日本の深い文化の層への構え(見出し行なし。英語の H1 から付けた題)Approach to Japan's Deep Cultural Layers
先月末に行った調査旅では、現在の島根県がかつて出雲国と石見国に分かれ、両地域で言語や気質が大きく異なる点を示しました。実際、旧石見国側の大田市周辺の調査を行なったところ、出雲方言と石見方言の母音体系・アクセントは顕著に異なり、意思疎通が難しいと土地の人々は口を揃えて話します 。また風土から見ても、石見は海と険しい山脈にはさまれた島国の日本らしい文化圏を主としていますが、一方で出雲は広大な盆地と大きな宍道湖に囲まれ、農耕と水運を中心とする文化圏でした。さらに出雲はかつて宍道湖のみならず、現在ではかなり小さいですが神西湖も広大でした。
古代出雲沿岸部から松江周辺にかけては、弥生期以降に複数の渡来系部族が重層的に移住した痕跡が考古学から確認されており、「多部族混淆」が出雲独自の開放性と保守性を相反的に育んだ可能性があります。しかし石見の中でも大田市付近は、朝鮮半島からの主要な渡来ルートと重なっており、現在も地名や神社の奉祀などに明確に朝鮮半島からの影響が強く残っています。実際、石見沿岸部の海岸を歩いていると、海の向こうの朝鮮半島の方角から流れ着いた漂着物が多く打ち上がっている光景を私も目にしました。今も昔も、この地域の海は朝鮮半島に繋がっているのです。
こうした古層があったことは疑う余地はありませんが、さらに石見が独特な気風を形成した重要な時代があったことも見逃せません。それが、戦国時代です。
まだ各地の武将(戦国大名)による全国統一が成し遂げられる以前の1527年、石見銀山で大量の銀が発見されたことが大きな契機となります。この発見者が福岡博多の人物であったことから、この情報は当時この地域一帯までを統治し、かなりの力を有していた戦国大名の大内氏に伝わります。大内氏は本拠は福岡県博多ですが、日本海側にかけて石見銀山地域まで勢力を拡大しており、当時の大名の中でも随一の力を保持していました。彼らの豊富な財力の源は、中国・朝鮮との貿易を加速させたことによって実現されました。
そして1533年に大内氏の庇護の下で主に博多から石見銀山に坑夫や精錬師が流入し始めます。この時、外国との交易という利点を活用して、朝鮮由来の技術を駆使して現地で銀の精錬が行われ始めるのですが、これが日本国内における多方言接触の中心地となり、後の時代にかけて大きな影響を及ぼしていきます。ただし、当時は戦国時代であったことから、この大内氏が占有する石見銀山を巡る戦乱が多発しており、特に1530年代末から1540年代にかけて激しい争いが続きます。そのため大内氏は、石見銀山周囲に複数の城を築城し、新たな力の源泉である銀の占有を続けたのです。
ただ1550年代の内紛によって大内氏が滅亡すると、今度は出雲を本拠とする戦国大名の尼子氏が石見銀山を掌握します。しかしその覇権も長く続かず、1562年には石見南部に位置する安芸地域の大名・毛利氏が圧倒的な力で石見銀山の支配に至ります。このように銀を巡る戦国時代のヘゲモニーの移行が、戦国時代らしく次々と移り変わっていくのですが、やがて1580年代には毛利氏が日本統一の筆頭格となる豊臣氏の支配下に入ったことで、石見銀山の覇権は豊臣氏へと移ります。
ただまたしても、今度は豊臣氏の最有力大名であった徳川家康が反旗を翻し、1600年の内戦に勝利して豊臣氏を滅ぼしてヘゲモニーが移行します。最終的に徳川家の覇権が江戸時代を築くことになるため、ここでヘゲモニーの移行は初めて安定します。特に徳川家康が江戸幕府を開いて以降、国内の金銀鉱山を大名から接収する措置を取ったことで、石見銀山の実権も徳川家=江戸幕府に移行します。これ以降、石見には各地からの移住者が大勢増えたと土地では伝えられており、私も調査で土地の高齢者や寺院の僧侶から詳しく話を伺い、そうした歴史があったことを確信しました。
