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ヤクザの起源 ごろつきと折口信夫Gorotsuki Roots of Japan's Yakuza

ヤクザ。この名前を聞いたことのある読者は多いでしょうが、実際に見たことのある人はいないでしょう。私は元々ヤクザが多い地域の大阪生まれですから、20年ほど前までは近くに事務所があり、それなりにヤクザを見る機会もありました。しかし、現在のヤクザは、かつての固定概念から脱しており、事務所の多くは閉鎖され、日常的にはビジネスマンと見分けがつかないため、日本でも誰がヤクザかは判別できません。では一体、このヤクザという存在の起源はどこにあるのでしょうか?実はその歴史が非常に興味深いので、今回から何度かに分けてお伝えします。

まず、ヤクザの源流には『ごろつき(無頼漢)』という存在があります。これは稀有な洞察力を持つ民俗学者の折口信夫(1887-1953)の調査によって知られるようになりましたが、彼によれば、一般的に社会の悪者のように疎まれる「ごろつき」ですが、かつて日本の歴史にはごろつきが社会の大きな要素を占め、さらには芸術運動にも大きな力を及ぼした時代があったと言います。例えば有名な日本文化の歌舞伎なども源流はごろつきです。折口は、この「社会のはみ出し者」は単なる悪党ではなく、時代の変革期に文化や秩序の形成に関与していた重要存在であると考え、全く異なる視座から提唱します。

折口信夫の論考「ごろつきの話」(1930)によれば、ごろつきが歴史に姿を現しはじめたのは中世の鎌倉期(1185-1333)です 。鎌倉中期頃から各地に現れ始めたごろつきは、室町時代(1336-1573)を経て、戦国時代(1467-1615)に最も活動したと指摘しています。この侍たちによる戦乱の時代、彼らは野武士や浪人として各地を流浪する「どこにも所属しない集団」であり、ときに武将に取り入って傭兵的な役割を果たし、戦国武将の全国統一に大きく寄与します。ある意味、武将は他の武将を倒すためには、この集団の力を取りまとめる能力が必要だったのです。

折口は、戦国時代にはごろつきの中から破格の出世を遂げた者もおり、実際に後世の大名や華族の中には、「この頃のごろつきから出世したルーツを持つ者」が少なくないと述べ、大きな衝撃を与えます 。戦乱期は象徴的な豊臣秀吉のように、出自を侍ではなく農民に持つものが躍進できる特殊な時代であったことから、流れ者やごろつきが成り上がる機会が生まれ、やがて武士階級に組み込まれる例もあり、社会流動性の一端を担ったのです。しかし、そうした機会にも恵まれなかった者たちは、戦国時代を終えて統一された徳川幕府による三百年の時代には一転して不遇となります 。これは江戸時代には中央集権的な統治により治安維持が行われ、ごろつきは表立って活動できなくなったからです。

折口信夫は、ごろつきの源流をさらに時代を遡って考察しており、古代から各地を巡り歩く漂泊の民が存在し、これらは『うかれ人』と呼ばれていたことも特定しています 。彼らは異国由来の信仰や芸能(歌舞や人形劇の起源)を携えて諸国を流浪しながら、後には交通の要衝に定住して芸能などを営むようになったといいます 。実は、近代ヤクザの起源も「芸能」にあり、しっかりと歴史的な変遷が影響しているのです。この芸能とヤクザの関係を知ることによって、昨今日本で様々な騒動が知られている諸問題も理解が進みます。

さらに彼らの中には、中央集権化の過程で職を失った神社の下級神職や、重い年貢から逃れるために村を出奔した農民たちが合流しており、普段は山林に潜みつつ各地を渡り歩くようになります 。さらに平安末期以降になると、困窮した仏僧や陰陽師、修験者など様々な呪術を駆使する人々が続出、それまで別個だった漂泊集団が次第に混ざり合り、不思議な独自文化を形成します 。特に平安時代を通じた貴族政治や寺社勢力の衰退に伴い、それまで寺社に属して芸能奉仕していた人々が解放され、所属していた寺社の信仰や芸能を武器に放浪の旅に出て稼ぎを求めました 。こうした出自の多様な漂泊者集団が混淆し、同化する中で、激しい生存競争をくぐり抜けていった者たちこそ、やがて「ごろつき」と呼ばれる集団を形成したのです。

以降、侍の傭兵などとして活躍したごろつきたちは、江戸時代に入ると社会が安定したことで存在意義を失い、今度は存続をかけて「無職渡世」という「定職のない渡世人」などと自称します。ここから生まれたのが『博打打ち』です。この博打打ちは芸能の発展形態の一種であり、近代ヤクザの源流において重要な存在ですが、これを『侠客』と呼びます 。侠客とは博徒(博打打ち)などの世界で義理・人情を重んじる“任侠”とも呼ばれますが、日本映画でもこの題材は昔から人気があり、1960年代中盤から俳優の鶴田浩二、高倉健がスターダムに上り詰めた主要要因ともなりました。実は任侠の実態は、歴史的なごろつきが看板を掛け替えたものだったのです。

注目すべきは、博徒などの世界では、「親分・子分」の主従関係が大きく機能したことです。折口はこの親分・子分制度について、源流には農村社会の「親方・子方」の制度(有力者の家が若者を養子同然に預かる慣習)があると述べています 。村落共同体で育まれた擬似家族的な紐帯が、故郷も家族も持たないごろつきの組織作りの基礎となったのです 。事実、江戸時代に勃興した町人社会でも、旗本や大名屋敷に人足を斡旋する新たなビジネスを生業とする『町奴(町方のごろつき)』が誕生し、こちらもヤクザのルーツとなります 。彼らは主に土木作業などの労務提供を口実に子分たちを集めて生活させ、その見返りに地域では顔役の「親分」として君臨する場所に根差した統治形態が各地で生まれます。各地の侠客は今日のヤクザのイメージとは大きく異なり、むしろ町人からは体制圧力に抵抗する英雄と仰がれ、強い信頼を獲得していました。これが近代に入り、各地でヤクザ組織が独自の支配圏を獲得したルーツです。当然、一方で権力側からは厄介者として睨まれる存在です。

こうして歳月をかけて形成された土壌から、江戸時代後期の社会不安に陥ると、各地で彼らは徒党(ヤクザの組の原型)を形成し、今度は賭場を開いて荒稼ぎする事例が相次ぎます。特に江戸時代は大規模な飢饉の発生により、幕府や藩への依存が急速に衰退するのですが、この隙間でアウトローが躍動し、あっという間に文化として全国的に高まります。何よりも彼らは規制の厳しい江戸時代において、統治機構の外部に所属する者であったため、当時の村落ごとに登録されていた名簿にも記載されない存在、つまり「存在しない存在」でした。この特殊な状況を積極的に利用し、公的にはどこにも所属しない人々が躍進したのです。

次回は、これが近代ヤクザに繋がる流れを見ていきます。