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長谷川等伯 能登から京都へTohaku Hasegawa - Japan's Legendary Painter from Earthquake-Stricken Noto

2024年正月に起きた能登半島地震。一年以上経っても未だ復興していませんが、かつてこの地から、日本の絵画史で最高峰の絵師が登場しました。それが、私も敬愛してやまない長谷川等伯(1539~1610)です。能登国七尾(現在の石川県七尾市)の生まれである等伯は、染物業を営む長谷川家の養子となり、地元で仏画や肖像画を描き始めて絵の才能を発揮します 。

地元・能登での成功では満足できなかった彼は、養父母の死去をきっかけに京都への上洛を決意します 。まず、当時の京都画壇の状況を見ると、室町時代(1336-1573)以来の伝統を誇る狩野派と土佐派が権勢を振るって争っていたことから、地方出身の新参者が入り込む余地は全くありませんでした。それでも等伯は33歳で単身上洛し、まずは自身の菩提寺である日蓮宗本法寺を拠点に絵師としての活動を静かに開始します 。この孤軍奮闘の時代には、本法寺住職の日通上人を通じて、有力者であった千利休・津田宗及などの茶人が彼の才能を讃えて支援しました。このため、狩野派と土佐派の圧力に屈することなく、新たなチャンスを次々と手にすることができたのです 。

しかし、等伯はそれまで自らが培ってきた伝統様式だけでは、京都では通用しないことを痛感します。そこで当代随一のエリート集団であった狩野派の画風を研究・吸収して自らの表現を磨くことに専念。こうした努力と人脈を糧に、等伯は次第に京都で頭角を現し始めました。

ですが当時は、狩野派から一族最高峰の才能を有する狩野永徳(1543-1590)が登場した全盛期です。永徳を中心に武将・織田信長や豊臣秀吉らの庇護を受けて、狩野派は京都画壇の頂点に君臨していました 。永徳は祖父・正信、父・元信から受け継いだ革新的な「大画様式(ダイナミックな構図と金碧障壁画の豪華さ)」をさらに推し進めます。こうして狩野派は永徳の元で、有力者の「御用絵師」として絶対的な地位を築いていたのです 。一方で、能登出身の等伯は無名の地方絵師に過ぎません。実力は十分でも、狩野派を凌駕する仕事を手掛けなければなりませんでした。

精力的に制作を重ねる中で独自の才能を発揮し始めた等伯は、やがて豊臣秀吉の御前で作品を描くほどの存在へとのぼりつめます 。当然ながら、この地方絵師の台頭は、既存勢力の狩野派にとっては最大の脅威であり、「目障りな新興勢力」と映ります 。両派の不和は様々なエピソードとして語り継がれており、例えば1590年、秀吉主導の仙洞御所造営に際して、御所内の襖絵制作をめぐり、長谷川等伯と狩野永徳が激しく衝突したと伝わります 。造営責任者の前田玄以は、当初は等伯にこの襖絵を任せようとしましたが、御用絵師の立場にあった永徳は、息子・光信らと共に朝廷に直訴し、等伯に仕事を回すのは迷惑として撤回させています 。

実はこの前年に、千利休が施主を務めた大徳寺三門の壁画制作に等伯が抜擢されたため、等伯の名声は京都の有力者界隈で一気に高まっていたのです 。これは狩野派と縁深い大徳寺での大仕事であったため、新興の長谷川派が割って入ったことに永徳は激怒し、あらゆる手段で等伯の進出を阻もうとします 。こうした確執は、少なくとも両者が友好関係ではなかったことを物語っています。しかし、熾烈な競争の最中、1591年に永徳が48歳で急逝してしまいます。強力なライバル亡き後、時代は豊臣政権下に移ったため、障壁画制作の主導権を巡り、実権を失った狩野派に対して、長谷川派が台頭する余地が生まれたのです。

等伯が京都で台頭できた要因の一つには、狩野派が分業や、総力戦で多面的な創作を行う伝統的手法であったことに対して、等伯は「一人で全てを表現した」稀有な存在だったことがあります 。同時代の画家は、一つの流派や様式に縛られがちでしたが、等伯は既成の伝統や様式にとらわれない新たな表現を追求し続けたのです。そのため、等伯は当時流行していた金碧障壁画だけでなく、大和絵の伝統や水墨画の技法にも通じており、仏教絵画や肖像画、花鳥画から山水画に至るまで幅広い作品を残すことができました。

こうして自らの技術だけで狩野派・土佐派を凌ぐ名声を獲得した等伯が、晩年に描いたのが国宝《松林図屏風》です。これは六曲一双の水墨画で、霧に煙る松林が静寂な「余白(yohaku)」に描かれている最高傑作です。この制作背景には、最愛の長男であり、後継者であった久蔵を26歳の若さで失ったことが関係しています。特に久蔵の絵画の腕は等伯をも凌ぐと当時から評価され、早くから才能が注目されていました。この急死は原因が定かでありませんが、一説には狩野派の一味が長谷川派の台頭を拒むために、後継の久蔵を暗殺したとも言われています。

この等伯が直面した現実の喪失感が、《松林図屏風》制作の直接的な動機になったとも考えられています。権力者の注文で制作する従来の障壁画とは異なり、《松林図屏風》は特定の依頼主を持たない作品であり、本来は壁画の下図だったものを屏風という独立した形式に仕立て上げた可能性も指摘されています 。等伯は、あえて既存の構図の連続性を断ち切り、画面の左右に未完にも見える「余白」を残すことで、果てしなく広がる松林の情景を生み出しました 。そこには、計り知れない悲嘆を経た等伯自身の内なる風景が投影されているのでしょう。鬱蒼と立ち尽くす松の巨木、立ち昇る靄に包まれた空気感は、等伯の郷里・能登の海岸に広がる松林を想起させます。

こうして、たった一人で長谷川派という系統を京都で打ち立てた等伯ですが、才能ある久蔵の早逝により、長谷川派の栄華は長く続きませんでした 。狩野派という巨大勢力に真正面から挑みつつ、時代の空気を全身で受け止めて独自の芸術を生み出した長谷川等伯。その生涯には、地方出身者が中央で成功を収めるサクセスストーリーとともに、時代の波に翻弄され家族を失う悲哀、そしてそれらを乗り越えて普遍的な美を追求した芸術家の想いが刻まれています。等伯の作品はまさに彼の人生そのものと融合し、見る者の心を今なお揺さぶり続けているのです。

実は、現在も地震の影響で休館している石川県七尾美術館の発表では、秋頃に復旧が終わり、新たな出発として特別展を開催、そこで長谷川等伯の《松林図屏風》を公開すると発表されています。もし、読者がその時期に日本を来訪しているなら、長谷川等伯の魅力を肌で感じましょう。