このように統一国家としての日本、さらには『日本人』という一つの括りがイデオロギー的に樹立される明治以前には、現在の47都道府県として統合される以前の大きな文化圏の差異が蠢いており、理解することがかなり難しいのです。つまり、『日本文化』なるものは実際には存在しないということです。ここが要点です。
そこで視点を大阪に移します。今日の大阪府は2025年5月1日時点で総人口が約877万人となっており、西日本の最大都市です。京都や奈良へのアクセスが良好な優位性を持つことから、観光客は大阪に来訪することが多いのですが、大阪の文化圏の差異について理解する人に今のところ会ったことはありません。実は大阪を読み解く際に重要となるのは、かつて三つの大きな国(地域)による異なる文化圏があり、その飛び地として空洞化した特異な地域から構成される4つの力学があったことです。それが摂津国・河内国・和泉国という三つの文化圏です。
簡略的に示すと、大阪北部の摂津は兵庫南東部・京都南部と隣接し、古来より交通と政務の要衝でした。そのため、現在の大阪人の気風という観点から見ると、かなり異なる文化圏であり、むしろ兵庫や京都からの影響も強く受けています。大阪東部の河内は、大和川流域の農商複合地帯で、独特の河内方言や祭礼文化に特徴があります。河内は大和川流域の交易を活用する地域であったことから、平安京以前の主軸であった大和との文化的混淆があります。そして南部の和泉は港湾と漁労を基盤とする泉州文化が核となっており、アクセントが鋭く語尾変化が多彩とされ、大阪の中では最も気質が荒いことで知られています。例えば岸和田に代表されるだんじり祭りなどがその筆頭格です。
こうした三つの異なる文化圏が今日の大阪を作り上げることになるのですが、この三つの国の交差点に飛び地が生まれ、その空洞地帯から独自の文化圏が生まれます。それが、私の故郷でもある堺です。堺は語源を辿ると現在の『堺』よりも『境』を意味し、これは境界線を表しますが、ある意味、三つの国が対立しない結界的役割を担っていたということです。この堺の存在によって摂津・河内・和泉の対立は緩衝されていたと私は考えています。この境界都市・堺が加わる四重構造こそが、現在の大阪を理解するための基礎です。
堺は室町後期には『会合衆』と呼ばれる自治組織が成立し、自治統治を行う自律的気風を持つ人々が住む地域でした。堺の都市構造は、織田信長の城郭化・港湾強化を経ても自律的体制を維持し、港を他国との貿易拠点として先端の技術や文化が流入する重要な場所でした 。また大阪の中心部とも言える堺の立地は、南海・北陸・瀬戸内を結ぶ海路と、大和・京都へ至る陸路が交差する物流のハブであったことが、堺に独自の「開放的保守性」をもたらし、後に絶大な力を獲得する源泉となります。
つまり、堺から南へは泉州を経て高野山・和歌山へ、北へは摂津を通じて豊臣秀吉の大坂城から京都へ、東へは河内を抜けて大和へと通じる道が整備され、日本で一番栄える戦国大名にとっては絶対に味方にしなければならない要所と化します。ここで注意が要されるのは、現在の堺市は当時から比較するとかなり広範囲に拡大されていることです。本当の京都という結界を巡らせた小さな地域があるように、本当の堺も結界を巡らせた沿岸部の僅かな地域に限られます。そして今でも地名が古層の名残を伝えています。例えば、三国ヶ丘という堺の地名は、この摂津・河内・和泉が交わる丘の意味です。さらに方違神社は『方を違える』ことで災いを避ける意味を持ち、三つの国の境目で進路を選ぶ道標のような存在として、人々にとって重要な役割を果たしてきました。
日本に限らず、こうした視点を基本に訪れる場所を見ることで、初めて文化の深い理解に到達します。この時、根本的な心構えとして私が伝えているように、日本文化、日本人、さらには日本という単一概念はないと見ることで、単なる旅行者とは違う豊かな経験を得ることができるでしょう。