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小津安二郎『彼岸花』と日本のカラー映画Equinox Flower Unveils Yasujiro Ozu's Vibrant Vision in 1950s Japan

読者の皆様は、小津安二郎の映画をどれくらい見たことがありますでしょうか?彼の名作『東京物語』(1953)は世界的にも知られており、高く評価されていますが、今回おすすめしたいのは、1958年に発表した『彼岸花』です。そこで簡潔に1950年代の日本のカラー映画の背景を絡めながら、なぜこの作品が素晴らしいのかを従来とは異なる角度から見ていきます。

『彼岸花』は、小津が手掛けた初のカラー映画として知られており、彼の美学的こだわりと時代の要請が絡んだ重要な作品です。サイレントからトーキーへの移行など、新たなテクノロジーの採用に慎重だったと言われる小津は、基本的に松竹で制作し続けましたが、この作品は別の大映から当時の大スター女優である山本富士子の起用が重要なファクターとなります。この時、大映側から「山本富士子を使うならカラーで」という条件が出たことで、初のカラー映画に踏み切ります。なぜ、大映はこのような条件を出したのでしょうか?

戦後の1950年に行われた第一回ミス日本に満場一致で選ばれた山本富士子は、まさに敗戦から立ち直る時代の新たな日本人像として注目されます。彼女自身は女優になるつもりはなかったようですが、映画会社の激しい争奪戦の末に1953年、ついに大映に入社したことで人々を驚かせます。初作品はモノクロ映画の『花の講道館』(1953)でしたが、この時、戦後日本女性の象徴として彼女を売り出したい大映は、従来のモノクロ映画における女優イメージを刷新するために、急速にカラー映画の研究を始め、その代表的女優として山本を育てていきます。

日本映画では、1951年に同じ松竹の木下恵介が『カルメン故郷に帰る』で日本初のカラー映画を発表していましたが、正直、色調表現は見事とは言い難く、木下は碌な研究もせずに使用だけが先走ったように個人的には感じています。色調への拘りが人一倍強かった小津は、当時のカラー映画が自身の美的要求に達しないと判断し、カラー映画時代に入っても引き続いてモノクロ映画を制作し続けました。

ただし小津は、新たなテクノロジーを安易に拒んだのではなく、実際には自身の採用水準に達するまで、信頼するスタッフと共に研究する日々を送っていました。カラー映画の採用に大映側の要望があったことは事実ですが、それ以上に小津映画の長年の撮影監督であり、最も信頼の厚い厚田雄春からの強い勧めがあったと伝えられています 。小津は特に「赤の発色」を重視していたことから、従来のカラー技術でそこに対する不満が残っていました。しかしここでドイツ製のアグファカラーを採用したことで新境地を開きます。

1950年代当時の日本でカラー映画は次々と制作されていましたが、基本的には富士フィルムのフジカラーやアメリカのイーストマンカラーが採用されていました。例えば『カルメン故郷に帰る』(松竹)はフジカラーを採用していますが、カラー映画を積極的に取り入れて大きな影響を及ぼしたのが大映です。大映は松竹による『カルメン故郷に帰る』以降、国内他社が国産のフジカラーを使用する傾向に対して技術的な見切りを早々につけて、当時米国の最新方式であったイーストマンカラーを取り入れて、大映の初の全編カラー作品である衣笠貞之助の『地獄門』(1953)を発表します。これ以降、意欲的に研究・使用を続けたカラー映画の先導的企業が大映で、のちに『大映カラー』と呼ばれる見事な色調表現を実現します。特にこの潮流に合わせて東洋現像所が1953年にイーストマンカラーの現像処理工場を完成させたことで、一気にカラー映画時代が到来します。象徴的な成功は、大映から発表された吉村公三郎の『夜の河』(1956)です。こちらの主演が山本富士子で、京都の伝統的な『京染』を舞台とした作品は、色調の豊かさから国内外で大きな成功を収めました。

