京都の夏越の祓(見出し行なし。英語の H1 から付けた題)Nagoshi no Harae in Kyoto
今日は昨日に引き続き『夏越の祓』について見ていきます。今回の記事では、以前私が京都で夏越の祓の神事に来訪した際に撮影した写真とともに、その様子をお伝えしたいと思います。
まず、明治以降は基本的に新暦の6月30日に行われる夏越の祓は、1年の半分が過ぎた節目にこれまで蓄積した『穢れ』を祓い、心身を健やかに整えて、残りの半年をしっかりと生き抜くための重要な神事です。そこを昨日は、detoxifying spiritual impuritiesと提示しておきました。そこで神事が行われる当時の様子を写真と共に見ていきましょう。
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こちらは北野天満宮ですが、このように夏越の祓に欠かせない境内に設置する『茅の輪』の素材となる植物が丁寧に置かれています。この茅の輪に用いられる植物は伝統的に『チガヤ(茅)』という日本全国に自生する植物が用いられるのですが、こちらは他にも伝統的な日本家屋の屋根材や茅葺に幅広く使用されてきた日本人に馴染みの深い植物です。古来よりチガヤは神聖な植物の一つと考えられ、特に魔除けや厄除けの効果があるとしてライフスタイルに広く用いられてきた歴史があります。ただし、チガヤを用意できない地域は形状や質感が似ているススキやアシなどで代用することもあります。
基本的にこれらの植物から茅の輪が制作され、制作された茅の輪は参拝者が境内に入る入り口などに設置されます。これは鳥居などと同様にこの時期だけ作られる結界を表します。
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夏越の祓の背景にあるのは、平安時代に京都の朝廷を中心に、夏に盛んに発生する疫病への対策として、厄除けや悪霊退散を目的とした祭祀が数多く行われたことに由来します。その背景から、現在でも平安京があった京都周辺の神社には、当時の古式を継承した作法が部分的に残っています。明治以降は各地の神社でも夏越の祓が広く定着するようになりますが、基本的に祭礼は明治政府の主導によって統一されているので、どこに出向いても大体同じです。簡略的に伝えると、まず境内に『茅の輪』が設けられ、神主が大祓詞を奏上した後、最初に神職たちが輪をくぐります。その後、参拝者たちが八の字を描くように3度茅の輪をくぐることで、厄を祓うとされています。
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こちらは拝殿の清浄な境内に設置された茅の輪に向かい、北野天満宮の神職が大祓詞を奏上するシーンです。
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このように大祓詞の奏上を終えると、神職が最初に茅の輪を潜ります。当日は、この祭礼が行われる以前に参拝者は茅の輪を潜ることは禁じられています。
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神職が茅の輪を潜ると、境内を大きく周り、そこに参拝者たちが続きます。このようにして参拝者は清められた茅の輪を潜り、作法に基づいて祭礼を終えることによって半年間の穢れを祓い、そこから拝殿に移動して本殿に祈りを捧げます。これが夏越の祓の神事を行う一般的な祭礼の流れです。
ただし、北野天満宮のように大きな神社以外は、ここまで大掛かりなことはできませんから、小規模に土地の人々だけを集めてひっそりを行ないます。6月30日に京都市内の神社を歩いていると、所々で見かける光景です。また北野天満宮の夏越の祓は午後16時に行われることから火を使用しませんが、別の小さな神社では火を焚き、神職の言葉を参拝者たちが聞く姿を見ることもできます。こちらがよりローカルな神事といえるでしょう。
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そもそも本来の日本の「祓」には、火の使用が密接に関係していました。この点は今日では仏教の『護摩』の影響などを鑑みる必要はあるものの、古来より神道においても火は神聖な要素として考えられてきました。実際、古事記ではイザナミ(伊耶那美命)が黄泉の国へ帰る背景として、火の神であるカグツチ(軻遇突智神)を生んだ時に火傷を負ったと記されており、この神話的背景が穢れに由来すると考えられています。
中でも、神道の祓に欠かせない塩と火を用いて、夜間に夏越の祓が行われる古法を継承している神社として有名なのが、京都・上賀茂神社です。
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上賀茂神社では、日が暮れてから境内を流れる川に設置された松明に火がつけられ、その場で神職たちが様々な祭礼を執行した後、『人形(ひとがた)』に見立てた紙を川へ流すことによって、穢れを代理的に祓うという風習が今も行われています。
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このように神職が祭礼を行った後、人形の紙を下を流れる川に流していきます。
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このように「厄除け」や「祓い」という行為は、古代日本だけでなく世界各地の宗教文化において存在してきましたが、個人的に思うのは、半年で蓄積された穢れを除去するだけではなく、その穢れの原因と真摯に向き合って内省する機会の創出こそがこの神事の本義にあるということです。
特に現代のように誰もが慌ただしい生活を送る時代では、より一層、この自分自身と向き合う内省の機会が失われており、日本人にとっては神道の祭祀を通じて少しでも内省する現代的な役割を持っているとも感じます。私も日常的には夜間に静座を行い、内省をして心身が乱れないように常に配慮していますが、穢れは古来の性格に限らず、現代では大量の情報、食事の質の劣化、環境毒など逃れることができないほど多面的です。
歴史は生き物のように変化し続けます。一体、神道の神事が伝える現代人への本質的なメッセージは何なのか?私の探究はいつもそこに据えられているのです。