縄文人の夢:太陽の昇る方角を目指してDream of the Jomon People
日本特有の時代区分である『縄文時代』。未だ大部分が謎に包まれていながらも、この時代の性質は現代日本人に深い影響を及ぼし続けています。私自身、独自に日本調査を開始した8年前から最ものめり込んだのが縄文時代の調査です。現在は縄文に限らず、その日本の深部の深い理解を踏まえて、次に始まる『弥生時代』の調査にのめり込んでいますが、最近は弥生時代の交差点と言える次の『古墳時代』との裂け目において、一体古代日本で何が起きたのかを調査・思索し続けています。
この辺りの時代については未だ外国では殆ど知られておらず、また日本側でも全貌は明らかとなっていないことから、中々読者が理解に達することは難しい時代性質を有しています。例えば、元々縄文時代から弥生時代の転換期は紀元前300年頃と考えられていましたが、現在ではこの視方が大きく間違っていたことがやっと認められるようになり、弥生時代は紀元前1000年頃から始まったと大幅に修正されています。また昨今進む遺伝子解析からの文化人類学的知見でも、縄文人なる存在は固有の遺伝的特徴を有しており、他の東アジア集団では殆ど見られない極めて特異な系統だと位置付けられており、独自の文化を有する先祖にかなりの注目が集まり始めています。
縄文人の起源は未だ謎に包まれていますが、一つの可能性として東アジア系・北東アジア系の系統における『Basal(最も基底)』に位置する集団だと考えられています。これは縄文人の祖先集団が他の東ユーラシア人集団に先立ち早期に分岐して、最初期の日本列島へ移住した集団である可能性を示唆します。視方を変えれば、縄文人が主に東南アジアから東アジアへ沿岸ルートで北上した最初の現生人類集団だということです。そのため、縄文人のゲノムは台湾の先住民とも強い遺伝的類似性を示しています。
元々、遺伝子解析技術が発展する遥か以前から、縄文人が日本列島へ到来したルートには大きく二つあったと考えられてきました。それが大きく南方ルートと北方ルートですが、遺伝子解析は南方ルート側の動きが概ね当初の想定通りだったことを示しています。ただし、この単純な東南アジア→東アジア沿岸部(台湾含む)→日本列島という南から北という観点に私は疑問を持っています。むしろ台湾への移住は、後に日本列島に既に先住していた縄文人集団の一部が南下した結果、移住した可能性も考えなければならないはずです。個人的には、こちらが正しい移住経路を示していると、古い伝承などを総合的に調査する観点から想定しています。
また縄文人の祖先集団は、単純に東南アジアを経由して日本列島に移住したわけではなく、むしろ中央アジア方面でユーラシア南部と北部に分岐したことも思案すべきです。未だ縄文人の起源集団は不明ですが、もしも人類がアフリカを出てユーラシア大陸に拡散した歴史が正しいならば、縄文人の祖先集団は誰よりも先に『東』を目指して進み続けたことになります。個人的にはこの『東』を目指し続けた点が、彼らの特性を見る上での重要な鍵なのではないかと長年考えています。
一般的にはマンモスなどの大型動物の移動に準じてこの集団は東に向かったと言われていますが、私はこの視方は部分的に妥当でも、相変わらずこの先祖集団を狩猟採集の野蛮な部族程度にしか見ていない歴史観の影響を強く引きずっていると感じます。そこで私がそれ以上に注目してきたのは『太陽』です。むしろ縄文人は太陽が昇る方角を目指し続けたというかなり奇妙な集団であったというのが私の考えです。また現代的に解釈すると未知の場所に果敢に向かう冒険家でもあり、別の観点では異なる環境に順応しながら生存し続けるサバイバル能力にかなり長けていたことが見えてきます。
そして私は縄文時代の痕跡を全国規模で調査しながら、一つの興味深い考えに至りました。太陽が昇る方角を目指して進める限り東に移動した祖先集団は、日本列島に到達してもなお東を目指します。しかし、日本列島の東には広大な太平洋が広がっており、それ以上東となると北米大陸となります。縄文人は可能な限り東を目指し続け、日本列島の隅々を探査しましたが、ある時、それ以上東へ進むことはできないことを悟ったのです。当然、太平洋側から遠く離れた北米大陸は見えないため、日本列島の最初期の祖先はここが最も東だと受け入れたと考えます。
彼らは最終氷期の最盛期である約2万ー1万8千年前には、海面が現在よりも最大で約120-130m低下していたことから、ユーラシア大陸から日本列島に歩いて渡ることができました。最も現実的なルートは『北方ルート』であるシベリア→サハリン→北海道の陸路で、もう一つが『西方ルート』である朝鮮半島→対馬→壱岐島→九州北部です。北方ルートは歩いて渡れましたが、西方ルートも現在のように深い日本海に隔てられておらず、朝鮮半島から対馬はかなり浅かったため、徒歩あるいは簡易な筏などで島を伝って渡ることが可能でした。
この一方で『南方ルート』は台湾→沖縄→南九州であり、この地域は既に海であったことから、かなり高度な航海技術が要されます。この技術を縄文人がどの程度持っていたかは今も議論が続いていますが、現実的には北方と西方ルートからの渡来です。
こうして日本列島に到達した祖先集団ですが、やがて氷河期を終えて温暖化が始まります。これによってユーラシアから日本列島に到達するには海を渡らなければならなくなり、さらに大体1万年-5000年前に海面が急上昇する『縄文海進』が起きて状況が一変します。縄文海進の時代は現在よりも海面が平均で約2-5m、地域によっては6-7m高かったことが研究から示されています。これは極めて重要な視座となります。
なぜならば、現在の日本は沿岸部の盆地に都市が集中していますが、ほぼ例外なくこれらの地域は縄文時代の特定の時期には海だったからです。そのため、当時の日本列島の姿は、深い海に囲まれながら、峻厳な山脈が突然四方八方に連なる特異な景色だったことが考えられます。そのため、縄文人は急激な気候変動による環境変異によって、新たなサバイバル能力の獲得を余儀なくされ、日本列島を動き回りながら生存の可能性を探っていきました。
この時、それ以上東を目指すことのできなくなった祖先の思いは、どのようなものだったのか?そして今も私たちの遺伝子に宿る縄文人の意志は、相変わらず太陽が昇る地点を目指し続けているのでしょうか?今も日本の国旗に太陽が描かれていることは、実は縄文時代から日本人の祖先が抱いていた夢の名残と言えるかもしれません。特に第二次世界大戦以前の日本国旗は、現在とは違って太陽が昇る姿をそのまま表現していました。
それ以降、海に閉ざされた縄文人は、他集団と長期間交渉のない孤立状態にあったと考えられており、この特異な環境で独自の文化を育んでいきました。しかし、気候変動はそれ以降も多発しており、この気候変動による環境変化こそが、縄文時代の特性に大きな影響を与えており、この謎多き時代を読み解く鍵となります。
では一体、この謎多き縄文人の実態について、これまでどのように祖先の文化性質を日本は見つめてきたのでしょうか?その鍵となるのが、縄文時代という呼称の由来ともなった『縄文土器』なのです。