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大阪の気風と堺の歴史Osaka's Merchant Spirit and Today's Tourist Surge

昨日、3ヶ月ぶりに大阪の難波から心斎橋辺りに出掛けたのですが、オーバーツーリズムが過度に達しており驚きました。この様子はパンデミック以前を超えているようにも感じますが、かつてと大きく異なる点は旅行者の顔ぶれの変化です。2019年頃まで大阪のオーバーツーリズムを主に形づくっていたのは近隣のアジア諸国からの旅行者でしたが、最近は顔ぶれが大きく変わり、世界各地から訪れる大量の旅行者が中心で、私もどこの国の人々か分からないほど多様で混沌とした状況です。そのため、既に大阪人は雰囲気が一変した都市部に出ることを避けています。オーバーツーリズムは世界各地で諸問題を引き起こしており、日本でも『21世紀の公害』と呼ばれますが、そこへの批判、さらには円安などの関連問題は他の論者が豊富に論じているため、今回は独自の視点から考察します。

まず読者は、京都や奈良へのアクセス拠点となる大阪が、どのようにしてオーバーツーリズムの主要拠点の一つになったかご存知でしょうか?これにはいくつか面白い歴史があるのですが、今回はまず一つの興味深い要素に焦点をあてます。そもそも大阪は、主要観光地である大都市・東京、歴史の京都や奈良、スキーの長野や北海道、美しい島とビーチを有する沖縄と比較すると、目立った観光資源はありません。しかし、不思議なことに旅行者数で見ると、大阪は全国有数規模を誇ります。そして現在では、多くの旅行者が東京や京都など主要観光地に比べて、大阪の人々は社交的で接しやすいという印象を随所で語っていますが、これについて歴史的な角度から見ていきましょう。きっと、単なる一時的なオーバーツーリズムの中の旅行者の一人ではない、異なる視点で大阪を楽しめるはずです。

これはあまり知られていませんが、江戸時代頃から、日本には『京都十代、東京三代、大阪一代』という有名なフレーズがあります。これは、京都人になるには10世代かかり、東京(かつての江戸人のことで今は無関係)は3世代、大阪は1世代という意味で、古くから主要都市であった三つの地域の中では、大阪が他者を受け入れる気質と土壌があることを物語ります。実際、大阪の人々は他地域と比較しても、かなり社交的であることは日本でも知られていますが、この背景には、元々地域の特徴として、商人が大きな力を持っていたことが強く関係しています。あえて過去形で語るのは、現在ではそうではなくなっているからです。

特に私の故郷である大阪の堺市は、侍が全国統一を掲げて争う戦国時代にあって、全国で唯一の自治都市として機能していた独立心の強い地域です(もう一つの自治区も大阪の平野です)。この背景には、堺港に寄港する南蛮船など諸外国との貿易拠点、金と物資の集積地、さらには現在まで続く刃物(かつては侍の刀)、鉄砲の製造などが関係しますが、特筆すべき点として優れた商人が多く居住していました。この時代、商人が侍に武器や物資を売るには、当然ながら注意すべきことが多くありました。何しろ相手は武力を司る侍であり、プライドも高く、一つでも間違えて相手の機嫌を損ねては、身の危険に繋がります。こうした緊張感の中で表に裏に台頭してきたのが堺の商人です。やがて彼らは荒々しい侍を自分たちのペースで懐柔し、物資を売り捌くため、商談をまとめる有効な手段として茶道を大きく発展させて積極的に活用します。ここから登場したのが、堺の商家に生まれ、侘び茶の開祖となった千利休です。現在の形骸化した茶道とは異なり、茶道と商人は切り離せない関係にありました。

さらに堺という地理的側面を見ることで、当時の状況が理解できます。かつて大阪は、摂津国、河内国、和泉国という三つの大きな国に分かれており、それぞれ全く異なる気風を持ちましたが、堺はこの三つの国の境界に位置する地政的要所でした。これは『堺』という漢字に残っていますが、『堺=境』とは『三国の境界』を意味します。つまり、摂津国、河内国、和泉国のいずれにも所属しない自治的意志を強く持つ地域でした。一つだけ注意点は、現在の堺市はかなり大きく設定されていますが、当時の堺(本当の堺)は沿岸部の小さな区画に限定されることです。特に侍にとっては、必要不可欠な刀に加えて、新たな武器である鉄砲の製造拠点でもあったため、堺を制覇することは、そのままイコールで全国統一につながります。さらに南蛮人と呼ばれたヨーロッパの宣教師が持ち込む地球儀や望遠鏡などの流通拠点でもあり、これらをいち早く取り入れることが全国制覇の要点でした。事実、徳川家康は望遠鏡を取り入れて、相手の軍勢の動きを見ながら戦略を立てました。

しかし堺の人々は元々独立、自治の気風が強かったこと、さらに商人の歴史で形成した全国一の巧みな話術により、中々特定の侍に屈しません。この態度に剛を煮やし、武力と政治的圧力によって強硬策で堺を征服したのが、初の全国統一目前に迫り、破竹の勢いを有する愛知の侍・織田信長です。この辺りは、北野武の『首』(2023)でも触れられているため、興味があれば観賞すると理解が進むでしょう。

さらに堺は多くの独自文化を生み出し、商人を経由して京都に文化を売ることで大きな影響力を獲得。『ものの始まりなんでも堺』という言葉があるように、多くの日本文化が堺から生まれます。しかし、狡猾な織田信長の戦略に屈して以降、事態は急変します。その覇権は続く豊臣秀吉に移行し、そこで豊臣秀吉は堺に近い場所に大阪城を築くことで、権力の集中化を図ります。これは地政的に見ると、大阪城から南に武力の源泉である堺、北に天皇や貴族が居住する京都を同時に抑えるための意図もありました。そして最終的には、全国統一を成し遂げた徳川家康によって完全に制覇されます。東の江戸に幕府を開いた徳川家にとって、安泰した体制を形成するには、堺を織田や豊臣のような抑圧的支配ではなく、適度に支配下に置き続けながらも比較的自由を許容する必要がありました。そしてしばらくその政策が効果を見せた時、ついに貿易という堺の重大要素を骨抜きにする鎖国政策を実施。これ以降、海外貿易は遠く離れた長崎に限定されたことから、堺は大きく衰退します。

そして堺の息の根を止めたのが、第二次世界大戦です。大阪全土が米軍の空襲で焦土と化し、商人の気風によって大発展してきた大阪は、完全にリセットされます。この空襲がなければ、オーバーツーリズム時代において、堺は京都を挟んで北の金沢、南の堺と呼ばれるほどの歴史観光地であったと個人的に考えています。しかし、いくら戦争が街を焼き払っても、歴史が育んできた人々の気風は消せません。ゆえに、戦後も大阪人は商人の力を再び発揮し、あっという間に大繁栄の時代を迎え、2000年代頃まで、東京に対抗する西の要所として栄えてきました。戦後、主に西日本(特に九州)の人々が仕事を求めて大阪に集まりますが、ここで大阪は一代と呼ばれたように、地方出身者でも馴染みやすかったことから移住者が増加します。私の祖父母も、この時代に地方から大阪に移住しました。

まずは端的に大阪人の気風を見てきましたが、今後機会があれば、この気風がオーバーツーリズム時代に作用した2010年代の動きについて書こうと思います。なぜならば、この波に乗り遅れたのが、京都だったからです。