭として知られる「ボゼ祭り」では仮面神ボゼが出現しますが、これは全身に泥をまとって突起のある奇妙な仮面をかぶった「来訪神」であり、太鼓の合図とともに集落を訪れる姿から日本人の古い神に対する信仰の側面を伝えています。この祭祀は南方的な要素を踏まえながらも、本土にも全国各地に似たような習俗が残っていることから、日本に共通する来訪神信仰の系譜の中でも、南北文化が混淆した特異な形であると考えられます。来訪神については折口信夫の考察が重要です。

明治以降の新暦の正月行事などはトカラも日本本土と同様に門松を立てて歳神を迎え雑煮を食べて祝うのですが、同様に旧暦正月の行事も簡素な形で別途行われており、旧暦1月に改めて別の行事を行う地域もあったといわれています。トカラ列島は明治以降行政的には本土と一体化していますが、戦後しばらく米軍統治下に置かれていた奄美群島との交流もあり、こうした旧正月や旧盆の風習が廃れずに残ったとも考えられます。

また、平家の敗れた落人たちがこの島々の源流に深く関わっていた影響から、中世的な武家文化の影響も残っていました。中でも平島には「元服の儀」が伝わっており、これは毎年ではなく、適齢の子供がいる年に行われる通過儀礼的な祭祀ですが、島民総出で13歳前後の男女の青年を祝う古式的な式典でした。こちらは平家の落人が伝えた儀式ともいわれています。さらに言語にしても、北部の島々は鹿児島南部の薩摩方言が強く影響しており、南部の宝島や小宝島では奄美系の方言が残っています。また現在噴火活動が起きている諏訪之瀬島は19世紀に一時無人化し、明治期に奄美大島からの入植によって再び人が定住したため、奄美方言の特色が強く残っています。

このように簡略的に示しましたが、トカラ列島の民俗文化は日本本土系と奄美・琉球系の南北文化を混淆しながら、独自の文化を育んできたといえます。かつて下野が調査した時代には、悪石島には170人ほどの島民がいたといわれていますが、現在は頻発する地震の影響などで人口が減少し、この特殊な文化が失われる可能性も浮上しています。地震や火山噴火によって人々の移動が起きてきたある意味で見えない歴史を有する日本列島の姿。その一旦を今、私たちはトカラ列島の地震と火山噴火によって目にしていると言えます。