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古墳の調査と復古を生んだ蒲生君平Kunpei Gamo and the Revival of the Kofun

江戸時代後期に始まった1,500年前の古墳の調査と復古の原動力となり、大きく新時代の精神を形成した人物についてです。

現時点で確認されているだけで、日本全国には約16万基の古墳が存在します。古墳といっても、形状から大きさまで多種多様であり、全国規模で見ると、上位10件は以下のようになります。

1.兵庫県: 18,707

2.鳥取県: 13,505

3.京都府: 13,103

4.千葉県: 12,772

5.岡山県: 11,880

6.広島県: 11,334

7.福岡県: 10,759

8.奈良県: 9,663

9.三重県: 7,128

10.岐阜県: 5,218

逆に古墳が存在しない地域もあります。例えば北海道、青森県、秋田県からは発見されておらず、沖縄県でも2基が確認されたに留まります。とにかく膨大な数に及ぶ古墳ですが、一般的に注目されているのは、巨大な古墳に限られます。この巨大古墳は関西に多く見られますが、特に大阪、奈良にはその傾向があります。

最大規模の仁徳天皇陵(大阪府堺市)は、墳丘の大きさだけで486メートルあり、巨大な3段構造で作られています。この地域の古墳は、世界遺産に認定されていることから、ご存知の方も多いかもしれません。

そして、歴史的に天皇家とゆかりの深い地域である奈良、大阪に存在する古墳は、歴代天皇の名称を冠したものが見られる傾向にあります。ですが一体、遥か昔に造営されたこれらの古墳を、どのように歴代天皇の陵墓と結びつけてきたのでしょうか。

はっきり言えば、どれも根拠はありません。ただその比定において活用されたのが、日本史の正統と長らくみなされた日本書紀(720年成立)の記述であり、また土地の伝承なども踏まえられているため、あながち的外れとは言えないのも事実です。

この古墳が江戸時代後期に注目されたのは、単に珍しい古代の陵墓だからではありません。大きく時代が変動する明治維新期にかけて、天皇崇拝の1つの重要な材料となったからです。

実は幕末(江戸時代晩期)まで、これらの古墳はほとんど見向きもされず、管理も補修もされていなかったことから、どれも完全に荒廃していました。現在でも重要な古墳とみなされたもの以外の99%の古墳は荒廃しており、かつての形状を留めていません。

幕末にかけて、古墳は歴代天皇の陵墓だとみなす認識が1部の人々に広がったため、それらを全く補修・管理しない徳川幕府に対する不満が強烈に高まっていました。

こうした人々が熟読した1冊の書物があります。それが栃木県宇都宮生まれで儒者の蒲生君平(1768-1813)が著した『山陵志』です。古墳自体はそれまで江戸時代を通じて断片的に調査、報告されていましたが、体系化されたのは同著を起源とします。

蒲生君平が古墳を次々と調査し、体系的に整理した事業は、まさに生涯をかけて行われたことです。1796年に最初の調査のために京都に出向き、1799年以降は本格的な研究に打ち込みます。

さらに1800年頃には大阪にある全ての古墳を調査する旅に出向き、その成果を持って伊勢(三重県)の国学者・本居宣長を訪れて深く交流します。古事記を研究する宣長からしても、古墳の実地調査を行う君平の存在は、一目置くものでした。

以降も佐渡島(新潟県)に渡って古墳調査するなど、精力的に調査を続けますが、このことからも分かるように、君平は生粋の旅人でした。

では、その原動力には何が影響していたのか。それを知るために欠かせないのが時代背景です。特に、同じ旅人であり、日本の未来を思案して全国各地を調査し、先見的な視座を持っていた林子平(1738-1793)や、高山彦九郎(1747-1793)などと若い頃に交流した経験が大きかったと推察されます。

林子平はいち早く海防の重要性を主張し、高山彦九郎は明治維新の精神を打ち立てた人物であり、君平は彼らを訪ねて、同じく日本の未来を想う先人から多くを学びます。

特に君平が生きた時代は、子平の提言が幕府・藩・朝廷に無視された結果、ロシアが北海道に侵攻する事件がありました。これに多くの人々が憤慨し、ロシアとの国交をどうするかが盛んに議論され始めた頃です。

しかし、当時の知識人である儒者の中井履軒は樺太・千島の領有権の放棄を主張し、蘭学の医師であった杉田玄白は宥和を唱えていました。これに対して強烈な反対を示したのが君平です。彼は一貫してロシアの排撃を主張します。

しかし、ただ反対するだけでは机上の空論です。君平は自らの主張を現実的な政策にするために、まず幕府の内政を整え、人々が外国排撃に一致する言説を作ることが重要だと提唱します。

そこに子平の海防論を踏まえて、財政を立て直して海軍を充実させることを説き、軍艦の造営、さらに侍に限定されていた軍事面の役割を大きく拡大して軍隊を設立した上で、日本に侵攻する海外諸国との徹底抗戦を主張します。

ですが当時、このようなことを主張する事は、非常に危険だとみなされます。実際、君平の言動は幕府によって危険視され、幕府の意向を誹謗する行為と見られてしまい、厳刑を被る寸前になります。

この時、幸いにも幕府の要人の1人であり、徳川幕府の精神的支柱であった林述斎が君平を高く評価していたため、刑罰は免れます。こうして君平は以降、自らが調査してきた研究の書籍化に奮闘することになるのです。