禅の悟りと白隠:今に響く覚醒の道Zen Satori and Hakuin: A Path to Awakening That Resonates Today
この記事では、日本で停滞していた禅を、次のステージに進めた禅僧の白隠が、どのように悟りを完成させたかについてです。
江戸時代中期の禅僧として、絶大な影響を及ぼした白隠慧鶴(1686-1769)は、臨済宗の中興の祖として、今も高い評価を受けています。臨済宗はもともと中国の禅宗五家の一つです。これは「臨済・潙仰・曹洞・雲門・法眼」から構成され、日本、中国、台湾、朝鮮に広く影響を及ぼしています。
臨済宗は、中国の唐代末期の禅僧・臨済義玄(?-867)によって打ち立てられた宗派です。日本に臨済宗が伝来し、大きく発展したのは鎌倉時代と伝えられています。この伝来の主軸を担った人物が、以前の articleで紹介した禅僧の栄西(1141-1215)です。彼は宋に渡り、中国の禅僧が行う喫茶文化に強い感銘を受け、日本に喫茶文化を持ち込みました。
臨済宗は禅宗の一つとして発展しましたが、日本では「臨済宗・曹洞宗・日本達磨宗・黄檗宗・普化宗」から構成されます。臨済宗は現在までに14の宗派に分岐しましたが、今も国内の臨済宗の信者数は、推定で198万人に及ぶことが知られています。
特に臨済宗は、鎌倉幕府や室町幕府などの武家政権と強く結びついたのに対し、曹洞宗は地方や民衆に広まりました。実際、鎌倉から室町時代にかけて、臨済宗の地位と影響力は絶大であり、さまざまな文化に大きな影響を与えています。しかし、絶大な影響力を誇った臨済宗は、室町幕府の開祖であった足利氏が織田信長によって滅亡に追い込まれたことで、一気に衰退します。
こうして、しばらく臨済宗は力を失いましたが、江戸時代に入ると復古します。その原動力となったのが白隠でした。
ですが、白隠は最初から悟りを得ていたわけではありません。彼は若い頃、「この五百年で世界に自分ほど悟りを徹底した者はいない」と豪語し、非常に強いプライドと優越感を持っていました。自らの知恵をひけらかすために各地を巡り、さまざまな僧侶や学者と論戦を行い、相手を論破することによって、傲慢な慢心に陥ります。
そんな時、有頂天になっていた白隠は、ある優れた人物の名前を聞きます。その人物は信州に隠棲していると聞き、白隠はすぐに信州へ向かいました。その人物こそが、正受(道鏡慧端)です。
正受に出会った白隠は、これまでと同じように相手を論破するつもりで議論をふっかけます。しかし、正受はある言葉をもって、白隠の慢心を打ち砕きました。
正受は、白隠は「学得底(がくとくてい)」を持っているに過ぎず、本当に人格にまで高めた悟りを得たならば、「見性底(けんしょうてい)」を持ってこいと喝破します。
ここは理解しやすいように、現代の言葉で解説します。正受が白隠を批判した「学得底」とは、例えば語学ができる、社会問題に詳しい、労働問題に通じているなど、いわゆるアカデミックな知識だけを持ち、それによって世界を論じられるとする態度です。
これは現在の知識人にも多く見られる傾向ですが、こうした知識を尊いものと考える態度そのものが問題だとされます。なぜなら、「学得底」の人々は、自らが他人より優れていると自負し、また人々もそうした人々を優れていると錯覚するからです。
一方で「見性底」とは、知識は人格に高めることを通じて、生活を純粋にするためのツールに過ぎないと捉えます。そのため、何よりもまず、自らの迷いを統一し、本当の自分に還る努力を実現します。
この言葉を、現代の知識人の多くが今一度聞くべきことは明白でしょう。なぜなら、単なる知識の優越は、中国や日本の思想においては、最も軽蔑される次元のものだからです。
白隠は、正受の言葉を受けて強烈に感銘を受け、遂に迷いから目覚めます。そして白隠は、その後、正受を師匠とし、本来の自分に還るための修行に徹しました。そこから白隠は、老婆に箒で叩き回された際に一つの悟りを得ますが、今度は過度な修行に明け暮れたことで再び行き詰まります。これを後に白隠は「禅病」と呼びました。現在を見ても、鈴木大拙を経由して禅に触れた人々も、この禅病に陥っています。
この時、白隠は京都の山中の岩窟に住む白幽子という仙人に出会います。白幽子は数百年生きたとも伝えられる人物ですが、迷いを持つ白隠に秘法を授けました。これによって白隠は禅病を脱し、さらに白幽子の手ほどきを受けて、『中庸』『老子』『金剛般若経』など、仏教に限らず儒教の「道」も深く学びます。
こうして修行を続けた白隠は、ついに42歳の時、コオロギの鳴き声を聞いて悟りを完成させたのです。かつて孔子は「四十にして天命を知る」と述べたと言いますが、白隠もまた、40歳を超えて悟りを知ったのです。