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古代出雲(2)山陰の弥生遺跡と青銅器Ancient Izumo, Part 2: The Bronze Hoards of the San'in Region

昨日はPart1として、出雲大社を中心に古代出雲の洞察を行いました。それに引き続き、今回は古代山陰地域(島根と鳥取の日本海側)の実態を開示すべく、出雲大社近郊の島根県で発見された驚くべき遺跡について紹介します。

2000年に出雲大社の境内から古代の高層神殿の柱跡が発見されたことで、伝説として無視されていた古代日本の実態が急速に浮上しました。その時代を前後して、現在よりも巨大だった古代島根の宍道湖や神西湖を囲む丘陵地帯からも、次々と驚くべき大発見が相次ぎます。

まず、1997-2000年にかけての調査で、松江側の宍道湖を見下ろす田和山の山頂から、三重に環濠を巡らせた弥生時代の遺跡が発見されます。この発見は付近に病院建設計画が立ち上がったことから、事前調査した時に起こりました。この遺跡が興味深いのは、一般的に弥生時代の環濠集落では環濠内に住居が設置されるのですが、なぜかこの遺跡だけ環濠集落の外に住居が設置されており、極めて特殊な構造をしています。

そして田和山から西側の山岳地帯にかけても古代日本史を覆す出土が相次ぎます。358本もの銅剣、16本の銅矛、6個の銅鐸が出土した弥生時代の荒神谷遺跡が、1984年の農道建設時に偶然発見されました。遺跡は険しい丘陵部から発見されています。

ここで注意が必要ですが、弥生時代における銅剣、銅矛、銅鐸は戦闘目的では使用されず、祭祀用途に用いられた青銅器であり、これらの品々が弥生時代の主な特徴です。荒神谷遺跡から発見された青銅器は、一箇所に埋葬された数では全国最多であったことから衝撃を与えます。それ以前まで、島根県には弥生時代の遺物が少ないという定説が一般的であり、ほとんど関心がもたれなかったのですが、この出土によって歴史の見直しが要求されます。

さらに12年後の1996年には、荒神谷遺跡から山々を挟んで直径距離で3.3kmしか離れていない谷間深くの丘陵にある加茂岩倉遺跡が、こちらも農道建設の際に発見されます。ここでは弥生時代の銅鐸が39個もまとまって出土したのですが、これも一箇所に埋葬された銅鐸の数では全国最多であることから注目を集めます。

そして荒神谷遺跡から加茂岩倉遺跡は山々の反対側に位置しているのですが、実はこの時、これらの尾根を伝って行き来する弥生時代の古い道が発見されました。面白いことに、その道は二十世紀まで土地の人々が日常的に使っていた山道でしたが、誰もそれが弥生人の開いた道だとは知らなかったのです。

発見されたこれらの青銅器は、銅、錫、鉛などの合金を素材とする祭祀に用いられた弥生時代の遺物です。興味深いことに、これらの遺跡で出土した青銅器の鉛の分析調査を行った結果、この鉛が日本産ではなく、朝鮮と中国の華北産であることが判明します。しかも、同じ場所に埋葬されながら、ある銅剣は朝鮮産の鉛、別の銅剣は華北産の鉛と産地が分かれていました。ちなみに銅がどこから持ち込まれたかは未だ判明していません。

弥生時代の青銅器製造は極めて複雑です。主に中国を経由して朝鮮で生産された青銅器が日本に持ち込まれたという見方が強いのですが、わずかに日本国内で青銅器製造が行われた痕跡が発見されています。特にここで紹介した地域の青銅器は数が多く、幾つかの青銅器の上部には「x」の刻印が共通して見られることから、この地域のどこかに専業の製造集団が存在し、彼らの製造であることの証明として「x」が刻印されたことが考えられます。未だこの製造拠点は見つかっていませんが、その可能性は高いでしょう。

これらの発見から考えると、古代出雲(現在の出雲市から松江市までの国)は日本列島の別の国々に限らず、朝鮮や中国など近隣諸国との積極的な関係があったことが分かります。実際、当地域の人に話を伺うと、銅鐸が発見された加茂岩倉遺跡付近の集落では、発見以前から古代の財宝が埋葬されているという伝説が古くからあったといいます。1996年までは単なる伝説に過ぎませんでしたが、その集落から山間の谷を入った辺鄙な場所で見つかりました。

