日本への禅の伝来と広まり:栄西The Arrival and Expansion of Zen in Japan: The Legacy of D.T. Suzuki and Its Historical Roots
この記事では、鈴木大拙に象徴される禅が、どのように日本に伝来し、広まったのかについての知見を深めていきます。最初は、初めて日本に禅を伝来した僧侶が生きた時代についてです。興味深いことに禅は、侍の権力が高まる新時代に呼応して発展していきました。
日本の禅の歴史において、最初に臨済宗(禅の主要な宗派)を伝えたのは、栄西(1141-1215)です。栄西は腐敗していた日本の仏教、僧侶から脱するため、1168年に当時絶大な影響力を誇った中国の宋に渡ります。1168年は、日本では武家政権が貴族政治を打倒し、強大な力を獲得する初めての時代であり、ちょうど政権を掌握した平家を率いる平清盛(1118-1181)が、病に倒れて出家を決めた春でした。
宋に渡った栄西は一旦帰国しますが、この時、すでに平氏による政権は不安定となっており、彼は1185年に再び宋に渡ります。次に帰国したのは1191年ですが、すでに平氏の覇権は崩壊し、新たに政権を掌握した源氏を率いる源頼朝が神奈川に鎌倉幕府を開く前年でした。栄西が初めて宋に渡ってから、わずか20数年の間に日本は大きく変わったのです。侍が躍動する時代に突入していました。
一方で、深刻な問題が栄西の前に立ちはだかります。既に日本の僧侶の腐敗は最高潮に達しており、もはや宗教としての道は完全に失われていたのです。これは宋の僧侶たちの自由闊達な姿を目にした栄西にとって、見過ごせない大問題でした。
そこで栄西は新たな希望を示すべく、宋より持ち帰った禅を日本で初めて講義します。その記念すべき最初の地となったのが、長崎県の平戸です。そこで禅を広めた栄西は、その後、京都に向かい、従来の仏教宗派とは異なる新たな宗派(禅)を樹立する計画に着手します。しかしこの時、既得権益を有する僧侶たちは猛反発し、栄西の試みに対して妨害を始めたのです。
そうした妨害を受けながらも、誰よりも経験を積んできた栄西は、この対立を緩和するために、既成仏教の教義と一定の妥協を試みると同時に、朝廷に近づき援護を求めます。栄西の意図としては、朝廷の決定があれば、いかなる僧侶も黙るしかないからです。ですが、その見立ては甘いものでした。
既得権益が強く、機能不全に陥っていた京都では、彼の思う通りにはならず、日に日に僧侶の反発と敵意だけが強くなり、やがて暗殺を危惧する不穏な状況に陥ります。そこで栄西は京都での活動をやめて、新興勢力が中心となって反京都の気風を持っていた、源氏の本拠がある鎌倉に向かいます。
京都の天皇に寄生する貴族や公家などは、比叡山や奈良の僧侶と関係が非常に強く、完全に癒着していたため、打開策は見つかりませんでした。しかし、鎌倉は源氏を率いる源頼朝が幕府を開いたように、自立的な侍の気骨を強く持っており、京都とは全く異なる新時代の雰囲気がありました。
そして栄西は、鎌倉幕府の第二代将軍である源頼家(1182-1204)に拝謁することを許されます。さらに頼家の母であり、初代将軍の源頼朝(1147-1199)の妻であった北条政子(1157-1225)は、栄西に感銘を受けて、禅に帰依します。これにより、1200年には鎌倉に臨済宗の寺を初めて建てることを許可されました。
こうして建立されたのが、神奈川県鎌倉市に残る寿福寺です。ここで時の有力者からの信頼を得た栄西は、源氏の強力なバックアップを得て、2年後には京都に建仁寺を建立することができたのです。なぜならば、破竹の勢いを持つ源氏を、朝廷の為政者は止めることができなかったからです。
源氏からの強力な援護を受けた栄西は、その後、京都の朝廷からも京都市東部にあった法勝寺(15世紀頃に廃寺)の塔を建立する責任を任されます。そのプロジェクトに見事に成功したことで、栄西は朝廷から「権僧正」という僧侶の高い位を得て、これを機に禅の普及を始めます。しかし、惜しくもすでに高齢であった栄西は死去してしまい、日本に禅を布教する志は道半ばで終わります。
このことから、禅の最初の伝来は栄西によってもたらされましたが、むしろ彼は政治的に時の既成仏教と折衷しながら、布教を試みていたことがわかります。そのため、純粋な禅の雰囲気は、日本に根付きませんでした。
しかし、栄西が死去した年、日本で禅を確立することになる重要な人物はすでに生まれていました。それが栄西が死去した時、京都の建仁寺において、栄西の弟子に学んでいた16歳の若者でした。その名を、道元禅師と言います。