縄文時代研究が世界有数の成果を上げた背景How Jomon Archaeology Rose in Twentieth-Century Japan
日本の古代史にとって最も重要となる縄文時代の研究が、考古学の先史時代研究において、世界有数の成果をあげた20世紀の特殊な背景についてです。
読者の方々は、日本の時代区分における「縄文」という言葉が、何に由来しているかご存知でしょうか?
実は、縄文という言葉は「土器の紋様」に由来しています。日本では太古の時代の土器や遺物自体は江戸時代ごろから頻繁に発見され、記録されていました。しかし、本格的な学問での調査が始まったのは、日本における西洋化の潮流以降です。それは明治時代ですが、この時、特に西洋の学問における考古学が輸入されたことで研究が加速します。
最初の動きは、1877年に始まります。まず、東京都沿岸部にある大森貝塚を調査したアメリカ人動物学者のエドワード・S・モース(1838-1925)が、そこで発見した土器に縄目の模様が刻まれていたことから、「Cord-marked pottery」と呼びます。
そして1886年には、長年モースとともに考古学研究を行なっていた自然人類学者の坪井正五郎(1863-1913)が、この時代の土器の特徴を初めて「縄文土器」と命名します。坪井は日本人初の人類学者です。
さらに、日本考古学に絶大な影響を与えた考古学者の山内清男(1902-1970)は、19世紀後半の成果を踏まえて、1930年代に「縄文文化」という概念を提唱します。これが考古学で「縄文時代」と呼ばれる時代区分の源流となりました。つまり、「縄文時代」という独特の呼称が定着したのは、1930年代以降です。
山内は1937年に雑誌『先史考古学』を発行し、創刊号で初めて縄文土器の型式を細別、体系的に整理して提案します。これが現在までの縄文考古学の基礎となります。
縄文時代という呼称は日本独自の時代区分ですが、世界的には「先史時代」に相当します(一部は続先史時代とも言われます)。つまり、一般的な先史時代研究の定義とは異なり、日本の先史時代(縄文時代)の研究は「土器の模様」が基礎に据えられているのです。そして興味深いことに、日本の先史時代研究(縄文時代)は、世界的にも豊富な成果をあげてきました。
では一体、考古学が先行的に始まった西洋諸国と比べて、なぜ日本の縄文時代研究がこれほどまでに大きな成果を上げるに至ったのでしょうか。その理由は、第二次世界大戦を前後とする時代状況と深く関係しています。
特に山内が活動した1930年代後半は、日本が軍国主義を加速して、戦争に備える過渡期を迎えていました。つまり、その動きに呼応した天皇崇拝が国家的に強化された時代です。国家の求心力を高めるために、「日本固有の文化や歴史」の調査が国家的に推進されます。これが大きな成果を上げたことが、一因です。
その恩恵を受けた一つが、まさに縄文時代の研究でした。特に国民の結束を強めることと、天皇の「万世一系」説を作り上げるためには、日本の歴史が世界の古代史と並ぶ古さを持っていることを提示する必要がありました。
これは、明治時代に西洋の学問を急いで取り入れるなかで、自国の歴史を顧みる視点が薄れていたことへの揺り戻しとして生まれたものです。山内の縄文土器の編年作業が1930年代後半に発表された事は、時代の流れから見ても妥当だったといえます。
そして、もう一つの理由は戦後史にあります。戦争で多くの都市部が焼け野原となったため、1950年代頃から全国各地で新たな都市計画が加速します。この背景には朝鮮戦争があり、米軍が日本を共産主義に対する最重要拠点とみなしたことから、経済成長を積極的に後押ししたことが関係しています。
当然、住居やビルを無数に建造するためには、地盤調査などが必要です。当時の多くの地域は焼け野原でしたから、そこに新たな都市を建造するには膨大な調査が関わります。これが結果的に、驚くべき縄文時代の遺跡や遺物を発見するきっかけとなったのです。
既に1930年代から、山内は積極的に東北地方の貝塚を調査しており、縄文時代の隆盛地が東北にあったのではないかという仮説を提唱していました。しかし一方で、全国規模で無数の縄文時代の遺跡が発見されたことが、敗戦によって自信を喪失していた人々に新たな活力を与えます。これが原動力となり、「縄文時代」研究は専門家を問わずに加速します。
しかし、同時に新時代の都市計画は早急に完成させる必要がありました。そのため、全国各地で縄文遺跡が発見されても、そのたびに一々計画を中止・中断するわけにはいきません。これが原因で大半の遺跡は発見されるも、まともに調査されないまま埋め立てられてしまい、都市の地下に埋没したのです。
一部の重要とみなされた遺跡であっても、この状況は大きく変わりません。調査自体は許可されましたが、非常に短い期間で全てを行わなければなりませんでした。
こうした特有の時代背景から、日本の考古学者は一つの遺跡を集中的に調査・研究することができませんでした。何しろ膨大な数の遺跡が発見されても、到底研究者の数が追いつきません。また調査が許可されても短い期間に限られたため、成果物を次々と研究室に運んで、どんどん発表していかなければならなかったからです。
興味深いことに、この驚くべき当時の考古学者の速度感が、不思議なことに日本の先史時代研究の豊富さの源泉となったのです。
もちろん、これは縄文時代の遺跡に限らず、日本の歴史全体の遺跡の発見につながりました。その結果、何と現在では日本全国で470,000箇所の遺跡が確認されており、縄文時代の遺跡数(集落跡など)だけで約91,637箇所に及びます。
全体的な傾向としては、縄文遺跡は特に関東地方と東北地方に集中しています。そのため、日本の縄文時代の中心地域は、歴史的に日本文化の中枢を担ってきた奈良や京都などを筆頭とする西日本ではなく、東日本側にあることが徐々に判明してきたのです。