同時期に大映は、ドイツのアグファカラー・システムを国内でいち早く導入しており、1956年にアグファカラーを使用した佐伯幸三の『午前8時13分』を発表します。この赤系の発色が見事なアグファカラーに衝撃を受けた映画関係者は多く、小津映画に欠かせない厚田雄春もその一人でした。こうしてカラー映画で先行する大映に対して遅れを取った競合他社でしたが、松竹は小津がアグファカラーを用いた『彼岸花』で開花します。そもそも彼岸花とは、日本の秋の『お彼岸』の時期にだけ咲き誇る鮮やかな赤い花のことです。この時期になると田んぼの付近や墓地で多く見られ、独特の気持ちになるのですが、別名は『曼珠沙華』と言い、こちらはサンスクリット語の「赤い花(manjusaka)」を意味することから命名されたと言われているように、仏教色の強い花です。

こうして小津は彼岸花の色をモチーフにアグファカラーを採用し、映画『彼岸花』の中でこの色を見事に表現します。劇中の至る所に赤い湯呑みや座布団、ヤカン、ラジオといった赤色の小物類がさりげなく登場し、画面を彩っていますが、特に作品の宣伝写真にも使用されている着物姿の山本富士子の帯の色に注目してください。

これは厳密には赤というよりも日本では朱色と呼ばれますが、この落ち着いた朱色がかった赤茶けた色調が特徴のアグファカラーの発色が、小津の意図通りに作品世界と調和したことで、以後は『小津の色』として定着する独特の美学を築きました 。小津は同作で美術面でも細部まで念入りに準備をしており、『彼岸花』のセットでは、従来の家の間取りよりも画面構図の美しさを優先し、異常に長い廊下がある家屋のセットが作られています 。また、衣装や調度品の色合いにも徹底して気を配り、衣裳用の生地サンプルや襖紙の見本などを用意して色彩設計を行った記録が残っています 。こうした周到な準備からも、初のカラー作品となる本作に懸ける小津監督の意気込みが感じられます。

ここまでは日本カラー映画史の常識とも言えることですが、個人的に『彼岸花』に強く感銘を受けたのは、娘・有馬稲子の母役・田中絹代の演技です。作品は娘が親に相談せずに勝手に結婚を決めたことで、父・佐分利信の機嫌が損なわれていくストーリーですが、この時、わがままを言う佐分利信の姿に対して、田中絹代が堂々と立ち向かう姿が忘れられません。というのも、実は日本映画において佐分利信と田中絹代の共演はこれまでに何度もったのですが、二人の映画における関係性にもストーリーがあるからです。ここを見事に捉え、素晴らしい俳優の二人に敬意を示したのが小津の『彼岸花』だとも言えます。

佐分利信と田中絹代は、1930年代中期頃から1940年代に数多くの映画で共演し、恋人役や夫婦役など、さまざまな関係性を演じてきた戦前の日本映画の主軸です。ただ傾向としては佐分利信に振り回される田中絹代という印象が強く、さらに戦後になると二人の共演はなくなります。こうして久しぶりに二人が共演することになったのが『彼岸花』ですが、この二人の関係性を戦前から追って見ていくと、この作品に込められた想いが見えてくるだろうと思います。代表的な作品では、初共演を果たした五所平之助の1936年『新道』に始まり、島津保次郎の『男性対女性』(1936)、野村浩将の『男の償ひ』(1937)、『愛染かつら』(1938)、『絹代の初恋』 (1940)、『女医の記録』(1941)などがあります。

この時代は日本映画最初の黄金時代であり、佐分利信と田中絹代に限らず、上原謙、佐野周二、徳大寺伸、桑野通子、三宅邦子、水戸光子、高峰三枝子、川崎弘子など多くの名俳優が登場しました。しかし、ほとんどは戦前までの活躍に留まり、戦後に至るまで第一線で活躍し続ける俳優はかなり限られていました。そんな中、佐分利信と田中絹代は激動の時代を生き抜き、素晴らしい俳優人生を送るのですが、こうして紆余曲折を経て再共演した二人の姿を改めて見ると、深い感激に浸ることができます。そして何より、『彼岸花』が二人の最後の共演作品でもあるのです。

小津安二郎の映画は時にテーマが単調だと批判されることも多いのですが、しっかりと全作品を見続けることで、いかに彼が作品ごとに激しい格闘を行い、見事な映像表現で自身の限界を突破し続けたかがよく分かります。読者もまとまった時間があれば、ぜひ一度は小津作品を全て見てみることをお勧めします。