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古代山陰の謎(古代出雲 その1)Unlocking Ancient Japan's Mysteries in San'in

この一週間で、広島、大三島、岡山、鳥取、島根各地を巡り、瀬戸内から山陰地域の様々な調査を行なってきました。今回の旅では古代日本史、民藝、江戸時代の先鋭的な儒者を探究する目的があったのですが、中でも多くの知見を得ることができたのが、古代日本の山陰地域の実態です。

山陰とは鳥取、島根の日本海側地域を指すため、西洋では観光地として有名な島根の出雲大社、鳥取の鳥取砂丘以外はほとんど知られておらず、あまり注目されない地域といえます。これらの地域は今日では極端に衰退していることから想像し難いのですが、古代日本では最重要の地域の一つでした。つまり、古代日本史に関心のある読者が日本に旅をするならば、山陰に足を運ぶことをお勧めします。

そうした古い歴史があるにも関わらず、二十世紀を通じて発展した考古学などの学問は、基本的には山陰を重視してこなかった歴史があるため、今も多くの謎に包まれています。そこについて二回に分けて示していきます。

縄文、弥生、古墳という三つの古代日本史の重要な舞台となった山陰では、様々な人々の文化圏が混在しながら複雑に形成されたことから、実態を掴むことは容易ではありません。まず、山陰の地理的な側面に目を向けると、古代日本で中国や朝鮮からの渡来ルートとして主要な玄関口であった九州北部と近いことから、外来文化が流入すると比較的早い段階で影響を受けたことが分かります。それだけに限らず、同時に九州北部を経由せずに直接山陰に渡来してきた集団も、当時はかなり居たことを考えなければなりません。

さらに外国からの影響に限らず、日本各地の文化圏が集結する特異な場所としても山陰は機能していました。現在の日本は東京・大阪・名古屋などの太平洋側に都市が多く、人口数も圧倒的であることから見過ごされていますが、かつての日本は日本海側に都市が多く、海路を通じて広範囲な交易が行われて非常に栄えていました。そこで活躍したのが、海を往来する部族です。主に九州北部の宗像市、志賀島一帯には航海に長けた二つの異なる部族が縄文時代に存在したのですが、彼らが全国各地に進出する過程で交易が拡大していきます。

山陰は特に弥生時代に大きく栄えたのですが、これはここ30年ほどで判明しつつある新しい歴史認識です。それ以前には、山陰と弥生時代はほとんど関係がないと考えられてきました。しかし、不思議なことに古墳時代に入ると山陰地域は衰退して、多くの痕跡を山陰の部族自らが消し去り、主な歴史の舞台は奈良や大阪などの関西地域へと移り、それ以降、京都へと軸が移っていきます。その後、日本の重要な歴史に山陰はほとんど登場しないため、今も全貌の解明には至っていません。

山陰には日本最古の神社の一つである島根県の出雲大社があることから、元々は縄文時代研究に注力されてきました。これは古事記や日本書紀の記す神話で出雲を舞台とする巨大な勢力が存在した痕跡が古くから考えられてきたことと、さらに山陰では弥生時代の主な発見がなかったことが原因です。そのため、出雲大社を筆頭とする山陰の勢力が大発展を遂げたのは、縄文時代だという認識は広く知られており、弥生時代以降は、さほど重要ではなかったのではないかと考えられてきました。

しかし、20世紀末から21世紀初頭にかけて、こうした歴史観が覆ります。いくつもの偶然が重なり、従来の考古学的定説を覆す弥生時代の遺跡や遺物が次々と発見されたことで、古代日本史は大きな見直しを迫られたのです。

現在、新たに注目されているのは、弥生時代の古代出雲には、当時の日本で最大規模の王朝が存在した可能性です。現在では島根県東部の松江一帯に広がる全長45kmに及ぶ巨大な宍道湖ですが、古くは西部の出雲にまで広がっており、さらに日本海沿岸部の出雲大社南側には、巨大な神西湖という日本海に繋がる別の巨大ラグーンが存在したことが判明しています。