そしてこれらの遺跡から少し西側の丘陵には、西谷墳墓群と呼ばれる弥生時代後期から古墳時代頃の墳墓が27個も発見されます。こちらは1953年に多量の土器が発見されたことから遺跡であることは知られていましたが、まさか巨大な墳墓が無数に存在するとは誰も考えませんでした。ですが1983年から2018年にかけて何度か調査が行われた結果、これまで例のない形状の墳墓が丘陵の山頂にあることが判明します。

その形状は、四角形の構造に四隅が飛び出た墳墓です。この形状は出雲にだけ存在する特殊な墳墓であり、墓の構造や出土品が調査された結果、かつて出雲を統治していた王の墓だということが判明しています。いわば、出雲の王家の墓です。

このように主な事例を列挙するだけでも、出雲大社を入り口として古代の湖に入った丘陵部周辺には、弥生時代の遺構や遺跡が多く存在しており、かなり巨大な勢力が統治していた痕跡が見えてきます。しかし、ここで不思議なことがあります。私は古代日本史を探究する旅を続けてきたので分かるのですが、弥生人は基本的には穀物栽培の定住型をライフスタイルとしているため、平地を生活圏にする習性があり、谷の奥地に入るような傾向はこれまでの調査では全く知られていませんでした。

一体、なぜ出雲地域の弥生人に限って、谷の奥地の丘陵部に祭祀用の青銅器を埋葬したのでしょうか?今回は遺跡から見る太陽の動きなども観察してきましたが、方角としては太陽が昇る東とも沈む西とも関係なく、むしろ誰にも発見されないように場所が慎重に選定されたように思います。そこでこの謎を解明する鍵となるのが、日本ではなく古代中国の哲学です。

まず、加茂岩倉遺跡における銅鐸の埋葬方法は、奇妙なことに二つの穴の一方にだけ全ての銅鐸が丁寧に並べて埋めていましたが、もう一方には何も埋められていませんでした。このことから、この銅鐸を埋めた人々は、日本古来の思想とは異なる、古代中国の陰陽論の考え方を用いていた可能性が指摘されています。また、銅鐸の埋葬地が谷の深い場所であることから、陰陽論に精通していた道教の開祖・老子の思想との関連が指摘されていることも見逃せません。

老子は、谷には谷神が居ると考え、「谷は万物生成の源であり、尽きることはない」と生命と谷の深い関係を説いています。弥生人以前の縄文人には谷を信仰した形跡は見られず、弥生人の大半もそうした傾向を持っていません。

これらを総合的に考慮すると、山陰内陸部に入る玄関口となる出雲大社を経由して進出した、中国や朝鮮にゆかりのある人々が、この地に古代中国の知恵を限定的に持ち込み、この地域の人々がその影響を受けた可能性があります。この時、その人々が海の向こうから来たのか、それとも新たな哲学に影響を受けた土地の人々だったのか、はたまたその重なりだったのかなど多様に考えられますが、この辺りは一切不詳です。ただし、遺物から察すると、出雲側と松江側とでは、異なる文化の重なり方があったと考えられます。

さらに古代中国や朝鮮からの影響に留まらず、ここ30年で立て続いた山陰での発見によって、何と古事記や日本書紀の神話が太古の歴史事実の一端を伝えていることまでもが明らかになってきたのです。

一体、太古の出雲で何が起きたのか?

なぜこの地域の弥生人は突如、祭祀の青銅器を一箇所に埋葬し、続く古墳時代になると忽然と姿を消したのか?

その謎多き問いを解く鍵を握っているものこそ、前回お伝えした未だ発見されていない地中に眠る出雲大社の古代高層神殿跡なのです。この存在が発見されれば、山陰を経由して奈良(かつて大和と呼ばれました)に進出してきた未知の人々の動きが見えてきます。その時、古代日本史どころか、天皇史の定説は完全に覆されるでしょう。

今後も私の古代日本史を巡る旅は続くため、ロマンある古代日本の実態を読者に伝えていきます。