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大本教の創始The Birth of Omoto: A Key Chapter in Modern Shinto

近代神道を語るときに欠かせない大本教の創始についてです。

6世紀半ばに仏教が伝来して以来、神道は非常に複雑な歴史を形成してきました。ほとんどの時代において、神道は仏教と混淆し、仏教の絶対的な影響力によって変容します。

そうした機運が変わり始めたのが、18世紀後半に生まれた「国学」という新たな学問で起きた動きであり、19世紀前半に入ると、国学者であり神道家としても優れた才覚を持った平田篤胤(1776-1843)によって大成します。

この二世紀ほどを掛けて、国学者は神道に混淆した仏教や儒教などの外来要素を取り除き、純粋な神道を打ち立てることを目的としてきました。そこに平田は極めてスピリチュアルな要素を持ち込み、神道を大きく発展させます。この意味で、平田以前の神道と以後の神道は、性格を大きく変えたことに注意が必要です。

平田による新たな神道の創始は、やがて19世紀に各地で勃興した黒住教、天理教、金光教に代表される神道の新興宗教の動きへと結びつき、やがて明治維新へと帰結します。

明治維新以後、新政府はこれらの新興宗教を公式に認め、国家的に布教の認可を付与します。この時代は不安定な社会情勢が続いたことから、大勢の人々が既成宗教ではない、新たな導きを求めたため、各教団の信者数は爆発的に増加します。

そうした中で、19世紀後半になると、新宗教の総集とも言うべき、象徴的な出来事が京都府綾部という山間部の村落で生じます。

1892年、出口なお(1837-1918)という女性に神憑りが起きたことから全ては始まりました。これによって出口なおは「世界の立て替えと立て直し」を宣言し、「筆先」と呼ばれる自動書記(神が人の手を借りて文字を記すこと)を行います。

筆先は、彼女が死去する1918年までの約26年続き、最終的に文量は「半紙で20万枚」にも及びました。出口なおは当時の多くの村落地域の人々同様、学問の機会がなかったため、文字を読むことも書くこともできませんでしたが、神の力を借りて凄まじい文量を書き上げます。

興味深いのは、これらの筆先が漢字を使わず、ひらがなだけで書かれたことです。そして筆先の多くは予言書です。特に日清戦争(1894-1895)を予知したことで、当時から非常に重要な神の警鐘として受け止められました。

また出口なおの不思議な力によって、多くの人々の病が治癒したり、奇跡現象が相次ぐなど、あっという間に綾部の出口なおの噂は各地に伝播し、多くの信者を獲得します。

しかし、出口なお自身が宗教教団を作る事はありませんでした。ここで大本教(正式名称は大本)が成立するために、1人の重要な人物が登場します。それが、上田喜三郎(1871-1948)という若者です。

喜三郎は、綾部から南にある京都府亀岡の農家に生まれ、血気盛んで問題児だったことから学校を退学させられ、青年時代は職を転々とし、複数の事業を始めるも全て失敗して、不遇の時代を過ごします。ようやく1896年、26歳の時に牛乳販売業で初めて成功しましたが、それまでほとんど宗教に興味を持ちませんでした。

ですがその頃、喜三郎は父を失い、喧嘩に明け暮れ、祖母にも愛想をつかされるなど、多くの出来事が一挙に起きたため、過去を一新して、宗教家への一歩を踏み出す決意をします。そして1898年に霊力を駆使する不思議な人物と出会い、亀岡の高熊山で1週間の修行を行っていたところ、強烈な神秘体験を得て、自らの使命を悟ります。

こうして自らを「救世主」と自覚した喜三郎は、事業を弟に譲り、神道のスピリチュアリティーを獲得するために、各地を巡り、様々な人々に教えを請いました。この過程で平田篤胤由来の新たな神道を熟知した喜三郎は、自ら亀岡近辺の園部と言う地域で布教を開始します。

そして翌年、神に導かれて喜三郎は出口なおの元を初めて訪れ、彼女の娘の1人である出口すみこと結婚し、大本教の発展に尽力することになります。こうして上田喜三郎は、名前を改めて「出口王仁三郎」と名乗り、戦前の日本に強烈な影響を与える存在となっていくのです。