ちょうど現在の出雲大社の『Seidamari(勢溜)』という神社境内の入り口となる鳥居から南を眺めると、観光客用の店が立ち並ぶShinmon Street(神門通り)が見えますが、そのストリートを良く見ると、急勾配になって南に向かって降っていることが分かります。つまり、出雲大社は丘陵地帯に建立されており、その眼下が元々はラグーンだったということです。実際、さまざまな地形データを参照しても、出雲大社の場所だけは縄文時代からずっと陸地です。これらは出雲大社が古代の山陰内陸部へ向かう玄関口であり、同時に重要な要所だった歴史を示唆しています。

さらに出雲大社の神官に伝わる古い伝説では、古代出雲大社の本殿は現在よりも遥かに巨大であったとされており、高さは48mにも及んだと伝えられてきました。現在の出雲大社の本殿も日本の神社の中では一番高いのですが、その高さが24mほどですので、ちょうど倍近くの規模だったと考えられます。これについて、江戸時代頃には既に現在の規模にまで縮小していたことから、それが単なる伝説なのか否かの真偽が盛んに議論されてきました。また、近代に入ると科学者たちは、こうした伝説を空想だと捉える見方が強くなってしまい、確たる証拠が見つからなかったことから無視されて忘れられます。

しかし、2000年に状況が一変します。出雲大社の本殿近くから偶然にも信じ難いほど巨大な柱跡が出土したのです。さらに出雲大社の宮司を務める一族が代々継承してきた古い出雲大社の設計図と完全に一致したことから、単なる伝説ではなかったことが判明し、人々を驚かせます。それらは年代測定の結果、鎌倉時代の1248年に出雲大社が建て替えられたという記録とも一致したことから、かなり巨大な構造物が13世紀の時点で存在したことが証明されました。この柱跡は出雲大社の横に開設されたShimane Museum of Ancient Izumoで見ることができます。

この発見は部分的であることから、出雲大社境内には今も、鎌倉時代以前のさらに古い痕跡が地中に埋まっていることが想定されます。そして、この大発見を契機に、古代出雲に存在した高層神殿への関心が急速に高まります。古代出雲の高層神殿は、世界でも例がない建造物であり、出雲に固有の高度な技術を持つ人々がいた可能性があります。

つまり、日本海から島根に入る際のメインルートとなる海路の入り口には、かつて巨大な高層神殿が建っていたのです。周辺には障害物もないことから、古来、海を伝って出雲に来訪する人々は、この巨大な高層神殿がはっきり見えたと考えられます。その機能は定かでありませんが、仮に弥生時代の高層神殿だと考えると、朝鮮・中国からの渡来、さらには日本列島各地の部族が海を伝って出雲に来訪する際の目印であり、同時に侵略を抑止するための『結界』だったと考えられます。こうした目に見えないスピリチュアルな信仰は、弥生人の持つ特性の一つです。

そして興味深いことに、この古代出雲が繁栄していた痕跡は今も実際に感じることができます。それが旧暦の10月10日から一週間ほど出雲大社で行われる、全国各地の神々が集う『神迎祭』という日本最古の神事です。神迎祭では各地から無数の神々が海を伝って船で出雲に来訪します。それを神職たちは出雲大社西部の稲佐の浜という海岸で日が暮れると火を焚き、来訪する神々を迎え入れて、出雲大社に案内して一週間かけて歓待します。

ちなみに日本人は旧暦でこの一ヶ月を今も『神無月』と呼びますが、これは各地の神が出雲に向かうため、多くの土地から「神が居なくなる月」を意味する古い言葉です。ですが出雲では逆に神々が集うことから、出雲だけは『神在月』(神々が居る月)と呼びます。このように日本の古い呼称は、わたしたちに古代の「真実」を伝えているのです。

一体、古代出雲はどのような世界だったのか?そのロマン溢れる太古の実態が、膨大な研究によって徐々に明らかになりつつあります。それについて次回はお伝えします。

Unlocking Ancient Japan’s Mysteries in San’in