ヤクザの源流(2):ごろつきから近代ヤクザへFrom Outlaws to Modern Yakuza
前回、日本のヤクザの源流にある興味深い歴史を民俗学者・折口信夫(1887-1953)の調査を踏まえて見てきましたが、ルーツの『ごろつき』は激動の幕末から明治維新期にかけて、どのように生き延び、近代日本のヤクザ社会を形成する原動力となったのでしょうか。今回はその辺りを見ていきます。
かつて日本には、定住せずに村落社会の周縁で生きる『無頼/無頼漢』と呼ばれた人々が存在し、山間を渡り歩きながら深い文化的影響力を保持していました。しかし彼らは正統な歴史には登場しないことが多々あるため、中々実態が掴み難いことも事実です。そうした中で折口は、戦国時代までの武将たちは「ごろつき」の力を傭兵として盛んに利用していたと指摘し、武将たちが全国統一を掲げて争う時代に彼らは必要不可欠な存在だったことを初めて明らかにします。 Shitsuraeでは大阪府の堺市に居た商人たちを味方につけることが全国統一の実現に必要不可欠だったと書きましたが、もう一つのファクターは『ごろつき』を抱えることでした。つまり事実上、各地に存在した「ごろつき」を従える武将こそが、ヤクザの源流とも言える存在です。
しかし徳川家康が全国統一を果たした江戸時代に入ると、武力よりも学問復古を体制樹立の根幹に据えて町人文化の活性を促したことから、「ごろつき」は活動を強く制限されていきます。幕府、さらには藩を統制する諸大名は、彼らの活動を厳しく抑え込むことで治安維持を図ったからです。その結果、存続を図るべく彼らは江戸時代を通じて『芸能者(旅芸人)』や『売色業(遊女・遊客)』、『博徒・侠客』、『口入れ屋(職業斡旋人)』などと多様に変様しながら、時代を見事に生き延びていきます。折口によれば、「ごろつき」は公の歴史からはみ出しつつも、庶民社会の中で独自のモラルとネットワークを築き上げ、文化的伝統の一部を成してきたと主張していますが、まさに庶民社会を洞察する際に注視しなければならない影の存在となります。そこで注目すべきは、社会が不穏化する江戸時代後期です。
この頃、各地で飢饉や自然災害、さらには社会変動が続発したことで、生活不可能な状態に追い込まれた人々は、『人別帳(住民台帳)』から脱落した『無宿者』と呼ばれる存在に転化していきます。主に被害の大きかった村落地域の農村で多かったのですが、幕府は彼らを取り締まろうとするも、既に政治的安寧に浸った時間が長すぎたこともあり、有効な対策を打てずに、一部では前科者の社会復帰を黙認しなければならない始末でした 。こうして町や村に定住せずに『無宿』となった者の中から、やがて『盗賊』や『博徒』の集団に身を投じるアウトローが生まれる時代に入ります。この傾向は特に18世紀以降に起きており、各地で無宿者が徒党を組んで賭場を開き、徐々に武装した『博徒』へと変貌していきます。
博徒は賭博という非合法な稼業を持つことから、自衛のために武装し、暴力を背景とする『任侠道』を自らの誇りとします。そして『親分・子分』の擬似的な親子関係に基づく一家(後のヤクザの組です)を組織して、自らの縄張り内で賭場を運営するといった独自の秩序を築きます 。こうした博徒・侠客のネットワークは、19世紀に入る頃には全国に広がり、庶民の間では『弱きを助け強きをくじく』人々として、美談の主人公にもなり、体制に不満を抱える人々の間で強い人気を集めていました。彼らの一部は庶民(特に農民)の実態を見ようとしない体制(幕府や藩)への反発を露骨に表明しており、飢饉があった際には自ら農民救済を行うなど、庶民の信頼が厚かった事実もあることには要注意です。彼らは単なる悪者でも社会悪でもないのです。そして、再び彼ら「ごろつき」にルーツを持つ人々が躍動する新時代が始まります。
幕末にかけて、幕府の権威失墜と地方の下級武士を中心とする尊王攘夷運動の激化によって治安が悪化すると、大きく時代は幕府側と倒幕側に分裂して互いに争ったことから、誰もがアウトローたちを利用し始めます。それまでは『長脇差』を持つ程度だったアウトローたちは、今度は鉄砲で武装した任侠集団へと発展していき、動乱期の即戦力として双方と利害が一致して共闘を始めます 。
結果は倒幕を掲げた長州藩・薩摩藩側の圧勝に終わり、徳川幕府は解体、彼らは明治新政府を樹立します。すると江戸時代の幕開け同様に、治安維持と中央集権を強める体制的観点から、またもや無宿者や博徒に対する取り締まりに本腰を入れ始めます。この背景には、自由民権運動が高揚する1884年頃、各地で貧困化した農民たちの蜂起が頻発しており、その首領に博徒の親分が加わっていることが問題視されたことがあります 。中でも大きな蜂起であった埼玉県秩父の農民と士族が政府に反発した『秩父事件(1884)』では、「秩父困民党」を率いた田代栄助は、200人以上の子分を抱える侠客の親分であり、社会的弱者を助ける正義感から蜂起に身を投じて農民たちと新政府に対峙しています。
田代のように民衆側に立った任侠もかなりいましたが、政府はこうした人物を政治犯ではなく強盗殺人犯として処刑し、彼らの存在自体を闇に葬り去りました 。そして同年、明治政府は突如「賭博犯処分規則」を公布して全国の博徒を一網打尽にし、大規模な取り締まりを断行します 。この一斉摘発により、幕末以来のアウトロー勢力は壊滅的打撃を受け、維新動乱期に活躍した博徒たちは、正史から完全に姿を消すことを余儀なくされたのです 。事実、日本の歴史で彼らが登場することはありません。
明治中期以降になると、生き残った任侠の人々は表向き姿を消したかに見えましたが、実際には新たな局面で社会と関わり始めていました。特に自由民権運動が弾圧された後、今度は政府与党が任侠の暴力性に目を付けて政治的に利用し始めたことが大きな転換点となります。これが後に近代ヤクザが政治に深く入り込む大きな原因となりました。1892年の第2回衆議院総選挙では、当時の松方正義内閣が体制維持のために全国的な選挙干渉を主導したのですが、この時、大量のヤクザを動員させたことが知られています。動員されたヤクザたちは民権派の集会を襲撃、乱闘騒ぎを起こし、各地で死者25名・負傷者388名が発生する暴力選挙となりました 。ここで松方に依頼されてヤクザを動員し、明治以降の政治に深く関与することになる代表的人物が、戦前の右翼の代表である頭山満(1855-1944)です。
次回は、近代ヤクザの創成について書いていきます。